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ー世界に「日本が存在していてよかった」と思ってもらえる日本に…
No.46 首夏の候「孫文のいた頃」
首夏
甕頭竹葉經春熟 階底薔薇入夏開 白居易
甕頭ノ竹葉ハ春ヲ經テ熟シ 階底ノ薔薇ハ夏ニ入リテ開ク
わが宿の かきねや 春をへだつらむ 夏來にけりと 見ゆる卯の花 源順
白居易(はくきょい・白楽天772-846)源順(みなもとのしたごう・911-983)
首夏-夏の初め、甕頭(おうとう)-酒甕(さかがめ)、竹葉-竹葉酒(美酒名、青みがかった色を竹葉に喩えた)、階底-階段の下
和漢朗詠集
◆前回までの流れと復習
「文化によって異なる時間の概念」をテーマに考えてきました。「No.42 孫文のいた頃」から「仏教の時間観」の考察に移り、ここで「時間とは即ち存在である。」という「仏教・華厳哲学」の大命題に遭遇してしまいました。「仏教の時間観」を考えるために、井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス ー 東洋哲学のために』(岩波書店・1989年)を頼りに「仏教・華厳哲学」の「存在論」から考え始めたのでした。そして「No.43~45 孫文のいた頃」の3回で、ほぼ「存在論」を終了し、締め括りに、前回では「縁起」について学習しました。
「〈縁起〉は、原語では “Pratītya-samutpāda”、文字通りには、〈(他者)のほうに行きながら、(他者)のもとに赴きながら “Pratītya”、現起すること “samutpāda”〉という意味です。〈他者のほうに行く〉とは、他者に依拠する、ということ。自分だけでは存在し得ないものが、自分以外の一切のものに依りかかりながら、すなわち、他の一切のものを〈縁〉として、存在世界に起こってくる、ということです。漢訳仏典では、これを簡単に〈縁起〉と訳すのです。すべてのものが、互いに依りかかり、依りかかられつつ、全部が一挙に現成する、という。前にお話しした、〈事②〉的存在の根源的関連性を、この語はよく表しています。」(井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス ー 東洋哲学のために』・No.45 「孫文のいた頃」)
「すべてのものは、相依相関的に、瞬間ごとに現起する。存在のこの流動的関連性は、無限に延びひろがって、一塵といえどもそれから外れることはない。簡単に言えば、これが「縁起」ということです。いちいちのものが、すべてのものにつながっている。このことをイマージュ的に表現するために、一塵起こって全宇宙が動く、などと申します。ただ一個の微塵が、かすかに動いても、その振動は、全体的存在関連の複雑な糸を伝って、宇宙の涯まで伝わっていく、というのです。」(同上)
上図は、No.44「孫文のいた頃」で、存在の解体から、「理事無礙」に至る考え方を表現した図に、「縁起」について考えながら「事事無礙」への展開を加えたものです。(私なりの理解なのでどこまで適切かはわかりませんが…)既出ですが、念のためこの2概念を整理しておきます。
「理・事無礙・りじむげ」:〈理=空②〉と〈事②〉の間に、無礙=障礙(さまたげ)が無い。透入して結局…等しい。
「事・事無礙・じじむげ」:〈事②〉と〈事②〉の間に、無礙=障礙(さまたげ)が無い。透入して結局…等しい。
(No.45「孫文のいた頃」)
「ある一物の現起は、すなわち、一切万法の現起。ある特定のものが、それだけで個的に現起することは、絶対にあり得ない。常にすべてのものが、同時に、全体的に現起するのです。事物のこのような存在実相を、華厳哲学は〈縁起〉といいます。〈縁起〉は、〈性起〉とならんで、華厳哲学の中枢的概念です。」(同上)
「華厳哲学」によれば「存在」の定義は「存在=全宇宙的相互関連性」ということになり、その「存在=全宇宙的相互関連性」は常に「流動・現起」しており、その「全宇宙的相互関連流動」のその「いちいちの、全ての流動」が「縁起」ということになるようです。
仏教時間観は「存在=時間」でした。確かに、上記「すべてのものは、相依相関的に、瞬間ごとに現起する。存在のこの流動的関連性は、無限に延びひろがって、一塵といえどもそれから外れることはない。」という「存在」と「縁起」の定義それ自体が、既にして「時間」について語っていますね。
さて、本来であれば、これからその「仏教時間観」がいかなるものであるかについて考察を始めるところですが、その前に、次の点に少し触れておきたいと思います。井筒俊彦が20人天才・井筒俊彦である所以です。
◆「東洋哲学」としての「華厳哲学」と「イスラム哲学」の類似
「仏教時間観」がテーマなのですが、ここで突然「東洋哲学」などと、範囲を拡げてしまいました。私に、これに深くかかわる能力もないのですが、行き掛かり上、少しだけ触れることにします。ここで云う「東洋哲学」とは「華厳哲学」と「イスラム哲学」のことです。
