次回日程

  • 06月22日(土)
  • 04月22日(月)~ 05月22日(水)
  • 筆記
  • 全国主要12都市

国際交流・留学にすぐには役立ちそうにない教養講座㉔


ー世界に「日本が存在していてよかった」と思ってもらえる日本に…

 

 

No.24 梅雨明け間近「孫文のいた頃」

 

さて、このコラム、今回で24回目、2年間、どれほど皆さんのお役にたっているかどうかは心もとなくもありますが、私なりにいろいろ考えて書いてきました。そこで、このコラムを書き始めた「動機」についても、少し振り返ってみたいと思います。

 

前回は漱石の『心』の先生の遺書の最終部分に出てきた、乃木大将の殉死と明治の終焉ということ通してその明治を、或いは明治維新を経て近代国家になりつつあった日本について考え、「武士道的な思想・考え方」が、明治時代を支えてきたのではないか…ということを考えてみました。

 

欧米列強の「キリスト教」に対抗すべく表向き「国家神道」を急造しましたが、その根底を支えていたものは「武士道的な思想・考え方」ではなかったのか…というところまで来ました。

 

そもそも、私は国際交流の仕事に従事して30年以上、いや、大学に入って初めて真剣に西洋の哲学や、中国の思想、日本の思想を勉強しはじめて以来だから40年以上、常に気になっていたのは「日本(国・文化)とは何か?」ということでした。「今の日本がどのようにして今の日本になったのか?」ということでした。ボードレールやランボーやマラルメの詩に憧れて勉強した時も、フランスに留学した時も、翻訳の会社に勤務していた時も、外資系の語学学校の日本の支社長をしていた時も、常に、意識的、無意識的に、行っていたのは、自分(自文化)とさまざまなかたちでかかわる他文化との比較対照でした。他文化に出会い自文化に気付いてきたことの連続でした。

 

たまたま、この東京都新宿区神楽坂のJYDAHSKオフィスから直線距離で500メートル程のところに今から120年ほど前に多く清国留学生が留学してきた官立の日本語学校「弘文学院」があったことから、また、このオフィスの周辺に、その後の中国を建国していく英雄・有名人が多く住んでいた、ということもあり、その「孫文がいた頃」を考えながら、日本がどのように近代国家になってきたか?ということを考えてきました。

 

「ところで、今年2021年は近代中国が始まった辛亥革命から数えて110年目の年です。その辛亥革命を率いた孫文は1895年の初来日以降、通算10年近く日本に滞在し、当時、政治家だけではなく、一般人も含めて多くの日本人が彼を支援しましたが、現在一方で日本と中国は残念ながら、国家間での領土問題、歴史認識問題等、いくつかの問題を抱えているのも事実です。

 また同時期、近代中国文学の大家、魯迅は日本に1902年21歳の時に国費留学生として来日し、1909年までの7年間を日本で過ごしました。(彼は、実は初めの2年間はこのJYDA・HSK神楽坂オフィスから歩いて10分程のところにあった「弘文学院」という日本語学校に通っていました。)」

No.1『はじめに』2021年7月

 

そして、HSK(漢語水平考試)という中国国家が運営する中国語能力検定試験の日本での実施組織(HSK日本実施委員会)に、国際交流・留学を通じてかかわることになり、あらためて、私が愛する中国(中国文化)が、或いは、120年前に、多くの日本人が応援したはずの孫文が建国した中華民国であるのに、何故、どこで、いつ、さまざまな不安材料を抱える関係になってしまったのか?ということを考えてみることも、このコラムのテーマでありました。そしてそれがわかれば、解決の糸口もみつかるのではないかと思ったりもしています。もちろん、多くの学者、知識人、文人達が考えてきたことではあり、未だ解決もしていないわけですが、しかし、私としては私ができることをやる以外に私の存在意味もなくなりますから、自分の無力さ加減を感じながらも今、私に出来ることをやるしかありません。そして、皆さんも一緒に考えて頂ければ、ということが私の願いでもあり、このコラムの目的でもあります。

 

「敗戦までを日本の近代とすれば ーとくに官の歴史としてはー その出発点は明治初年の太政官政府にある。それを成立させたのはいうまでもなく明治維新なのだが、革命思想としては貧弱というほかない。

