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国際交流・留学にすぐには役立ちそうにない教養講座⑫


ー世界に「日本が存在していてよかった」と思ってもらえる日本に…

 

 

No.12 重ねて「孫文のいた頃」

 

前回、「神仏判然(分離)令」を説明するために、その予備・必須知識としての「神仏混淆の歴史的由来」をほぼ全て司馬遼太郎の「この国のかたち」からの引用により整理しました。

 

そして結局見えてきたのは「神仏判然令」は大失敗であったのではないか…ということでした…我が敬愛する中国の「文化大革命」も少し似ているような気もします…隣国のつい150年前の失敗と同じようなことを、わずかその100年の後に「良かれ」と思い、してしまうのが、我々人間なのかもしれませんね‥

 

考えているのは「明治維新」です…「新しい国家建国の理念・正当性」を安易に「神仏混淆の排除」による「国家神道の確立」により進めようとしていたということでしょう。

 

これによる日本各地の寺院における「廃仏稀釈」の例は前回でもあげました。例えば隠岐では100余りあった寺がすべて無くなり、奈良の興福寺では2,000体以上の仏像が破壊され、宮崎県では428寺が廃寺となり120寺しか残らず、南九州で1000以上が廃寺になり、佐渡は幕府領であったためか539寺を80寺に廃合、富山藩でも領内の313寺を各宗1寺のたった8寺にしてしまう計画もあったといいます。

 

そしてこの動きは仏教寺院だけではなく、宮中と民間信仰神社にまで影響しますが、以下宮中と民間信仰神社の2ケースを下記に挙げます。

 

朝廷と仏教の関係をふりかえると、国家としての仏教は、欽明天皇(509-571)の時に当時の日本に受入れられ、用明天皇(540-87)「天皇仏法ヲ信ジ、神道ヲ尊ス」(日本書記)があり王朝において仏教を公認、推古天皇(554-628)の「三宝(仏教)興隆の詔」(594)があり、聖武天皇(701-756)の東大寺建立、国分寺、国分尼寺を全国に建立(741)さらに東大寺大仏建立(743)と、営々と「国家仏教」、「仏教による鎮護国家」の歴史がありました。

 

当然、朝廷、宮中においてもそれ以降深く仏教は関わり文字通り日本の国の中心で「神仏混淆」の様々な行事が行われていたわけですが、その宮中においても「仏教の排除」が行われました。

 

■宮中の祭儀における廃仏毀釈―1

「こうした仏教の勢力と天皇および神社がどうのように対応していったかについては、最近、研究が進みつつありますが、天皇の権威も、在来の神だけではなくて、早くから仏教と深いかかわりを持ちつつ保たれていたのだということを、はっきりと確認しておく必要があると思います。

 実際、天皇の称号が定着した持統天皇以来、江戸時代までの天皇は、二三の例外を除き、みな火葬で、聖武天皇以来仏式ですし、墓も泉湧寺をはじめ、寺院に葬られていたのです。墳丘もつくられていないので、昭和天皇のような葬儀や墓は、明治以後になって、天皇号の定まる以前の、いわば古墳時代の頃のやり方を「復興」する形ではじめられたので、これを「古来の伝統」などというは、まったくおかしいことだと思います。

 こうした仏教と天皇の結び付き方については、まだ具体的にはっきりとしないことも多いのですが、13世紀後半から、天皇が即位の時に、密教の灌頂の儀式を行う『即位灌頂』という儀式をやっていたことが最近明らかにされています。こういう密教風の儀式をやったことがはっきり確認されているのは伏見天皇(1265―1317)のときからですが、それ以前からもこれに近いことが行われていたようで、仏教的な儀式と天皇の結びつきはかなり強く、しかもそれが非常に重要な意味を持っていたことを十分、考えなくてはならないと思います。」

「日本の歴史をよみなおす」網野善彦(筑摩書房1991年)

 

