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国際交流・留学にすぐには役立ちそうにない教養講座㉒


ー世界に「日本が存在していてよかった」と思ってもらえる日本に…

 

 

No.22 曇りでも「孫文のいた頃」

 

「そして「先生」は何十年かかかって「K」の本意・本質をおそらく理解したのでしょう。「先生」が自殺の決心をする契機として「明治天皇崩御」と「乃木大将の殉死」があります。次回は、この辺りから「K=清沢満之」説も含めて考えたいと思います。」

(No.21 雨でも「孫文がいた頃」)

 

さて、上記が前回の末尾ですが、今回は「K」の自殺の動機について、もう少し深く考えてみたいと思います。

 

一見、原因は「先生」の「K」に対する裏切り行為への絶望感、「K」の失恋…しかし、実はそうではなかったのではないか?実は、その時点で「先生」は自身の裏切り行為に対する「懺悔」の気持ちで一杯でしたが、「K」にとっての自殺動機はそうではなく「K」は修行すべき自分であるはずなのに、修行が足りず「薄志弱行」な自分に対してのけじめとしての自殺ではなかったか?「先生」の裏切り行為は「K」には相手にもされていなかった、つまり当時の「先生」から見た、考えた、思いは、あくまで「先生」レベルでの思いであり「K」はそのレベルとは別次元の崇高なところにいたのではないか?という私の「仮説」を吟味したいと思います。

 

勿論「先生」の現実はあくまで「懺悔」です。

 

一年経ってもKを忘れる事のできなかった私の心は常に不安でした。私はこの不安を駆逐するために書物に溺れようと力めました。私は猛烈な勢をもって勉強し始めたのです。そうしてその結果を世の中に公にする日の来るのを待ちました。けれども無理に目的を拵えて、無理にその目的の達せられる日を待つのは嘘ですから不愉快です。私はどうしても書物のなかに心を埋めていられなくなりました。私はまた腕組みをして世の中を眺めだしたのです。

 妻はそれを今日に困らないから心に弛みが出るのだと観察していたようでした。妻の家にも親子二人ぐらいは坐っていてどうかこうか暮して行ける財産がある上に、私も職業を求めないで差支のない境遇にいたのですから、そう思われるのももっともです。私も幾分かスポイルされた気味がありましょう。しかし私の動かなくなった原因の主なものは、全くそこにはなかったのです。叔父に欺かれた当時の私は、他の頼みにならない事をつくづくと感じたには相違ありませんが、他を悪く取るだけあって、自分はまだ確かな気がしていました。世間はどうあろうともこの己は立派な人間だという信念がどこかにあったのです。それがKのために美事に破壊されてしまって、自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらふらしました。他に愛想を尽かした私は、自分にも愛想を尽かして動けなくなったのです。

 

かつて財産を横取りした「叔父」を引き合いにだして今の自分自身を嫌悪しています。

 

「書物の中に自分を生埋めにする事のできなかった私は、酒に魂を浸して、己を忘れようと試みた時期もあります。私は酒が好きだとはいいません。けれども飲めば飲める質でしたから、ただ量を頼みに心を盛り潰そうと力めたのです。この浅薄な方便はしばらくするうちに私をなお厭世的にしました。私は爛酔の真最中にふと自分の位置に気が付くのです。自分はわざとこんな真似をして己れを偽っている愚物だという事に気が付くのです。」

 

現実逃避ではよくあるパターンの「酒」も出てきて、それも空しく止めたころに「先生」はこう思い始めます。

 

「同時に私はKの死因を繰り返し繰り返し考えたのです。その当座は頭がただ恋の一字で支配されていたせいでもありましょうが、私の観察はむしろ簡単でしかも直線的でした。Kは正しく失恋のために死んだものとすぐ極めてしまったのです。しかし段々落ち付いた気分で、同じ現象に向ってみると、そう容易くは解決が着かないように思われて来ました。現実と理想の衝突、――それでもまだ不充分でした。私はしまいにKが私のようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうかと疑い出しました。そうしてまた慄(ぞっ)としたのです。私もKの歩いた路を、Kと同じように辿っているのだという予覚が、折々風のように私の胸を横過り始めたからです。」

 