先ず、そもそも、この羅針盤か灯台のように、頼りにしている井筒俊彦の『コスモスとアンチコスモス ー 東洋哲学のために』(岩波書店1989年7月25日・第1刷発行)ですが、タイトルに「東洋哲学のために」とあります。この、30ヶ国語以上に精通し、司馬遼太郎が「20人の天才が1人になっている」と評した天才碩学・井筒俊彦は、この本で、初めから「華厳哲学」と「イスラム哲学」との比較、その類似性を語っていたのでした。
とはいえ、当初の目的は「仏教における時間観」の考察にありました。私自身、「華厳哲学」の理解すら心もとなく、ましてや全く知識のない「イスラム哲学」との比較を紹介することなど、到底不可能であると判断しました。そこで、この本の中から「華厳哲学」および「存在論」に関する部分に焦点を当て、それを手がかりとして皆さんと共に思索を深めてきた次第です。
井筒俊彦は一般に、言語学者、イスラム学者、東洋思想研究家等、とされていますが、彼の研究は「イスラム思想」から始まり、そこから、いわゆる縦割りのアカデミックなジャンルを縦横無尽に越えて「東洋思想学者」などという言葉はないので、「東洋思想研究家」辺りに落ち着いているのが現状です。
「だが、それにしてもなぜ今、*スーフィズムの哲学思想を、ことさら華厳哲学的術語に移し変えて提示しようとするのか。それは、ひとえに意識と存在に関わる華厳哲学的構想が、決して華厳だけの独占物ではなくて、むしろ東洋哲学の、あるいは東洋的哲学の、根源的思惟形態の1つであると考えるからであって、このような見方からすれば、*法蔵の華厳哲学も*イブヌ・ル・アラビーのイスラム哲学も、それぞれこの根源的思惟形態の特殊な現れとして理解されることになるのである。」(同上)
*スーフィズム(英: Sufism):イスラム教の神秘主義哲学。アラビア語ではタサウウフと呼ばれるが、一般的に担い手であるスーフィーに英語のイズムをつけたもの。9世紀以降に生じた、イスラム教の世俗化・形式化を批判する改革運動であり、修行によって自我を滅却し、忘我の恍惚の中での神との神秘的合一を究極的な目標とする。(イスラム神秘主義という呼称が使われているが、スーフィー達が「神秘」を特に掲げているわけではない。)
*法蔵(ほうぞう・644-712年):長安出身、唐代の僧「中国華厳宗」第三祖。華厳教学の大成者、事実上の開祖。
*イブヌ・ル・アラビー(イブン・アラビー・1165-1240):セビリア王国の支配下にあったアンダルシアでアラブ系の名門に生まれる。中世のイスラム思想家。イスラム神秘主義(スーフィズム)の確立に寄与、後世に多大な影響を与えた。-Wikipedia
ここで勿論「スーフィズム」について深くに立ち入るわけにはいきません。「修行によって自我を滅却し、忘我の恍惚の中での神との神秘的合一を究極的な目標とする」という点は仏教の座禅に通じるものがあるでは…とは想像できますが…。ともあれ、井筒俊彦が、「イスラム哲学」と「華厳哲学」とを、根源的に同質のものと捉え、それを「東洋哲学」として位置付けていることをご紹介しました。
それにしても、そもそも一神教であるイスラム教と、その対極にあるような印象の「仏教」に「何故に共通性」が生れるのか?…非常に興味深くはありますが、その比較・対照が本来のテーマではないので、ここではあまり深く立ち入らないようにはします。
ご興味のある方は是非この『コスモスとアンチコスモス ー 東洋哲学のために』(岩波書店1989年7月25日・第1刷発行)に直接あたってください。(余談になりますが、これからの時代、「イスラム文化・思想」も避けては通れないものであり、学校教育等でも、もっと扱うべきであると思います。)
この本の上記日付は単行本出版時のものであり、初出は、それぞれの章によって異なります。もともと海外での学術会議において英語で発表された講演録をもとに、内容を吟味し日本語に翻訳したもの、とのことです。(それにしても、この本を羅針盤にしたのは、完全に「コラム向き」ではなく、難航続きではありますが、一方、目から鱗的Luckyであるとも思っています。やれやれ…。)
「初出覚書
I〈事事無礙・理理無礙―存在解体のあと〉 『思想』1985年7·9月号
II〈創造不断―東洋的時間意識の元型〉 『思想』1986年3・4月号
Ⅲ〈コスモスとアンチコスモスー東洋哲学の立場から〉 『思想』1987年3月号
IV〈イスマイル派「暗殺団」-アラムート城砦のミュトスと思想〉 『思想』1986年7·8月号
V〈禅的意識のフィールド構造〉 『思想』1988年8号」
井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス ー 東洋哲学のために』(岩波書店・1989年)
No.42~45「孫文のいた頃」で語った「存在論」は上記「I〈事事無礙・理理無礙―存在解体のあと〉『思想』1985年7·9月号」を基にしています。