■宮中の祭儀における廃仏毀釈―2

「幕末の宮中では、仏教や陰陽道や民間の俗信などが複雑にいりまじった祭儀や行事が行われていた。新嘗祭など、のちの宮中祭儀につらなるもののほか、節分、端午の節句、七夕、盂蘭盆、八朔などの民俗行事がとりいれられており、即位前の幼い明治天皇が病気になると、祇園社などに祈願し、護持僧に祈祷させてた。―中略― また、天皇その他の皇族の霊は、平安時代以来、宮中のお黒戸(くろど)に祀られていた。お黒戸は民家の仏壇にあたるもので、そこに位牌がおかれ、仏式で祀られていたのである。天皇家の菩提寺にあたるのは泉湧寺(せんにゅうじ)で、天皇や皇族の死に際しては、泉湧寺の僧侶を中心にして仏式の葬儀がおこなわれてきた。皇霊の祭儀が神式に改められたのは、明治元年12月25日の孝明天皇三年祭からである。―中略― また、宮中の仏教行事としては、真言宗による後七日の御修法、天台宗による長日御修法に引き続いて行われる御修法大法、大元師法などがあったが、これらも明治4年9月(1872)にすべて廃された。これらの事実は、宮中における神仏分離(仏教色払拭)の表現であり、その画期が明治4年であったことを物語っている。」

「神々の明治維新」安丸良夫(岩波新書1979年)

 

因みに上記「後七日御修法(ごしちにちみしゅほう)」とは下記です。

 

「天皇の身体安穏と国家の安泰・繁栄を祈って,毎年1月8日から7日間,宮中真言院で行われた真言宗の重要な儀式。元日から7日までの節会の後の,7日間の修法から後七日といい,真言院御修法,後七日法ともいう。834年、空海が勅命により大内裏中務省において始行し,同年空海が上奏,唐の例にならって宮中に真言院が造立された。翌年から恒例として宮中御斎会と並んで行われるようになり,東寺の長者が導師を勤めた。」

「世界大百科事典・第2版」(平凡社1998年)

 

要約すれば、明治以前、江戸期までは、天皇・皇族も仏式葬儀を行っており、しかし、明治政府の「神仏判別令」により、空海以来1000年間も続いた宮中における国家安泰のための仏教行事もとりやめになってしまった‥‥ということです。

 

一方、庶民・民間信仰においては、江戸最大の2つの祭り、徳川家の産土神を祀る山王権現(日枝神社)と並び江戸総鎮守の神田明神の祭りがありました。神輿行列は交代隔年、半蔵門より山王権現、田安門より神田明神が、江戸城の中に入り(ねり込み)将軍の台覧を仰いだので「天下祭・御用祭」と言われたその祭神にも明治政府の「宗教的容喙」が入ります。

 

■民間信仰としての神社の否定

「神田神社は、江戸時代には神田明神といい、江戸の町人のひろい信仰をあつめ、その祭礼は江戸の名物の一つであった。神田明神の祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)と平将門(たいらのまさかど)であったが、庶民の信仰は後者にあり、神田明神は、もともと将門の御霊信仰として発展してきたものであった。

 ところで、明治七年八月、陸軍の演習を指揮した天皇が、その帰途に神田神社にたちよることとなったが、それにさきだって、教部省では神田神社に祭神を改めるように指令した。国体神学の立場からすれば、神社に祭祀されているのは皇統につらなる人々か国家の功臣のはずであり、逆臣将門を祀る神社など、容認しうるはずのものではなかったし、ましてそういう神社に天皇が参拝してよいはずのものではなかったからである。また、これにさきだち、世襲の神主芝崎氏(将門の後裔に当たる)にかえて、本居宣長の曾孫にあたる本居豊穎(もとおりとよかい)(1834ー1913)が神田神社祠官に任ぜられたことは、こうした指令を実現するための前提条件となった。

