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国際交流・留学にすぐには役立ちそうにない教養講座52


ー世界に「日本が存在していてよかった」と思ってもらえる日本に…

 

No.  52 十月江南天気好の「孫文のいた頃」

 

・十月江南天気好 可憐冬景似春華 白居易

 十月江南天気好シ 憐レムベシ冬ノ景ノ春ニ似テ華カナルコト

・神無月 降りみ降らずみ さだめなき 時雨ぞ冬の 初めなりける 詠人不知『後撰和歌集』

・初時雨 名もなき山の おもしろき 良寛

・静けさを こひもとめつつ 来にし身に 落葉木立は 雨とけぶれり 若山牧水

【白居易】中唐期の詩人(772‐846)引用部分は『早冬』の冒頭の2句。憐レムベシ:何と素晴らしいことよ。

【後撰和歌集】村上天皇(926-967)の下命による二番目の勅撰和歌集。950年代成立。降りみ降らずみ:降ったり降らなかったり

【良寛】(1758-1831)曹洞宗の僧侶・詩歌俳人・隠者。

【若山牧水】(明治18年・1885 – 昭和3年・1928)歌人

倣 和漢朗詠集

 

菱田春草(明治7年・1874-明治44年・1911)『落葉・おちば』6曲一双、各157.0×363.0㎝、明治42年(1909)制作
永青文庫蔵、熊本県立美術館寄託 重要文化財

 

◆これまでの流れと復習

そもそもの発端は、No.39「孫文のいた頃」で取り上げた「国や文化によって異なる時間の概念」でした。そして、その背後には「日本とは何か?」という大テーマがあり、その一環として「日本の時間観」を探りたいと考えたのでした。そのため、古代ギリシア、キリスト教、古代中国の「時間概念」「歴史観」を比較検討して、No.42 「孫文のいた頃」で「仏教における時間観」を考えるに至り、そこで「時間とは即ち存在である」という「仏教・華厳哲学」の大命題に遭遇したのでした。そこで時間論の前に存在論に挑戦、ともかく通過しました。

 

ただ、歴史的に見ても、私も含めて、日本人の誰もが「時間=存在」という哲学的な「時間観・存在観」を持っていたわけではないでしょうが、様々な文学作品等を通しての、〈無常観〉、そして〈十干十二支〉や〈元号〉からの〈循環・回帰観〉と「時間とは即ち存在である」が、何らかの関係があるのか?と考えてみたかったのでした。

 

そして、その「時間=存在」を考えるために、「曼陀羅」について「No.48~51 孫文のいた頃」の4回で、井筒俊彦のいう「マンダラにおける無時間・超時間」を理解するために、今まで、そもそも言葉と画像イメージでしか知らなかった「曼荼羅」について考えたのでした。結果、ともかくある程度、井筒俊彦の言う「マンダラにおける無時間性・非時間性」について理解したような気にはなりました。

さて今回は、「華厳哲学」の「存在=時間」の、いよいよ「時間」についてです。

 

「華厳哲学」、「大乗仏教哲学」、道元(1200-1253)の『正法眼蔵』において、時間は連続ではなく「非連続の連続」、「薪は薪、灰は灰」、「時々刻々」そこに繋がりは無いということを学んだのでした。以下は、ほぼこの本の「読書会」状態になっていますが、井筒俊彦のいつもの『コスモスとアンチコスモスー東洋哲学のために』1989年岩波書店の中、『創造不断―東洋的時間意識の元型』からの引用(初出は『思想』‐19873号)に、小タイトルをつけて整理したものです。ほぼ「No.42 孫文のいた頃」の復習ですが、これを再考、思い出してから、次に進みたいと思います。

 

また、井筒俊彦はイスラム思想と比較しているので、更に話が複雑になりがちで、ただ、ここでは基本、「華厳思想」と「イスラム思想」の類似性について語っているので、パラパラと「イスラム思想」の用語が出てきますが、その対比には注目せず「華厳思想」、「大乗仏教思想」、「道元の思想」について考えていきたいと思います。

 

・時間の直線的連続性の否定(刹那の連鎖)

「時々刻々の新創造。この表現は、それ自体のうちに、時間論と存在論との二側面を合わせもっている。〈時々刻々〉が、その時間論的側面であることは明瞭であろう。その点だけは明瞭だが、しかし、それが哲学的に含意するところは必ずしも明らかではない。先ず、時々刻々とは、時の念々起滅を意味するということに注目する必要がある。すなわち、これは時間の直線的連続性の否定なのである。外界の事物、いわゆる外的世界、とは本性的にはなんの関わりもなく、一様に流れる〈絶対時間〉(二ュートン)、どこにも途切れのない恒常的連続体としての時間を否定して、途切れ途切れの、独立した(〈前後際断*〉)時間単位、刹那、の連鎖こそ時間の真相であると、この考え方は主張する。要するに、時間は、その真相において、ひとつ一つが前後から切り離されて独立した無数の瞬間の断続、つまり非連続の連続である、というのだ。」

 

・時間=存在

「しかし、それだけではない。この種の哲学的思惟元型においては、(存在)と密接不離の関係にあり、窮極的には時は有と完全に同定される ー 道元のいわゆる〈有時・うじ〉存在・即・時間。従って、の念々起滅は、同時に、の念々起滅でもある。」

 

・時々刻々と世界が現れる、終わる(〈現在〉と定義された時間だけが常にある?)