 スローガンは、尊王攘夷でしかないのである。外圧に対するいわば悲鳴のようなもので、フランス革命のように、人類のすべてに通ずる理念のようなものはない。

 また人間の基本の課題もほとんど含まれていないのである。

 革命が内蔵した思想や熱気、あるいはそれがかかげた理想は遺伝子のようなもので、結局はその後の(敗戦までの)歴史を規制したり、形づけたり、器の大小をきめたりした。

 《異民族を打ち払え。王を重んじよ》

 などとは、まことに若集組が棒を握って勇んでいるようで、威勢はいいが、近代という豊饒なものを興すテーゼにはならない。このことについては、大正末年から敗戦までのあいだに “近代” そのものが瘦せ衰えてしまったことと思い合わせればいい。」

『この国のかたち』1巻の2《朱子学の作用》1986年・文藝春秋4月号

 

司馬遼太郎は当時62歳…流石というか、私が今頃気付いたというか…少なくとも私は30数歳でこの本に出合い、大いに感銘を受け、それなりに集中して何度も読んできたはずだけど、まさしく上記「明治維新の理念」(近代国家としての日本国の建国理念)について考えてきたわけです。そして司馬遼太郎はその理念の無さが問題であったと言っているわけです。まあ元も子もない話ですが、それではどうしたらいいのでしょうか…その理念が何であるべきなのかを考えるしかないのでしょう。前回の続き「武士道的な思想・考え方」に戻ります。

 

その司馬遼太郎に『殉死』という乃木大将を扱った作品があります。初出は『別册文藝春秋』100号(昭和42年・19676月)に『要塞』、101号(同年9月)に『腹を切ること』として掲載され、単行本発行となった同年11月に『殉死』というタイトルでこの2編が収められています。

 

この作品は一方で大変評判の悪い作品で、先ず、『要塞』の冒頭で「乃木希典は軍事技術者としてほとんど無能に近かった」、「なぜ、これだけの大要塞(203高地)の攻撃にこのひとのような無能な軍人をさしむけたのか」と、勿論、彼なりに多くの資料にあたり調べての結論なのでしょうが、軍人としての乃木大将を切り捨てています。

 

この「乃木愚将論」については、著名な学者、専門家が司馬遼太郎の軍人としての乃木評価について、細かい例証をもとに反論を挙げていますが、今、ここで私が気になっているのは、乃木大将の「殉死行為」であり、彼の軍人としての技量を云々する場ではないので詳細は省きます。

 

私のここでの興味は何故、司馬遼太郎が乃木大将について考えてみたかったのか?ということです。司馬遼太郎も決してただ軍人として無能であったということを言いたかったわけではないはずです。

 

その観点から、ここで、彼の長編小説を通して彼の作品傾向の推移を見てみたいと思います。

 

産経新聞の記者をしながら初めて書いた長編小説が『梟の城』(昭和34年・1959・講談社)で、第42回の直木賞をとり、その後、産経新聞を退社し、本格的執筆生活にはいります。『風の武士』(昭和36年・1961・講談社)、『風神の門』(昭和37年・1962・新潮社)、を発表、ここまでは「忍者冒険小説」です。

 

それから、一連の歴史に取材した「痛快冒険歴史小説」が始まります。『竜馬がゆく』(昭和38年・1963-昭和41年・1966・文藝春秋新社)、『燃えよ剣』(昭和39年・1964・文藝春秋新社)、『尻啖え孫市』(昭和39年・1964・講談社)、『功名が辻』(昭和40年・1965・文藝春秋新社)、『国盗り物語』(昭和40年・1965-昭和41年・1966・新潮社)『北斗の人』(昭和41年・1966、講談社)。

 

そして、『殉死』(昭和42年・1967・文藝春秋)、『峠』(昭和43年・1968・新潮社)、『坂の上の雲』(昭和44年・1969-昭和47年・1972・文藝春秋)と本格的歴史小説が始まります。(もっとも、司馬遼太郎の小説はほぼ全て「冒険小説」とも言えるかもしれません。『竜馬がゆく』は「青春の冒険小説」であり、『坂の上の雲』は「若い日本の冒険小説」であり、『空海の風景』は「観念の冒険小説」です。)

 

さて、この『要塞(殉死)』、彼はその冒頭で軍人としての乃木を否定した後でこのように書いています。

 

「以下、筆者はこの書きものを、小説として書くのではなく小説以前の、いわば自分自身の思考をたしかめてみるといったふうの、そういうつもりで書く。― 筆者自身のための覚えがきとして、受けとってもらえればありがたい。」

 