ここで少し脱線します。読者の方から、「そもそも仏教って何?」という基本的なご質問をいただきました。仏教については、No.12~18「孫文のいた頃」で、いろいろな角度から触れています。そこでは、明治政府が「キリスト教」を国家の根本に据える欧米列強に対抗していく過程で、日本における「神道」や「仏教」の見直しが進められた経緯、そしてその混乱、さらに浄土真宗において「東本願寺維新」を起こした清沢満之の活躍などを紹介しています(No.18「孫文のいた頃」)。しかし、確かにこれまでの考察では、突然「華厳存在論」に話が進んでおり、「仏教とは何か?」という基本的な問いには直接触れていませんでした。前回、No.45「孫文のいた頃」の追記では、福岡伸一の『生命とは何か?』における「分節・属性から考えるアプローチを否定する」問いの立て方が、「華厳存在論」と通じるものであることに触れました。確かにこれは重要な視点かと思います。「仏教」における「属性・分節」については、Wikipediaを見れば詳細な説明があり、それも重要なのですが、ここで少し「仏教とは何か?」という本質論に触れてみたいと思います。ちなみに、福岡伸一の著書『世界は分けてもわからない』(講談社現代新書、2009年)には、次のような印象的な言葉が記されています。「世界は分けないことにはわからない。しかし、世界は分けてもわからないのである。」確かにその通りなのでしょう…。我々は、理解するために、「部分」から考えないと「全体」をつかまえることができない傾向にありますが、その「部分の総合」が「全体ではない」ところが、ある意味、「世界の在り方」でもあるのでしょう。上記、No.18「孫文のいた頃」でもふれた、「世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。・”The world is the totality of facts, not of things.”」が思い出されます。
ここで一冊、お薦めの本をあげておきます。もっとも、このコラムに登場する様々な本は全て、お薦めのつもりでご紹介しているのですが ー いや、むしろ、本を紹介するためにこのコラムを書いているような気もします…。
河合隼雄(かわいはやお、昭和3年・1928-平成19年・2007、心理学者・京都大学名誉教授)と中沢新一(なかざわしんいち、昭和25年・1950- 、宗教史学者・文化人類学者・ 千葉工業大学日本文化再生研究センター所長)との対談本である『仏教が好き!』(2003年・朝日新聞社)です。
高名な心理学者である河合隼雄が、仏教・宗教・文化人類学の専門家である中沢新一に質問する形式の対談集です。「仏教」を「キリスト教」、「イスラム教」、「ヒンドゥー教」と対比しながら、話を進めているので参考になると思います。仏教とは何かということを考えさせられると同時に、宗教とは何かということも考えさせられます。結局「○○とは何か?」については、様々なものを参考にしながら、自分の頭で考え、理解していくしかありません。是非みなさん、ご自身で考えてみてください。
冒頭、河合隼雄が「〈仏教とは何か〉言うたら、どういうふうにしゃべるんですか。」と切り出し、中沢新一が「仏教はまず〈宗教ではない宗教〉と言えるんじゃないですか。少なくとも僕はそんなふうに理解して、仏教に関心を持ちつづけてきました。」と答えるところから始まります。
因みに、この本にも井筒俊彦(1914-1993)がしばしば登場します。
「中沢 ― 井筒先生の場合、イスラム教から入って仏教やユダヤ教にもキリスト教にも何でも深い理解を持って、さまざまな宗教を超えたメタ宗教の可能性というものを構想していらした。僕が学生の頃には、井筒先生の仕事は円熟してきて、しだいにイスラム教と仏教をまったく同等に語られるようになった。〈《アッラー》は普通言われている《神》ではない。イスラム教が最も深いところで理解している《アッラー》というのは仏教が言う《真如》と同じなんだ〉とまで言い出されています。」(同上)
因みに、中沢新一は「僕は仏教徒ではありますけれども、仏教学者ではありません。なる気もありません。そうではなく、仏教に沈潜することによって、諸宗教の先にあるもの、井筒先生の言われるメタ宗教に辿りついていくために、最短のルートとして仏教から入ったということなんですね。」とも述べています。中沢新一も井筒俊彦の後を追いかけているのでしょう。
さて、だいぶ寄り道をしてしまいましたが、何らかの参考にはなったかと思います。当初はすぐに「道元の時間論」に入る予定でしたが、少し方針を変更し、「東洋(イスラムと仏教)的時間意識の元型」の対比・対照の観点から考えてみたいと思います。
◆「東洋(イスラムと仏教)的時間意識の元型」
「時間論」については、井筒俊彦が展開している論理をそのまま追って、イスラム哲学と華厳哲学の対比において、すこしだけ見ていきます。ここに2名の思想家が登場します。イブヌ・ル・アラビー(1165-1240)と曹洞宗の開祖・道元(どうげん・1200-1252)です。道元はある程度なじみがありますが、イブヌ・ル・アラビー(イブン・アラビー)については、上記で註を付けましたが、私は知りませんでした。