「さきに挙げた〈時々刻々の新創造〉という表現の最後の一語、〈新創造〉がそれの存在論的側面であることは言うまでもない。要するに、〈時々刻々の新創造〉とは、時々刻々の新しい世界現出ということ。つまり、時の念々起滅とともに有の念々起滅が現成し、刻々に新しい存在世界が、いつも、新しく始まる、始まっては終り、終ってはまた新しく始まっていく、というのである。」

 

・〈無常・儚さ〉を感じるのか〈本質・真理〉を感じるのか?

と(あるいは、すなわち)の、この念々起滅の実相に、我々一般の常識的人間は、たまたまそれに気付くことがあったとしても、せいぜい、人の世の儚さを感じるくらいのものである。時々刻々の〈新創造〉を、存在の無常、万物の流転遷流として、情的に感受するのだ。これに反して、東洋の哲人は、この同じ念々起滅の実相に、時と存在の限りない充実の姿を見る。刻々に移ってやまぬ時の流れの一瞬一瞬の熟成に全時間の重みを感得し、一瞬ごとに現成するひとつ一つのもののなかに、全存在世界の開花(本質・真理)を看取する。だが、この一見不可思議な事態の内部構造の、より分析的な理解のためには、後で、もっと多くの言葉が費やされなければならない。」

 

さて、ここまでは、「No.45、46 孫文のいた頃」2回で、牽強付会のおそれがなくはありませんが、分子生物学者、福岡伸一(1959-)の「動的平衡」理論を援用して、ともかく理解したのでした。

 

「肉体というものについて、私たちは自らの感覚として、外界と隔てられた個物としての実体があるように感じている。しかし、分子のレベルではその実感はまったく担保されていない。私たちの生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい〈淀み〉でしかない。しかも、それは高速で入れ替わっている。この流れ自体が〈生きている〉ということであり、常に分子を外部から与えないと、出ていく分子との収支が合わなくなる。」

福岡伸一『生物と無生物のあいだ』講談社現代新書・2007年

 

◆道元の『正法眼蔵』における「有時・うじ」的時間論(華厳と唯識)

さて、ようやく道元の時間論の本質に迫りたいと思いますが、それに先立ちまたまた、聞いたことはあるけれど、ちゃんとは知らない「唯識・ゆいしき」という考え方、哲学が登場します。

 

「仏教哲学史は、様々に錯綜する思想潮流の複雑多岐な展開過程だが、なかでも、道元の〈有時〉との関連において特に重要なのは、華厳の存在・時間論である。そしてまた、唯識の深層意識的存在・時間論も。これら仏教哲学の二大学派の思想のうち、〈有時〉概念の思想史的背景を把握するためにどうしても知っておかなくてはならない局面だけを特に選び出して次に略述し、道元の時間論への序説とすることにしよう。」

井筒俊彦『コスモスとアンチコスモスー東洋哲学のために』1989年岩波書店

 

◆唯識哲学と華厳哲学

道元の時間概念「有時・うじを理解するためには「仏教哲学の二大学派の思想」について、ある程度知識が必要のようです。

 

「唯識と華厳 ー 前者は、人間の意識深層における時間生起のひそやかな営みを分析的に解明して、時間の非常非断的性格の深層構造を明かし、後者、華厳、は存在の非時間的秩序と時間的秩序との接点を、すなわちtotum simul(一切一挙・全存在世界の一挙開顕・)的非時間フィールドが、いかにして、時々刻々に現成していく〈現在〉の多重多層的存在フィールドとして自己を時間化するか、その転換の機徴を、明らかにする。」(同上)

 

相変わらず、難解ですが、整理してみましょう。「唯識」とは字義的には「ただ(唯)(こころ)識だけがある」、つまり、「心・識」を8つのジャンルに分け(八識)、我々が見ている世界は、すべて心の働き(=識)によって成り立っている、という考え方です。世界(時間=存在)は「意識深層」によって存在しており、それは心の中で作られたイメージに過ぎない、となります。そして井筒俊彦が言及しているのが「意識深層」としている「阿頼耶識」のことです。その「意識深層」「時間の非常非断的性格の深層構造」を考えることになります。

 

「唯識」における「八識」

 

また、「華厳」については、上記で、「存在の非時間的秩序と時間的秩序との接点」、「一切一挙・全存在世界の一挙開顕」的非時間、今まで「曼荼羅」等で考察してきた、過去・現在・未来が同居しているような時間観ですが、ここではこの「唯識」と「華厳」の2つの考え方が必要なのだとういうことでしょう。先ず、下記に「華厳哲学」と「唯識哲学」の概略対比表を作成してみました。

 

 

◆世界を「関係」から見る・世界を「心」から見る

仏教思想の中でも、華厳と唯識は「哲学・世界の見方、世界の説明の仕方」を対照的に示しています。華厳が「存在そのもののあり方」を、唯識が「心のはたらき」を照らし出すように、両者は、例えば同じ山頂を目指しながら異なる側から登っていく観があります。