この時点で先生は「K」の自殺動機・原因について少し別の考え方が出てきます。「先生」のエゴイズム・裏切りと「Kの失恋」だけではなく「孤独」であったのではと推測します。でも先に述べた「K」の自殺動機には到達していません。そして一方「先生」自身も「自殺」について考え始めます。しかし「妻」への思いやりがそれを止めます。「妻」を道連れにということもできません。当然、ここで、「エゴイズム」は「孤独」です。しかしある意味「エゴイズム」は「生物が生きている形態」のことですから、その「エゴイズム」から逃れようとすれば1つの選択肢として当然「自殺」が出てきます。

 

「私は今日に至るまですでに二、三度運命の導いて行く最も楽な方向(自殺)へ進もうとした事があります。しかし私はいつでも妻に心を惹かされました。そうしてその妻をいっしょに連れて行く勇気は無論ないのです。妻にすべてを打ち明ける事のできないくらいな私ですから、自分の運命の犠牲として、妻の天寿を奪うなどという手荒な所作は、考えてさえ恐ろしかったのです。私に私の宿命がある通り、妻には妻の廻り合せがあります、二人を一束にして火に燻べるのは、無理という点から見ても、痛ましい極端としか私には思えませんでした。」

 

先生は妻を気遣い自殺を思いとどまってきたことになります。そしてその「先生」が自殺へと進む契機となるのが明治天皇の崩御とその1ヶ月程後、大喪の礼の時の乃木大将殉死です。

 

歴史的には明治45年(1912730日、午前043分に明治天皇は崩御されます。そして同年913日午後8時、青山陸軍練兵場(神宮外苑)で「大喪の礼」が行われ、その翌日に伏見の桃山御陵に埋葬されます。

 

乃木希典(嘉永2年・1849‐明治45年・1912)はその「大喪の礼」の行われた同時刻頃に軍服を着て武士の作法通りの切腹をします。

 

比較的よく語られている乃木大将の殉死動機は、下記『心』の中にもありますが、明治10年の西南戦争で当時第14連隊長(九州小倉)時、戦闘の際に敵に連隊旗を奪われ(当時28歳)、以来、その自責の念で切腹しようと思い続けていた、ということ。

 

もう1つは、乃木大将として日露戦争(明治37年・1902‐明治38年・1903)の旅順要塞攻囲戦で犠牲者を余りに多く出してしまった、という、やはり自責の念から明治天皇に賜死を願ったといいます。

 

「機会(切腹)は、大将が日露戦争から凱旋したとき、ついに訪れたかに見えた。乃木は、この戦争に、旅順攻略をめざした第3軍司令官として従軍した。旅順の戦いは、周知の如く、日本帝国陸軍の歴史のなかで、もっとも血腥い戦いのひとつに数えられるものである。攻囲戦は明治37年(1904)5月6日より6月26日にいたる51日間を要し、遠距離攻撃は6月26日から7月26日に到る1ヶ月間、近接攻撃、あるいは攻城戦そのものは7月26日から翌明治38年(1905)1月1日にいたる実に151日間を要した。作戦期間を通算して240日間の死闘のあいだに、乃木は麾下の13万の将兵のうち、自らの2人の息子を含む5万9千人を失ったのである。

 明治39年(1906)1月14日に、東京に凱旋した乃木は、明治天皇に謁見した機会に、多数の赤子(せきし)を失った罪を償うために、死を賜らんことを願った。乃木の伝記作者は、このとき乃木が死を願いつつ、両の眼に涙をためて、玉座の前に平伏したと伝えている。天皇は、しばらく何もいわずに乃木の姿を眺めておられたが、やがて、『今は死ぬな。それほど死にたければ、私が死んでからにするがよい。』と言われたという。」

江藤 淳「明治の一知識人」(決定版 夏目漱石・新潮文庫) 

 

この乃木希典は現在でも、毀誉褒貶の激しい人物で、ここで言及は避けますが、さまざまな評価があります。そして当時とし大変な社会的影響があった乃木大将殉死は漱石がこの「心」を連載する2年前のことですから、漱石も乃木大将の殉死について、いろいろと考えたはずです。

 

江藤淳は下記のように解説します。

 