「イスラーム思想と仏教思想とは、起源からいっても、宗教的基盤の性格からいっても、さらにはそれらの歴史的発展の経緯からいっても、互いに著しく相違する。にもかかわらず、両者は、それぞれの時間意識の元型的構成において、互いにかくも近い。同じ一つの元型を共有すると言っても決して過言ではないほど近い。しかし、逆の見方をすれば、その同じ一つの元型が、両者において、非常に違う形で展開し、それぞれのイスラーム的時間論、仏教的時間論として具体化している。時間の原初的直覚における根本的一致、それの思想的展開における具体的相違。たしかに、我々の一考に価する問題が、そこにある、と思う。」
井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス ー 東洋哲学のために』
上記、先に結論として「イスラーム思想」と「仏教思想」に相違点が数多くあるにもかかわらず…時間についての「根本的一致」が見られることに言及しています。更に、その「思想的展開における具体的相違」も興味深いですが、ここでは、ともかくどんな「根本一致」なのかだけを見てみます。
▶ イブン・アラビーの「時々刻々の新創造」と道元の「有時・うじ」
イブン・アラビーに「時々刻々の新創造」という言葉に象徴される「時間・存在論」があるといいます。先ず「時間論」です。我々の日常的経験感覚では、時間は一様に流れる連続体の印象ですが、そうではなく「時間は、その真相において、ひとつ一つが前後から切り離されて独立した無数の瞬間の断続、つまり非連続の連続である」と定義しています。
「〈時々刻々の新創造〉。この表現は、それ自体のうちに、時間論と存在論との二側面を合わせもっている。〈時々刻々〉が、その時間論的側面であることは明瞭であろう。その点だけは明瞭だが、しかし、それが哲学的に含意するところは必ずしも明らかではない。先ず、時々刻々とは、時の念々起滅を意味するということに注目する必要がある。すなわち、これは時間の直線的連続性の否定なのである。外界の事物、いわゆる外的世界、とは本性的にはなんの関わりもなく、一様に流れる〈絶対時間〉(ニュートン)、どこにも途切れのない恒常的連続体としての時間を否定して、途切れ途切れの、独立した(〈前後際断〉)時間単位、刹那、の連鎖こそ時間の真相であると、この考え方は主張する。要するに、時間は、その真相において、ひとつ一つが前後から切り離されて独立した無数の瞬間の断続、つまり非連続の連続である、というのだ。」(同上)
そして「存在論」ですが、その「時間」の「時々刻々・無数の瞬間の断続」に呼応して、「存在」も「時々刻々の新しい世界現出」であるといいます。そして、このイブン・アラビーの
「時と存在」同定は、道元の「存在·即·時間」と同じであるといいます。
「しかし、それだけではない。この種の哲学的思惟元型においては、時は有(存在)と密接不離の関係にあり、窮極的には時は有と完全に同定される ― 道元のいわゆる「有時・うじ」存在·即·時間。従って、時の念々起滅は、同時に、有の念々起滅でもある。
時間と存在とのこの不二性については、後に詳説するところがあるので、これ以上ここでは言わないことにするが、とにかく、さきに挙げた「時々刻々の新創造」という表現の最後の一語、「新創造」、がそれの存在論的側面であることは言うまでもない。要するに、「時々刻々の新創造」とは、時々刻々の新しい世界現出ということ。つまり、時の念々起滅とともに有の念々起滅が現成し、刻々に新しい存在世界が、いつも、新しく始まる、始まっては終り、終ってはまた新しく始まっていく、というのである。」(同上)
「存在と時間は同じもので、しかも、その両方が、瞬間、瞬間ごとに新しくなっている。」まあ、そう言われても、我々の日常的経験感覚では理解し難いですね…。一応、井筒俊彦は、下記で少しは、一般人のフォローをしてくれてはいますが、このように結論付けて、東洋哲学における「存在と時間」の概略案内を終えます。本格的なこの論考はここから始まるのですが、とりあえず、我々としては、「イスラム哲学」と「華厳哲学」の「存在論・時間論」において、「東洋哲学」として、その元型が一致している、ということを知ったわけです。
「時と有と(あるいは、時すなわち有)の、この念々起滅の実相に、我々一般の常識的人間は ―たまたまそれに気付くことがあったとしても― せいぜい、人の世の儚さを感じるくらいのものである。時々刻々の〈新創造〉を、存在の無常、万物の流転遷流として、情的に感受するのだ。これに反して、東洋の哲人は、この同じ念々起滅の実相に、時と存在の限りない充実の姿を見る。刻々に移ってやまぬ時の流れの一瞬一瞬の熟成に全時間の重みを感得し、一瞬ごとに現成するひとつ一つのもののなかに、全存在世界の開花を看取する。だが、この一見不可思議な事態の内部構造の、より分析的な理解のためには、後で、もっと多くの言葉が費やされなければならない。だから、論述のこの時点では、さしあたり、「新創造・ハルク デャディード」という術語を、時々刻々に世界は新しく生起するという意味に了解した上で、それを東洋的時間体験の元型の一つとして措定することにとどめておきたい。」(同上)