 この世に遺執を残して死んだ人の霊を恐れる御霊の観念は、水戸学や後期国学にもひろくみられ、むしろそれが明治初年の神社創建をささえる論理でもあったのだが、しかし、その御霊が逆臣将門ではなんとも始末がわるいわけである。そこで「鬱結シテ妖祟ヲ成ス」霊魂も時、時間が経てば散ずるものだ、将門の場合は「九百年前ノ朽骨、其霊魂既ニ散ズ」として、人々にその「異霊ヲ恐レ」ないように説いて、将門を境内の一末社に祀りかえ、そのかわりに常陸国大洗磯崎神社から少彦名命(すくなひこなのみこと)の分霊を迎え、大己貴命と同殿に祀った。しかし、町民の信仰は将門の御霊の方にあったから、将門が末社に遷されると、町民たちは例祭に参加しないようになり、祭神をとりかえた神官たちを「朝廷に諂諛して神徳に背きし人非人」だとそしり賽銭を投ずる者もいなくなった。これにたいし、あらたに造立された将門の小祠には、参詣者があいついだ(『新聞集成明治編年史』)。

「神々の明治維新」安丸良夫(岩波新書1979年)

 

上記、ボールドにしたのは勿論私です。神田明神における「将門の御霊信仰」を明治政府の意向により、明治7年(1874)に、大己貴命(おおむなちのみこと)共に祭神であった平将門が主祭神から外され「将門御霊信仰」の篤かった町民の反感を買ったという話です。確かに、例えば平家物語の冒頭に「承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼」と逆臣筆頭として列挙されている平将門です。しかし皮肉なことに将門の後裔である神田明神の9代の宮司、柴崎好高は江戸幕府より江戸神職筆頭に任ぜられ活躍、荷田春満(かだのあずまろ)(16691736)に国学を学び、神田明神は江戸における国学発祥の地ともなっていることです。但し下記のような記述もあります。これによれば、江戸初期に既に天皇により将門は勅免されているはずですが、それでも明治政府は将門を祭神より外したのは維新時の混乱だったのか処置が過度だったのか…今は調べがつかずよくわかりません。

 

「寛永3年(1626)には江戸に下向した大納言烏丸光廣が、神田明神に参詣したあとに『朝敵たりしといえど武略の名誉ある人なり、*八所御霊の例にまかせ神霊を祀らば、国家の鎮守ともなるべし』と後水尾天皇に上奏して、将門公の勅免の沙汰が下った。さらに寛文11年(1671)には幕府の奏請により、霊元天皇の勅命をもって「神田大明神」の勅額が社殿に掲げられた。」*八所御霊:京都御霊神社に祀られている8柱の御霊

「鬼がゆく」・神田神社由緒 清水祥彦・神田神社宮司(平凡社2009年)

 

神田明神社殿脇の「国学発祥之地」の碑

今東光(1898-1977)撰文の碑文に「柴崎神主は歴代自ら学ぶとともに能く師東丸(荷田春満)のために尽瘁し学園の場を供して国学振興に寄与せり」とあります。後水尾天皇からの「勅免」が公に通っていたからでしょう。

 

さて、以上「神仏判然令」による寺はもとより宮中行事における歴史伝統の破壊、民間信仰の神社の歴史の改竄の実例をあげてみました。

 

欧米列強の「砲艦外交の脅威」にさらされている中、しかも「キリスト教の脅威」(今回詳述できませんでしたが、キリスト教も当時「妖教」とも呼ばれ、当初拒絶していましたが、受入れは時間の問題と見なされ、当然、当初「大変な脅威」であったようでしたが…もう少ししてから語りたいと思います…)もあり、早急にその脅威に対抗できる国家の体裁を作らなければならなかったという状況下での、浅薄な判断であったのかもしれませんが、松岡正剛が下記で述べるように、もろん、さまざまなことを考える必要があり、こを明解に解明するのは到底今の私には困難なのですが。