「漱石の場合には、乃木大将の死は、かつて『国のために』何事か成さんとした、野心に燃えた若い学者―行政家の失われたidentity を、にわかに回復したいという欲望を目覚めさせる役割を果たしたのである。乃木大将が薩摩の乱のときに連隊旗を敵に奪われたように、漱石もまたその精神の連隊旗を、自らのロンドンでの孤独な戦いの間に奪われていた。それからというもの、彼はエゴイズムと愛の不可能性という宿痾に悩む孤独な近代人として生きなければならなかったが、明治天皇の崩御と乃木大将の殉死という2大事件のあとで、彼は突然、いわゆる『明治の精神』が、彼の内部で全く死に絶えてはいなかったことを悟らねばならなかった。今、あの偉大な時代の全価値体系の影が、漱石の暗い、苦悩に充ちた過去から浮かびあがり、かつて愛した者の幽霊のように漱石に微笑みかけていた。幽霊は、あるいはこう言ったかもしれない。『我に来たれ』漱石は肯いた。彼は、自分の一部が、おそらくは小説の主人公のかたちで『明治の精神』に殉じられることを知ったのである。こうして漱石は、彼が伝統的倫理の側に立つものであることを明示するために『こゝろ』を書きはじめた。もとより彼は、この自己抑制の倫理が、現実には天皇崩御の前からとうに死滅していることを知っていた。そしてこの混沌のなかから、無条件な自己肯定を醜い『悪』ではなく、『善』とし、『進歩』とする新しい時代が生まれつつあることも知っていたのである。この、自我中心的な「普遍主義」の世代の出現が、日本の国際社会での孤立とほぼ正確に照応していることは注目に価する。

同上

 

作家論、作品論、テキスト論の問題はありますが、漱石・夏目金之助の思いは上記の通りだと 感じます。江藤淳の大変な慧眼です。ここで彼がいう「自我中心的な『普遍主義』の世代」の「普遍主義」が少し解り難いかもしれませんが「populism」の意です。

 

「人の性は悪、其の善なるものは偽なり。」― 荀子巻十七(性悪篇)

 ここでの「偽」は「作為」天然のものではなく努力意識して作ったもの、の意です。「善は意識して作ったものである」という「典型的な性悪説」の考えです。漱石自身の装幀ですから、漱石はこの荀子の「心」で、この本の表紙を飾りたかったのでしょう。

(No.21 雨でも「孫文がいた頃」)

 

漱石の倫理観は、「K」のように、人は、修行し、矯めて、匡して、理めて、磨いて、始めて人になるという考えでありました。

 

若干、話は飛びますが、江藤淳の言うこの「自我中心的な『普遍主義』の世代」に対する否定と同じような事を、司馬遼太郎も、この時期より数年前、明治38190595日の「日比谷焼き打ち事件」を挙げて述べています。

 

「司馬遼太郎の『私は、この理不尽で、滑稽で憎むべき熱気(日比谷焼き打ち事件・暴動)のなかから、その後の日本の押し込み強盗のような帝国主義が、まるまるとした赤ん坊のように誕生したと思っている。』という表現のなんと適確なことかと思ってしまいますが、皆さんはどうでしょうか…。この時点において、政府・軍部の暴走というより、『民衆(司馬遼太郎は「熱気」という表現をしていますが)の中から』生まれて、そしてこれが10年後に「対支21ヶ条要求」となり、さらにその30年後にポツダム宣言受諾へと繋がっていくのではないでしょうか…。」

(No.8 まだ「孫文がいた頃」)

 

『心』に戻ります。漱石は作品として、この史実を基に下記のように書きすすめます。

 

「私は殉死という言葉をほとんど忘れていました。平生使う必要のない字だから、記憶の底に沈んだまま、腐れかけていたものと見えます。妻の笑談を聞いて始めてそれを思い出した時、私は妻に向ってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと答えました。私の答えも無論笑談に過ぎなかったのですが、私はその時何だか古い不要な言葉に新しい意義を盛り得たような心持がしたのです。

 それから約一カ月ほど経ちました。御大葬の夜私はいつもの通り書斎に坐って、相図の号砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知のごとく聞こえました。後で考えると、それが乃木大将の永久に去った報知にもなっていたのです。私は号外を手にして、思わず妻に殉死だ殉死だといいました。

 私は新聞で乃木大将の死ぬ前に書き残して行ったものを読みました。西南戦争の時敵に旗を奪られて以来、申し訳のために死のう死のうと思って、つい今日まで生きていたという意味の句を見た時、私は思わず指を折って、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらえて来た年月を勘定して見ました。西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年までには三十五年の距離があります。乃木さんはこの三十五年の間死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。私はそういう人に取って、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、どっちが苦しいだろうと考えました。