「存在と時間は同じもので、しかも、その両方が、瞬間、瞬間ごとに新しくなっている…。」そう言われて、私がどうしても連想してしまうのが、前回No.45「孫文のいた頃」の追記「〈華厳哲学〉から福岡伸一の〈動的平衡・Dynamic equilibrium〉を思い出す ❶
で紹介した「動的平衡」の考え方です。「生命とは動的平衡にある流れである。」・「生命とは要素が集合してできた構成物ではなく、要素の流れがもたらすところの効果なのである。」これについては下の「追記」で…。
さて今回は、イスラム哲学と華厳哲学の類似性というちょっと不思議な展開になり、またして「道元の時間論」にまで辿り着くにいたりませんでした。次回こそそこから考えてみたいと思います。
以上
2025年4月
追記「華厳哲学」から福岡伸一の「動的平衡・Dynamic equilibrium」を思い出す ➋
前回は、大学初年度の頃に「生命とは何か?」という問いに遭遇した、福岡伸一の「動的平衡」という「生命観」の発想にまで至る経緯を時系列的に追ってみました。
機械的生命論によって遺伝子を操作し、福岡伸一は「GP2遺伝子」というものを欠いた実験マウス(ノックアウト〈一部遺伝子が破壊された〉・マウス)をつくり、その「GP2遺伝子」がどんな働きを持つものかを調べる実験を行いました。しかし、この「遺伝子欠損マウス」に何の変化も起こらず、ありとあらゆる精密検査にもかかわらず、どこにも異常も変化も見られなかったといいます。「私たちは困惑した。一体これはどういうことなのか。」「実は、私たちと同じような期待をこめて全世界で、さまざまな部品のノックアウトマウス作成が試みられ、そして私たちと同じような困惑あるいは落胆に見舞われるケースは少なくない。」(福岡伸一『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書・2007年)
なぜ、「GP2遺伝子」が欠損しているにもかかわらずマウスに変化が見られなかったのか――このような現象がなぜ起きたのかを考える中で、「動的平衡」の先駆者であるルドルフ・シェーンハイマー(Rudolf Schönheimer, 1898–1941)の研究が浮かび上がってきます。彼は「身体構成成分の動的な状態(The dynamic state of body constituents)」という概念を提唱しました。DNAの発見(1953年)以前に活躍した生化学者であり、彼は「生命は機械ではない。生命は流れである」と定義しました。この考えに、福岡伸一は改めて思い至ったといいます。
これに関連するYouTube動画があるので、ご紹介し、それをもとに話を進めていきたいと思います。動画の長さは約2時間と長めですが、今回のテーマである「動的平衡」に加え、「生命とは何か」という根源的な問いについても、解剖学者、分子生物学者、仏教学者といった多様な著名専門家による非常に興味深い議論が展開されています。ぜひご覧になることをお勧めします。
第5回親鸞フォーラム-親鸞仏教が開く世界-(2011年2月6日)主催 真宗大谷派(東本願寺)
・シンポジウムテーマ :『仏教と生命-いのちのゆくえ-』
・パネリスト:養老孟司(東京大学名誉教授)、福岡伸一(青山学院大学教授)、織田顕祐(大谷大学教授)・コーディネーター:木越 康(大谷大学准教授)
https://youtu.be/SGZXb4UWTbs?si=y36Yv2mO2gUunzdq
このシンポジウムにおいて福岡伸一は、ルドルフ・シェーンハイマーが「生命は機械ではない。生命は流れである。生命は動的状態にある。」という発見に至った経緯を、シェーンハイマー自身が行った「ネズミの食物摂取」の観察実験を紹介して説明します。それ以前、すなわちこの実験が行われた1930年代頃までは、生物が食物を取り入れるということは、体内にエネルギーを取り込み、それが燃焼されて、最終的に「二酸化炭素」と「水」として排出される――という過程として理解されていたといいます。実際のところ、これは漠然とした印象ですが、現在でも、日常経験感覚では「食物摂取」といえば、そのようなイメージを持たれるのではないでしょうか。さて、ここからは、その観察実験の具体的な進め方について見ていきましょう。
「タンパク質を構成するアミノ酸にはすべて窒素が含まれている。ひとたび食べてしまえば普通、そのアミノ酸は体内のアミノ酸にまぎれて行方を追うことは不可能になる。しかし、重窒素(アイソトープ)をアミノ酸の窒素原子として挿入すれば、そのアミノ酸は識別できる。」(同上)(この同位体・アイソトープを利用した実験論理を私はよく理解できているわけではありません…。ともかく、「〈食べたもの〉が〈分子レベル〉で追跡できる〈方法〉があった」、という理解です。)
①オレンジ色のネズミが緑色のチーズを食べます。
「ネズミ(オレンジ色)は必要なだけ餌(緑色・チーズ)を食べ、その餌は生命維持のためのエネルギー源となって燃やされる。だから摂取した〈重窒素アミノ酸(これが追跡可能、追跡するのが目的)〉もすぐに燃やされてしまうだろう。当初、こうシェーンハイマ-は予想した。当時の生物学の考え方もそうだった。アミノ酸の燃えかすに含まれる重窒素はすべて尿中に出現するはずである。」(同上)