前回のコラムNo.23で言及しましたが、森鷗外が史伝に取り組み始めるのが乃木大将の殉死をきっかけとした『興津弥五右衛門の遺書』でしたが、司馬遼太郎も、この『殉死』辺りからが彼の作品の転換期で、これ以降、本格的な歴史小説を書き始めているように思います。

 

そして、『要塞』の最終部分が下記です。

 

「凱旋後、第三軍司令官として陛下に拝謁を賜ったあと、自分の戦闘経過を記述して復命書にも、『旅順ノ攻城ニハ半歳ノ長日月ヲ要シ、多大ノ犠牲ヲ供シ、奉天付近ノ会戦ニハ攻撃力ノ欠乏ニ因リ、退路遮断ノ任務ヲ全クスルニ至ラズ。又敵騎大集団ノ我ガ左側背ニ行動スルニ当リ、コレヲ撃砕スルノ好機ヲ獲ザリシハ、臣ガ終生ノ遺憾ニシテ恐懼措ク能ハザル所ナリ』と書いている。自分の屈辱をこのように明文して奉上する勇気と醇気は、おそらく乃木以外のどの軍人にもないであろう。この復命書を児玉(源太郎)が読んだとき、「これが乃木だ」と、その畏敬する友人のために賛美した。児玉にとって乃木ほど無能で手のかかる朋輩はなく、ときにはそのあまりの無能さゆえに殺したいほど腹立たしかったが、しかし、軍事技術以外の場面になってしまえば児玉は乃木のようなまねはできない自分を知っていた。児玉ならばたとえ失敗して一軍を死におとしいれることがあっても、そのあとで、このように純粋な泣きっ面はできなかったであろう。これが乃木だ、というのは、乃木の美しさはそこだという意味であったように思われる。

 

司馬遼太郎は、この乃木大将の「美しさ」の由来するところ、天性もあったかもしれませんが、結論から言うと、「陽明学」に求めています。勿論、儒教の1学派であり、中国の明代の儒学者、王陽明(14721579)が当時大勢を占めていた、やはり儒教の1学派である南宋時代の朱熹(1130-1200)が創始した「朱子学」に対抗する形で創始した学派です。「陽明学」そのものについては、あまりに長くなるので、次回に譲りたいと思いますが、端的に言えば、「自分が正しいと思ったことを信じて、且つ、それを行動に移す、実行する。」ということに尽きます。今でも全く自然な言葉ですが、やっかいなのは、その「実行」とは「文字通り生命を賭してでも」という、言葉ではなく「行為」がセットで付いてきます。それは危険でしょう…。

 

「幕末騒乱期の初期、京におけるもっとも高名な陽明学者であった春日潜庵(かすがせんあん・文化8年・1811‐明治11年・1878)は安政大獄で下獄しているし、この時代でもっとも熱心なこの思想の遵奉者であった越後長岡藩の家老・河井継之助(かわいつぎのすけ・文政10年・1827-慶応4年・1868)は打算の感覚のきわめて鋭敏なもちぬしでありながら、最後は「成敗は天にあり」として決然と飛躍し、時流に抗し、わずか7万4千石の小藩でありながら官軍に対し絶望的な戦いをいどみ、ついに自滅している。

 乃木希典のこの道統は、これの縁族である吉田松陰(文政13年・1830‐安政6年・1859)と玉木文之進(たまきぶんのしん・文化7年・1810‐明治9年・1876)から出ているという意味で、長州における陽明風山鹿学派のもっとも正統な系譜を継いでいるであろう。松陰の場合は、彼の憂国の思いのきわめるところ、海外に渡航する以外にないとしたときその行動が飛躍し、一舟を駆ってペリーの艦隊に接近し、それがために幕吏に捕縛され、刑死した。松陰の刑死後、希典は松陰の叔父であり師匠であった玉木文之進にあずけられ、唯一の住み込み弟子として薫育されている。」

司馬遼太郎「腹を切ること・『殉死』」昭和42年・1967・9月

 

上記、河井継之助の前に司馬遼太郎は大阪町奉行与力で陽明学者でもあった大塩平八郎(寛政5年・1793‐天保8年・1837)の例を引いていますが、皆さんもご存じの通り、大塩平八郎の乱により自決しています。

 

「彼(乃木大将)はすでにはるかな過去に道統の絶えた山鹿学派の最後の継承者になろうとしているようであり、その学説を、陽明学的発想によって生活化しようとしていた。例えば前記、大塩平八郎がこの奇矯な学統からみなければその劇的なものを理解できないと同様、乃木希典においてもこの視角をはずしてはあるいは彼を見失うかもしれない。