 それから二、三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由がよく解らないように、あなたにも私の自殺する訳が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もしそうだとすると、それは時勢の推移から来る人間の相違だから仕方がありません。あるいは箇人のもって生れた性格の相違といった方が確かかも知れません。私は私のできる限りこの不可思議な私というものを、あなたに解らせるように、今までの叙述で己れを尽くしたつもりです。」

 

さて、こう書き残して「先生」は自殺します。

 

「私は妻に残酷な驚怖を与える事を好みません。私は妻に血の色を見せないで死ぬつもりです。妻の知らない間に、こっそりこの世からいなくなるようにします。私は死んだ後で、妻から頓死したと思われたいのです。気が狂ったと思われても満足なのです。」

 

『心』において「先生」の自殺方法は記されていません。上記があるだけです。少なくとも「K」や「乃木大将」のような「自刃」ではないことだけは強調していますね。まあ、服毒自殺なのかもしれません。

 

そしてここで私の勝手な想像ですがこんなことを思います。「K」や「乃木大将」の自刃は自分を律するためであり、「先生」の自殺は逃避だったのではないでしょうか。

 

「乃木大将」は長州藩の支藩、長府藩士族の3男として江戸の長府藩上屋敷で生まれています。そして「K」は寺の生まれという設定ですが、漱石は『心』の中で、わざわざこんなコメントをつけています。「彼の父はいうまでもなく僧侶でした。けれども義理堅い点において、むしろ武士に似た所がありはしないかと疑われます。」(No.21 雨でも「孫文がいた頃」)。そして「K」のモデルでもあるかもしれない清沢満之も尾張藩士の長男として生まれています。しかも清沢満之の愛読書は『義士銘々伝』でした。(No.18明けても「孫文がいた頃」参照)

 

結局『こころ』には「K」と「先生」と「乃木大将」の3つの自殺が出てきます。即ち3つの「生」があったわけです。

 

その中で「先生」の自殺だけは逃避であり、人間のエゴイズム、人間の弱さを「私」に伝えるために書かれた遺書であり、「K」と「乃木大将」の自殺(自刃)は対極にあり、エゴイズム、弱さからは離れたところにあるものなのではないか?先に私は「そして「先生」は何十年かかかって「K」の本意・本質をおそらく理解したのでしょう。」(No.21 雨でも「孫文がいた頃」)と書きましたが、間違いであったかもしれません。小説の中「先生」自身は「K」の本意に気付いていないけれど、漱石は読者にはそれを察知してほしかったのではないか?と、今、ふと思ったりしています。

 

K」と「乃木大将」の根底にあるのは、いわゆる「武士道」ということかもしれません。

 

そうなると『行人』は「仏教思想」が根底にあり、『心』は「武士道」が根底にあるものかもしれません。

 

そして今「武士道」と、極めて安易にこの言葉を使っていますが、これが非常に大きなテーマで、かつ解ったようで大変に解り難い概念です。今までもこのコラムで各所に出てきましたが「武士道」というこの手垢のついた言葉ではなく、司馬遼太郎は「民族が持つ颯爽とした士魂、戦国期の島津氏が持っていた毅然とした倫理性」と表現しています。

 

「西郷は国家の基盤は財政でも軍事力でもなく、民族がもつ颯爽とした士魂にありとおもっていた。そういう精神像が、維新によって崩れた。というよりそういう精神像を陶冶してきた士族のいかにも士族らしい理想像をもって新国家の原理にしようとしていた。しかしながら出来あがった新国家は、立身出世主義の官員と、利権と投機だけに目の色を変えている新興資本家を骨格とし、そして国民なるものが成立したものの、その国民たるや、精神の面でいえば愧ずべき土百姓や素町人にすぎず、新国家はかれらに対し国家的な陶冶をおこなおうとはしない。― 奈良朝以来、あるいは戦国このかた、大平に馴れた日本民族に精気をあたえ、できれば戦国期の島津氏の士人がもっていた毅然とした倫理性を全日本人のもつものにしたいという願望があった。」

司馬遼太郎「翔ぶが如く・3巻」―激突の章(文春文庫)1972年1月~76年9月『毎日新聞』朝刊連載

(No.6 また「孫文がいた頃」)

 