②ところが摂取したアミノ酸はネズミの体中にくまなく分散され取り込まれていました。
「重窒素アミノ酸を与えると(我々が食事をすると)瞬く間にそれを含むタンパク質(食べたもの)がネズミ(我々)のあらゆる組織に現れるということは、恐ろしく速い速度で、多数のアミノ酸が一から紡ぎ合わされて、新たにタンパク質がくみ上げられているということである。」(同上)
③・④しかも、ネズミの体重に変化がありません。
「さらに重要なことがある。ネズミ(我々)の体重が増加していないということは、新たに作り出されたタンパク質と同じ量のタンパク質が恐ろしく速い速度で、バラバラのアミノ酸に分解され、そして体外に捨て去られていること(排泄行為)を意味する。つまり、ネズミ(我々)を構成していた身体のタンパク質は、たった3日間のうちに、食事由来のアミノ酸の約半数によってがらりと置き換えられたということである。」(同上)
この説明によると、ネズミの場合は72時間でネズミ自身の身体の半分が「入れ替わっている」ということになります。どこかで語っていることとは思いますが、ならば我々(≒ネズミ)が、細胞?的に完全に「入れ替わる」に要する時間は何時間なのでしょう…ふと「三日坊主」などという言葉を連想しました。
「外から来た重窒素アミノ酸(食物)は分解されつつ再構成されて、ネズミ(我々)の身体の中をまさしく、くまなく通り過ぎていったのである。しかし、通り過ぎたという表現は正確ではない。なぜならそこには物質が〈通り過ぎる〉べき〈入れ物〉があったわけではなく、ここで〈入れ物(ネズミ・我々の身体)〉と呼んでいるもの自体を、通り過ぎつつある物質が、一時、形作っていたにすぎないからである。つまりここにあるのは流れそのものでしかない。」(同上)
⑤「動的平衡」という「生命観」の誕生
「私はここで、シェーンハイマーの発見した生命の動的な状態(Dynamic state)という概念をさらに拡張して、〈動的平衡〉という言葉を導入したい。この日本語に対応する英語はDynamic equilibrium である。海辺に立つ砂の城は実体としてそこに存在するのではなく、流れが作り出す効果としてそこにある動的な何かである。私は先にこう書いた。その何かとはすなわち平衡ということである。生命とは動的平衡にある流れである。」「〈動的平衡〉とはそれを構成する要素は絶え間なく消長、交換、変化しているのにも関わらず、全体として一定のバランス、つまり恒常性(平衡)が保たれる系」(同上)
⑥それなら何故、絶え間なく壊されている秩序(今・現在)がその秩序(今・現在)の維持(平衡)を保つことができるのか?
秩序を保ちながらも、その一瞬一瞬で〈細胞、肉体、世界〉が変わっているなら…上記、コラム本編、イブン・アラビーの「時々刻々の新創造」、「存在・時間は継続していない」、「刻々に新しい存在世界が、いつも、新しく始まる、始まっては終り、終ってはまた新しく始まっていく」、「時々刻々に世界は新しく生起するという意味に了解した上で、それを東洋的時間体験の元型の一つとして措定する」といった、イスラム哲学時間論や華厳時間論を連想させます。
そして、「動的平衡の生命観」から考えると、結論としては「〈関係性〉によって要素の位置と役割が決まる。」ということのようです。つまり、我々を構成している個々の分子や原子は、機械の部品のようにそこにはめ込まれているのではなく、互いに絶えず「〈関係性〉を保ちながら入れ替わっている。」と説明されています。この説明を聞くと、やはり華厳の「存在論的〈関係〉性」を連想せざるを得ません。両者は、ほぼ同じようなことを言っていているようで、何やら、「華厳存在論」なのか「動的平衡の生命観」なのか混乱してしまいます。
-「事事無礙」・華厳存在論で一番重要な「存在論的〈関係〉性」
「すべてのものが無〈自性〉で、それら相互の間には〈自性〉的差異がないのに、しかもそれらが個々別々であるということは、すべてのものが全体的関連においてのみ存在しているということ。つまり、存在は相互関連性そのものなのです。根源的に無〈自性〉である一切の事物の存在は、相互関連的でしかあり得ない。」井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス ー 東洋哲学のために』(No.44「孫文のいた頃」)
さて、福岡伸一はこの「動的平衡」における「関係性」を「ジグソーパズル」を例に説明します。
ジグソーパズル(jigsaw・曲線を切るための糸ノコギリ):一枚の絵を幾つかの小片(ピース)に分解して、分解した物を再び組み立てるというパズル。各ピースは長方形に似た形ながら、各辺に円状の凸部または凹部があり、それにより隣のピースとかみ合うようになっている点がこのパズルの特徴である。良く似た形のピースが複数存在するが、全く同じ形をしたピースは無い。―Wikipedia