 

「なぜこのようなことがおこったかということについては、いろいろの分析が可能だ。徳川時代の全般をふりかえる必要があるし、幕末維新の異常な平田神道の波及にもメスを入れなければならない。近世仏教史の流れも俎上にのぼる必要がある。寺院と神社の関係、儒学と国学と仏教の関係、寺領や戸籍の問題、幕末の宗教政策の問題、王政復古の内情も、もっと見なければならない。

 その後、廃仏毀釈は収まった。それでもいったん施行された神仏分離令がのこしたシステムは、そのまま国家神道として機能しつづけた。しかも、これもまた大問題なのだが、こうした神仏分離と廃仏毀釈についての研究や批判が、あまりにも少ないのだ。まるでこの問題に触れるのがタブーであるかのような、意図的で不気味な沈黙すら感じられる。」

「千夜千冊(1185夜・『廃仏毀釈百年』佐伯恵達著)」松岡正剛・2007年5月22日

 

ただ、この後、仏教、主に浄土真宗による巻き返しが起こります。それはある意味、日本の仏教を振り返る契機ともなり、その後、キリスト教、西洋の哲学に接しこれを学ぶことにより、本当の意味での「日本独自の思想」が模索され鍛えられていくのですが、しかしそれが日本を率いる大きな思想的流れになるわけではなく…それはまさしく20227月現在でも解決のされていない、これからの課題であるように思います。

 

次回はこの浄土真宗の反撃から「日本独自の思想・哲学」の萌芽について、もう少し考えてみたいと思います。明治維新後の動乱期に「神仏判然令」と「廃仏稀釈」に対する浄土真宗の島地黙雷(1838-1911)らが政治的な活動を起こし、そして清沢満之(1863-1903)が浄土真宗の「他力」の思想を深めます。

以上

2022年6

 

 

追記:

極めて個人的な話で恐縮ですが、私は神田明神が好きです。中学生の頃に平将門の英雄伝を読んだからかもしれません。高校受験の頃、クラスで「御守り」が流行り、私は、将門が崇敬し、幟旗にもしていた菅原道真の御霊「火雷天神」の「御守り」を自作して悦に入っていた妙な中学生ではありました。初めて実際お参りに行ったのは私が高校生の頃でした。1970年代前半です。当時、明治7年(1874)の明治政府の将門排除の行政命令は100年後にも、まだ有効で社務所に将門の護符は売っておらず、高校生なりに由来を調べて歴史的事情を理解したかと思います。

 

その平将門が昭和59年(1984514日、主祭神(三の宮)として復座します。氏子、崇敬会の熱望による、とありますが、その追い風となったのは、私の想像では昭和51年(1976)にNHK大河ドラマで放映された将門を主人公にした『風と雲と虹と』(原作は海音寺潮五郎『平将門』・大日本雄弁会講談社1957年&『海と風と虹と』(藤原純友が主人公)朝日新聞社 1967年を合わせたもの)ではないかと思っています。好評であったこのドラマの影響で、それ以降、多くの人々に英雄としての平将門解釈が浸透したからではないかと。

 

「神道」とは「本能的、情緒的」なもので、「仏教」は「理性的」なものです。「闇」は怖いし「山や大木、海や川」には畏敬を本能的に感じます。我々の本能のどこかにそんな感覚が宿っているのだと思います。「御霊信仰」はその最たるもので、本来「祟り神」であるはずの「怨霊」を「御霊」として祀り、逆にそのパワーを恩恵に代えて護ってもらう信仰です。怨みをもって非業の死をとげた人間が怨霊となり、その怨霊に恐怖を感じるという、この感覚は理性的な話ではないような気がしますが、私も怖いと思ってしまうのでよくわかります。

 

「明治以前の関東地方の明神の社はことごとく将門の霊を祀ったものであった。神田明神もその一つであるが、関東8ヶ国の王として君臨した将門が、悲惨な最後を遂げたのだから、坂東の地に深い執念をのこしたと民衆に信じられた。