漱石は「武士道」は使わず、当該語として「武士魂」「大和魂」「日本魂」を使用していますが、安易にその言葉を口にし、その言葉だけで安易に納得しているような多くの人々を、たとえば『吾輩は猫である』の中で茶化しています。

 

「大和魂!と新聞屋が云ふ。大和魂!と掏摸(すり)が云ふ。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。独逸(ドイツ)で大和魂の芝居をする。―(中略)東郷大将が大和魂を有(も)っている。肴屋の銀さんも大和魂を有っている。詐欺師、山師、人殺しも大和魂を有っている。―(中略)三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示す如く魂である。魂であるから常にふらふらして居る。―(中略)誰も口にせぬものはないが、誰も見たものはいない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇った者がない。大和魂はそれ天狗の類か。」

吾輩は猫である(明治38・1905年1月~5月)「ホトトギス」

 

 

苦沙弥(くしゃみ)先生の講談・落語のような名調子ですが、当時、安易に使われているこの「大和魂」(日本の本質・基準)がなんであるかを真剣に考えたのが漱石でした。

 

しかし、それにしても漱石の『猫』以来、120年を経た今日でも、メディアや日常会話で、よく見聞きする「日本文化」、「グローバル社会」等の言葉も、実は、何も変わっておらず、全く同じ状況というのは一体…。(新国家はかれらに対し国家的な陶冶をおこなおうとはしない。)

 

やれやれ…でも、気を取り直し、次回からこの難問の「武士道・大和魂」の角度から「日本の基準」について考えてみたいのですが、さて、難しいなぁ…どうしたものでしょう…。

 


『心』漱石自筆原稿・最終ページ(漱石全集第9巻『心』・岩波書店2002年より)

 

以上

2023年4

 

追記:

以上、漱石の『心』は「武士道」が根底にあるということを考えてみました。

 

さて、上の写真ですが『心』最後の部分の漱石自筆の原稿です。下記引用はこの写真原稿の4行目からになります。「先生」の「妻へ真実を伝えないこと」についてのコメントです。

 

「私は私の過去を善悪ともに他の参考に供するつもりです。しかし妻だけはたった一人の例外だと承知して下さい。私は妻には何にも知らせたくないのです。妻が己の過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存しておいてやりたいのが私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後でも、妻が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、すべてを腹の中にしまっておいて下さい。」

 

「先生」の「妻」に対する「愛・いたわり・思いやり」…ではあるでしょう。ただ「妻」と何も共有できていない孤独を「先生」はもとより「妻」もそれをどこかにずっと感じていました。

 

《もうチョットの頑張りで「K」、「乃木大将」になれたはずの「先生」》の言葉として、あまりに適格で、即ち、「先生」は、明治末期の多くの中途半端な日本の知識人・国民を代表していたのかもしれません。

 

因みに、乃木大将殉死に纏わる有名な話ですが、乃木大将の奥方も乃木大将と一緒に懐剣で心臓をついて自刃・殉死しています。

 

そして、この「(中途半端・明治知識人・『先生』・何も知らされない『妻』)」と対照的・対極においた「乃木大将夫妻の殉死」ですが、乃木大将の奥方の名前は『静子』であり、小説『こころ』の「先生」の「妻」の名前が『静』です。

 

明らかに漱石はそもそも、乃木大将の殉死を意識して『こころ』を書き始めていることになります。「先生」の奥さんの名前も意識して『静』としています。「血を見せたくない・ともかく何も知らないで表面的に平穏無事…」を願う「明治後期の中途半端知識人・先生」を、敢えて、「主人と共に殉死する妻」と対照させて、漱石は批判したかったのかもしれません…。

 

ただ、肝心の「殉死」そのもの、その「死生観」或いは「武士の切腹」については、今現在では、残念ながら、そして悔しいことに、私の理解を越えており、何ともコメントできません。結局、「武士道」についてよく考えてみなければならない…ということになります。

 

『乃木大将生誕之地』(2022年・筆者撮影):六本木ヒルズ南側の「さくら坂公園」

 

碑の裏には昭和7年12月建立とあります。当時は、六本木ヒルズ・森タワーとテレビ朝日本社の間にある「毛利池」の付近(ここより北東250メートル程)に建てられており、六本木ヒルズ建設にともないこの場所に移ったということです。

 

 

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No.23 梅雨でも「孫文のいた頃」をみるlist-type-white