「ジグソーパズルを組み上げるのに、絵柄は本質的に必須のものではない。ある種の自閉症の子供は、ジグソーパズルを裏向けたまま、驚くべき速度で組み立てることができるという。あるいは、無地のジグソーパズルというものが現に存在するし、硬質のクリスタルガラスで作られた透明なジグソーパズルもある。絵のない、かたちだけのジグソーが描く曲線群はアーティスティックですらある。
たとえ絵柄がなくともピースはそれぞれまったく独自のかたちをしているので、そのまわりを取り囲みうるピースもまた一義的に決定される。あるピースを選び、そのピースと結合しうるピースをすべてのピース群から総当たり的に探し出すことを行えば、そしてこれを繰り返していけば、ジグソーパズルのネットワークは必然的に構成されていくことになる。
つまり全体の絵柄を想定しながらパズルを組み立てるという鳥瞰的な視点、いうなれば「神の視座」はジグソーパズルの外部にこそあれ、その内部に存在する必要はまったくない。パズルのピースは全体をまったく知らなくとも、全体の中における自分の位置を定めることができるのである。」
福岡伸一『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書・2007年)
私はジグソーパズルを実際にやったことはありません。それほど興味も無かったので、このジグソーパズルが持つ性質として、実質、絵柄は不要で透明(無地)ジグソーパズルが存在する、全てのピースは形状が異なる、全体像がわからなくても1つ1つの「ピースの情報」だけで場所が特定できる等…であるということを知って、新鮮に感じました。
アクリル製の透明ジグソーパズル
「一般のパズルと違い、一度作って終わりではありません。何度でも繰り返し遊べます。透明で裏表もわからない超難関パズル上級81ピースです・受注生産」デジタル工房GAZO(Yahooショッピング)
上記は、「動的平衡としての生命観」における「関係性」を説明するための比喩です。「パズルのピースは全体をまったく知らなくとも、全体の中における自分の位置を定めることができるのである。」という点に注目してください。たとえ中央のピースが欠けていても、周囲の8つのピースが揃っていれば、「場所」と「意味」は維持されます。しかもその1つのピースは結果的に、他の全てのピースと関係しています。それにしても、繰り返し述べてきたように、この「動的平衡」という生命観が、「華厳的存在論」や「時間論」と強く重なって見えてしまうのは、果たして私だけでしょうか。
「しかし、とにかく、どの瞬間においても、例えばAという一つのものは、他の一切のものとの複雑な相互関連においてのみ、Aというものでありうる。ということは、Aの内的構造そのもののなかに、他の一切のものが隠れた形で、残りなく含まれているということであり、またそれと同時に、反面、まさにその同じ全体的相互関連性の故に、AはAであって、BでもCでも、X、Yでもない、という差異性が成立するのです。
ただ一つのものの存在にも、全宇宙が参与する。存在世界は、このようにして、一瞬一瞬に新しく現成していく。」(井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス ー 東洋哲学のために』)No.45「孫文のいた頃」
そして、この「動的平衡の生命観」にも「時間」が登場します。今回の最後に、少し長くなりますが、その個所を引用します。「華厳哲学」を頭に於いてこの「動的平衡」の生命観を考えてみてください。
「〈プリオンタンパク質を完全に欠損したマウス〉は異常にならない。このジグソーピースは、なければないで特に不都合を引き起こすことはないのだ。ところが、〈頭から三分の一を失った不完全なプリオンタンパク質をもつ、すなわち〈部分的な欠落〉をもつマウス〉には致命的な異常をもたらしてしまった。
テレビの回路を構成する素子に関してこのような事態はありうるだろうか。そのピースを取り去ってもテレビはちゃんと映る。けれどもそのピースをすこしだけ壊すとテレビは映らなくなる。こんなことが起こりうるだろうか。普通はこの逆だ。ピースの損傷は、それが部分的であれば何とか画像は多少乱れつつも映るかもしれない。しかしピース全体が欠損してしまえばもはや画像は映らない。
(生命体にとっては)ピースの部分的な欠落のほうがより破壊的なダメージをもたらす。むしろ最初からピース全体がないほうがましなのだ。このようなふるまいをするシステムとは一体どのようなものなのだろうか。
そうなのである。やはり、私たちには何か重大な錯誤と見落としがあったのだ。重大な錯誤とは、端的にいえば「生命とは何か」という基本的な問いかけに対する認識の浅はかさである。そして、見落としていたことは「時間」という言葉である。
生命とは、テレビのような機械ではない。このたとえ自体があまりにも大きな錯誤なのだ。そして私たちが行った遺伝子ノックアウト操作とは、基板から素子を引き抜くような何かではない。
私たちの生命は、受精卵が成立したその瞬間から行進が開始される。それは時間軸に沿って流れる、後戻りのできない一方向のプロセスである。