 『この道統には、大石内蔵助良雄(万治2年・1659年-元禄16年・1703)と吉田松陰、そして西郷隆盛(文政10年・1828- 明治10年・1877年)がいる』と、希典は50代の頃、その副官に語ったことがある。隆盛は山鹿学派ではなかったが、陽明学の徒であった。幕末において希典と同時代人であったひとに越後長岡藩河井継之助、備中松山藩家老山田方谷(やまだほうこく・文化2年・1805‐明治10年・1877)などがいるが、方谷をのぞいて以上の人々はことごとく反逆者の道をたどり、非業に斃れた。」

同上

 

単行本として上梓の順番ではこの『殉死』(1967)の次が、先にも挙げましたが、河井継之助を主人公とした『峠』(1968)です。しかし、正確には『峠』は、昭和41年・196611月~昭和43年・19685月の期間で毎日新聞に連載していますから、『峠』連載中に『殉死』を書いたことになります。河井継之助を通して、乃木大将を通して、「侍」とは何かを考えていたのでしょう。

 

その『峠』の「あとがきー『峠』を終えてー」の中にこんな一節があります。

 

人はどう行動すれば美しいか、ということを考えるのが江戸の武士道倫理であろう。人はどう思考し行動すれば公益のためになるかということを考えるのが江戸期の儒教である。この二つが、幕末人をつくりだしている。

 幕末期に完成した武士という人間像は、日本人がうみだした、多少奇形であるにしてもその結晶のみごとさにおいて人間の芸術品とまでいえるように思える。しかもこの種の人間は、個人的物欲を肯定する戦国期や、あるいは西洋にはうまれなかった。サムライという日本語が幕末期からいまなお世界語でありつづけているというのは、かれらが両刀を帯びてチャンバラをするからではなく、類型のない美的人間ということで世界がめずらしがったのであろう。また 明治後のカッコワルイ日本人が、ときに自分のカッコワルサに自己嫌悪をもつとき、かつての同じ日本人がサムライというものを生み出したことを思いなおして、かろうじて自信を回復しようとするのもそれであろう。 私はこの「峠」において、侍とは何かということを考えてみたかった。それを考えることが目的で書いた。

『峠』「あとがき」昭和41年11月‐43年5月毎日新聞連載:昭和43年10月新潮社刊

 

別にここでは司馬遼太郎の作品分析することが目的ではありません。しかし、ただ、彼が、乃木大将や河井継之助を想いながら「侍とはなにか」ということを考えて、このような作品を残してくれた、ということが、今、私が考えている「武士道的な思想・考え方」とは何か?ということに大変好都合でもあり、ありがたいとも思う次第です。

 

さて、乃木大将は晩年、学習院の校長になり、皇太子殿下の養育係にもなります。彼の殉死の2日前、当時12歳の裕仁皇太子(昭和天皇・明治34年・1901‐ 昭和64年・1989年)に陽明学者でもある山鹿素行(元和8年・1622 – 貞享21685)の『中朝事実』について泣きながら講義をしたといいます。

 

「彼は『中朝事実』を演述しつつも帝王としての心掛けをこの親王に説いていた。希典には彼を怯えさせている危機感があり、それはこの国家の行く末のことであった。日露役後瀰漫しはじめた新しい文明と思潮のなかでこの国は崩壊し去るのではないかということであり、そのことはひとにも語っていた。国民のあいだで国家意識が無くなってきたのではないか、という質問を受けた時、彼はそれを認めるのがこわいというふうにはげしくかぶりをふった。国民は立派である、と彼は言った。ひとりひとりはきわめて立派である、と言い換えた。しかし底が抜けてしまった、と最後に言った。底とは忠君思想であろう。