 将門の時代は、都も鄙もおしなべて怨念の祟りをおそれていたから、神の告示で新皇となったほどの大英雄の怨念の激しさを畏怖した民衆は供養塔を建て祠に祀り、ひたすらその霊を慰めようとした。

 それらの供養塔や祠にまつわる伝説も生まれ、年が経って、祟神は災害を防ぐ守護神に変わり、藤原氏の専横に抵抗した英雄として強い尊崇を受けるようになった。」

「将門記の世界」(1975年)中沢圣夫(学習研究社)

 

左の随神門は昭和51年(1976)の建築ですから私が初めてお参りした頃にはまだありませんでした。右の社殿は大正12年(1923)の関東大震災ですべての建物は烏有に帰して昭和9年(1934)に当時としは画期的な鉄筋コンクリート造りで再建され昭和20年(1945310日の東京大空襲にも焼亡を免れたということです。中央の「将門神札」は、私が高校生の時にはありませんでしたが、今は授与されています。

 

ただ、私は明るい哲学的な「仏教」も大好きです。まさしく「神仏混淆」ということなのでしょう。「本能」は当然ですが「理性」も好きです。

 

「本来の仏教というのは、じつにすっきりしている。

 人は死ねば空(くう)に帰する。教祖である釈迦には墓がない。むろんその十大弟子にも墓がなく、おしなべて墓という思想すらなく、墓そのものが非仏教的なのである。

 仏教においては世間でいう “霊魂” という思想もなく、その “霊魂” をまつる廟も持たず(釈迦廟などはない)、まして “霊魂” の祟りをおそれたり、“霊魂” の力を利用(?)したりするなどといった思想もない。

 幽霊というものも、本来の仏教には存在しない。ここで「霊魂も怨霊も幽霊も祟りも、仏教の教義として存在しない」といいたいところだが、残念ながら仏教には一大体系としての教義がないのである。―中略― 仏教は、飛鳥・奈良朝においては、国家統一のための原理だった。『華厳経』は宗教的というより哲学的な経典で、その経典を好んだ聖武天皇が、この経典に説かれている宇宙の象徴としての毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ・大仏)を尊び「国中の銅を尽くし」て鋳造した。天平感宝元年(794)、この天皇が東大寺大仏の前で「三宝の奴(みほとけのやっこ)」とみずからを規定して拝跪したことほど、奈良朝における仏教と国家の関係を感動的に表現した光景はない。

 平安初期に根づいた天台・真言は、体系としては魅力的ものだったが、王朝貴族たちはこの二つの体系に対し、本来の仏教を求めず、現世利益を願う祈祷(本来の仏教にそういうものはない)をせがみ続け、天台・真言もそれに応じつづけたために、高度な宗教性を失い、鎌倉の新仏教に光彩をゆずらざるをえなかった。

― 「この国のかたち」第1巻-21「日本と仏教」司馬遼太郎(文春文庫)

 

別にここで神道と仏教の優劣を語っているわけではありません。ただ、いかに仏教が我々の持つ土俗的本能の影響を受けやすいものかということを見てみました。意外に知られていませんが、上記で司馬遼太郎が言及している通り、実際、奈良の東大寺(華厳宗総本山)にも薬師寺(法相宗総本山)にも「墓」は現在でもありません。檀家もありません。

そして「葬式」という死者を送る儀式もありません。

 

少なくとも「葬式仏教」という言葉は学問、修行を離れた「仏教・寺」についての蔑みの言葉として今も通用する言葉ではあると思います。つまりは「仏教・寺」に対して「葬式」だけではなく別の期待と敬意があるからこそではあると思います。

 

 

 

 

 

 

No.11 なおなお「孫文のいた頃」をみるlist-type-white

 

No.13 重ね重ね「孫文のいた頃」をみるlist-type-white