さまざまな分子、すなわち生命現象をつかさどるミクロなジグソーピースは、ある特定の場所に、特定のタイミングを見計らって作り出される。そこでは新たに作り出されたピースと、それまでに作り出されていたピースとの間に、形の相補性に基づいた相互作用(という関係)が生まれる。その相互作用は常に離合と集散を繰り返しつつネットワーク(という関係)を広げ、動的な平衡状態を導き出す。一定の動的平衡状態が完成すると、そのことがシグナルとなって次の動的平衡状態へのステージが開始される。
この途上の、ある場所とあるタイミングで作り出されるはずのピースが一種類、出現しなければどのような事態が起こるだろうか。動的な平衡状態は、その欠落をできるだけ埋めるようにその平衡点を移動し、調節を行おうとするだろう。そのような緩衝能が、動的平衡というシステムの本質だからである。平衡は、その要素に欠損があれば、それを閉じる方向に移動し、過剰があればそれを吸収する方向に移動する。」(福岡伸一『生物と無生物のあいだ』講談社現代新書・2007年)
「機械には時間がない。原理的にはどの部分からでも作ることができ、完成した後からでも部品を抜き取ったり、交換することができる。そこには二度とやり直すことのできない一回性というものがない。機械の内部には、折りたたまれて開くことのできない時間というものがない。
生物には時間がある。その内部には常に不可逆的な時間の流れがあり、その流れに沿って折りたたまれ、一度、折りたたんだら二度と解くことのできないものとして生物はある。生命とはどのようなものかと問われれば、そう答えることができる。」(同上)
世界は「人が理解・認識しやすい因果律」ではなく「人が理解・認識しにくい関係律」で成り立っている…?
福岡伸一は、「機械」との対比において、「生命」の誕生経緯から考えて「時間」という概念を立てています。まあ、この辺りから、私自身の能力不足を痛感せざるを得ず…きちんとした「華厳哲学」と「動的平衡」の対比ができない…どちらも未消化で、能力、勉強不足を痛感します。彼は上記の7年後にこんなことを語っています。下記は玄侑宗久(げんゆうそうきゅう・1956年– 、芥川賞作家、臨済宗の僧侶)との対話からです。
「福岡:私も初めは、まさに還元主義的、機械論的な生命観に立って、生物をどこまでも細かな要素に切り分ける作業をしていたわけです。でも、それを極限まで突き詰めて、いわば臨死体験をしたことで(笑)、生命はそれだけでは捉え切れないという考え方に行き着いた。ですから、最初から動的平衡のようなことを考えていたわけではないんです。
分子生物学では基本的に、AがBを成し、BがCを成すという因果律で世界を捉えます。でも、生命が流れである限り、そこに見える因果律は、一時的に釘づけされたものでしかないですよね。次の瞬間には因と果が逆転しているかもしれないし、因果自体、消えているかもしれない。こういう私の考え方が、仏教となじむのかもしれません。ただ、生物の体が要素の絶えず入れ替わる動的な状態にあることを示したのはルドルフ·シェーンハイマーというユダヤ人の科学者ですし、この世界そのものが流れであるという知見は古く西洋世界からも出ていますから、仏教に限らず、人類が太古から抱いていた世界観なのではないでしょうか。」
福岡伸一『動的平衡ダイアローグ』2014年・木楽舎
また、下記は平野啓一郎(ひらのけいいちろう1975年‐、芥川賞作家 )との対話です。
「福岡:例えば、因果律の考え方もその一つです。複雑系のような比較的新しい議論も、チョウが羽ばたくとはるか離れた場所で嵐が起こるというように、基本的には因果律を認めています。でも、実際そこにあるのは動的な平衡状態によるある種の同時性だけで、チョウが羽ばたいて嵐が起こることもあれば、起こらないこともある。自然をパ夕ーン化して捉え過ぎると、東日本大震災のように「想定外」のことも起きます。その意味でも、この世界のすべてがアルゴリズム的に記述できるという考え方は、そろそろ見直さないといけないと思うんです。」(同上)
「機械」は完全に「因果律」のもとに設計、組み立てられ機能しています。そして基本的には修復可能です。しかし、「時間」が密接にかかわる「動的な平衡状態によるある種の同時性」即ち「我々がコントロールできない関係の同時性」ただ、一瞬一瞬、変化し、その時、いわゆる「感覚的連続時間」は消え、実は「永遠の現在」としての「今」そしてそれは「存在」における「関係」のことでは(今=関係)…と思ったりもします。即ち「関係律」(私の勝手な造語)と言ってもいいのかもしれません。
さてさて、今の私ではこのくらいまでで手一杯です。福岡伸一は多くの一般向け著作、またネット上の動画等も数多くありますから、是非ご自身であたってみてください。
それにしても、井筒俊彦が78歳で他界したのが1993年、当時、福岡伸一はまだ34歳でした。そして、『生物と無生物のあいだ』が刊行されたのは2007年、福岡氏が48歳のときです。彼が「動的平衡という生命観」をいつ着想したのかは定かではありませんが、もし井筒俊彦と対談する機会があったなら……と、つい想像してしまいます。