 愛国であってもならない。この点について彼の思想を、17世紀の政治思想家である山鹿素行が代弁してくれている。『それ、天下の本は国家にあり、国家の本は民にあり、民の本は君にあり』と、素行は『中朝事実』の中で説いた。『民にあり』というところまでは儒教思想であったが、『民の本は君(天子)にあり』というところの、希典のいう『底』のところで素行は時の政権から忌避された。素行はこの思想のために暗澹とした後半生を送ったが、希典は逆にこの思想が時代思想であった時に成人し、栄爵を得た。その思想が国民のなかから退潮しようというきざしの見える時に希典はその晩年を迎えた。いま死のうとする時、その憂心はたれに語り残すべきであろう。彼はすでに軍部から慇懃なかたちで疎外されていた。学習院でもかならずしも生徒の間でかれは魅力ある教育者としては映っておらず、著述して世に問うにも、彼は世を納得させるだけの論理の力を持っていなかった。彼に残された警世の手段は、死であった。彼は自分のおよそ中世的な殉死という死がどのような警世的効果をもつかを、陽明学の伝統的発想を身につけているだけにこのことのみは十分に算測することができた。しかし彼のいまの涕涙はそれだけではなかった。すでに老残であることを知っている彼は、誰に相手にされなくてもこの現前にいる少年にだけは言い残したかった。この少年は将来数十年後にはこの国の帝になるはずであり、その点で他の者とはちがっていた。さらにこの少年だけは他の者とちがい、自分の言うことを素直に聴いてくれる少年であり、げんに今も聴いてくれていた。この少年の律儀さを希典はづねづね景仰していたが、なんという美質であろう。少年はじっと立ち続けていた。もっとも少年はその美質をもって立姿の姿勢をとっているのであり、希典の演述を理解しているかどうかについては、じつのところ希典にとってもよくわからなかったであろう。」

司馬遼太郎「腹を切ること・『殉死』」昭和42年・1967・9月

 

そして、乃木大将は自ら筆写した『中朝事実』を、今は難しくても成人したあかつきには必ずお読みくださいと、12歳の裕仁皇太子(昭和天皇)に献上したといいいます。

 

まあ、私としては一番わかりやすい乃木大将の殉死の解説であり、また、さすが小説家、乃木大将が泣いていたという事実から、上記のような乃木大将の思いを推察したのでしょう。軍人として司馬遼太郎は乃木大将を否定しているわけですが、一方で人として畏敬していたかと思います。

 

乃木大将の『中朝事実』の講義から33年の後、昭和20年・1945927日に、連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサーと昭和天皇の第1回目の会見があります。当初「命乞い」に来るのだろうと、出迎えにも行かなかったマッカーサーですが、「全ての責任は私にある、私はどうなってもかまわないが、日本国民を助けてくれ…」と言った昭和天皇に感動したという有名な話です。昭和天皇の態度を知れば、乃木大将はさぞかし喜んだことでしょう。

 

「天皇の話はこうだった。『私は、戦争を遂行するにあたって日本国民が政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対して、責任を負うべき唯一人の者です。あなたが代表する連合国の裁定に、私自身を委ねるためにここに来ました』 ――大きな感動が私をゆさぶった。死をともなう責任、それも私の知る限り、明らかに天皇に帰すべきでない責任を、進んで引き受けようとする態度に私は激しい感動をおぼえた。私は、すぐ前にいる天皇が、一人の人間としても日本で最高の紳士であると思った。」

『マッカーサー回顧録』1963年

 

マッカーサーは、やはり軍人であった父のアーサー・マッカーサーからNOGI(乃木大将)の話を聞いていたわけでしたが、その感銘を受けた昭和天皇が乃木大将から薫陶を受けていたことは知っていたのでしょうか?

 

「ウォシュバンはともかく手放しで乃木大将を称賛しつづけているため、本書は客観的な史料としては評価されていないのだが、欧米にもたらした影響にはそうとう大きいものがある。“NOGI” を知らない欧米の軍人はいなかった。アジアの軍人にもいなかった。たとえばダグラス・マッカーサーの父アーサーも “NOGI” に感銘し、息子に「つねにサムライたる乃木のような軍人になれ」と諭した。息子のマッカーサーはGHQ司令長官として東京に着任した数日後、赤坂の乃木神社を訪れて花水木を植樹した。いまもその木が残っている。」

松岡正剛の千夜千冊・第849夜・2003年3月9日‐『乃木大将と日本人』(No.23 梅雨でも孫文がいた頃)

 

「武士道的な思想・考え方」は、鎌倉期にまで遡れるのでしょうが、それが江戸期に入り、武士が為政者となり、その行動規範がどうやら「陽明学」(人はどう行動すれば美しいか、ということを考えるのが江戸の武士道倫理であろう。人はどう思考し行動すれば公益のためになるかということを考えるのが江戸期の儒教である。この二つが、幕末人をつくりだしている。)ということのようです。次回は、見方によってはかなり危険な「陽明学」について、考えてみたいと思います。

 

個人的な話ですが、ふと思えらく、私にも陽明学徒的な傾向があるようです…。

 

以上

2023年6

No.23 梅雨でも「孫文のいた頃」をみるlist-type-white

 

No.25 盛夏でも「孫文のいた頃」をみるlist-type-white