華厳の中心は「空(くう)」の思想であり、「華厳存在論」として、今までもさんざん考えてきましたが、この「空」は単なる虚無ではなく、すべてのものが互いに関係しあってこそ成り立つ、縁起の世界を指しています。

 

「すべてのものが無〈自性〉で、それら相互の間には〈自性〉的差異がないのに、しかもそれらが個々別々であるということは、すべてのものが全体的関連においてのみ存在しているということ。つまり、存在は相互関連性そのものなのです。根源的に無〈自性〉である一切の事物の存在は、相互関連的でしかあり得ない。「No.44 孫文のいた頃」

 

世界は固定した実体の集まりではなく、無数の関係が交錯しあう巨大な「網(もう)」のようなものと譬えられています。いつも例にあげる「1粒の米」に全宇宙の「時間=存在」が詰まっているわけです。さて、ここまでは復習です。

 

新たに登場した「唯識」は、外界の実在性を問うよりも、「心とは何か」を探る、世界は「心の鏡」に映る像であり、私たちが見ているものは、結局のところ心が作り出した世界にほかならない、ということのようです。唯識の哲学では、深層に「阿頼耶識・あらやしき」という根源的な意識があるとしています。そこから無数の「識」が働き、我々の経験世界を立ち上げているといいます。「花」が美しく見えるのも、心がそう映しているからだ、という解釈になります。この思想の方向は、外界を分析するよりもむしろ内面を分析することで、心の構造を探り、その迷妄を識り、やがて「転識成智(識を転じて智と成す)」の境地に至ることを目的としています。

 

要するに、華厳は「存在の関係性」を説き、唯識は「認識の主体性」を説き、前者が宇宙の全体を映す巨大な「網の哲学」であり、後者は心の奥底を照らす「鏡の哲学」となります。同じ仏教の流れですが、この二つの思想は、外と内、存在と心、全体と個、という二つの方向から、世界を考えてきた、ということになります。

 

◆「唯識哲学」の「阿頼耶識・あらやしき」

この「阿頼耶識」理解がまた大きな壁のようです。

 

我々のあらゆる行為は ー 内的行為であると外的行為であるとを問わず、また我々自身がそれに気付くか気付かぬかに関わりなく ー 必ず我々の心の深みに跡を残す。意識深層に残された経験の跡、それを唯識の術語で〈種子・ピージャしゅうじ〉という

 

我々の経験の一つひとつが、意識深層において〈種子〉になるということは、もう少し現代的な言い方をするなら、意識の深みに沁みこんだ経験は、そこで〈意味〉に転成する、ということだ。要するに〈種子〉とは、この見地からすると、意味の胚芽、あるいは胚芽的意味ということである。我々の深層意識は、この点では、無数の意味胚芽「種子」の溜まり場である。このように、すべての経験を絶え間なく意味化していくこのような心の機能を、唯識は〈薫習・くんじゅう〉と呼び、それの起る場所として、意識の深みに一つの特定の領域を、構造モデル的に措定し、それを〈アラャ識〉と呼ぶ。

 

〈アラャ〉(より正しくは〈アーラャ〉ālaya)の原義は〈貯蔵庫〉。よって、〈アラャ識〉を〈蔵識〉と漢訳する。この構造モデルに則して言えば、アラャ識の領域内で形成された意味胚芽、〈種子〉は、コトバと結びつくことによって存在形象を喚起し、表層意識(唯識哲学のいわゆる〈前五識〉と〈第六意識〉)に浮び出てきて、そこに存在世界を現出させる。〈種子生現行〉。〈現行・げんぎょう〉とは、要するに、現象的存在世界の現実ということ。つまり、我々が常識的に〈世界〉とか〈外界〉とか考えているもの、いわゆる事物事象、のすべては、ことごとくアラャ識の深みから浮び出てくる〈種子〉(意味エネルギー)の、表層意識面における現象形態である、ということである。〈種子生現行〉(〈種子〉が〈現行〉を生み出す。〈種子〉が〈現行〉生起の因である)という、唯識哲学のこの根本原則に関して、本論の主題とする時間論の観点から特に注目すべきことは、〈種子〉が本性的に〈刹那滅〉とされているという事実である。

 

〈種子〉は刹那に生じ、そのまま消滅する、という。従って、それの喚起する〈現行〉も、当然、刹那に生滅する。いかなるもの(〈現行〉)も、〈種子〉から生起したまま、次の刹那まで存在し続けることはできない。次の刹那に現われるものは、まったく新しい別の〈現行〉である。それだからこそ、存在は常に〈現行〉なのであり、時は常に独立した非連続的〈現在〉の連続なのだ。この考え方が、上来しばしば言及してきた前後際断的時間観念の基礎であることは言うまでもない。」

井筒俊彦『コスモスとアンチコスモスー東洋哲学のために』

 

上記を読んでみれば、さんざん登場した「時々刻々」、「前後際断*」、「非連続の連続」考え方で理解できなくはないように思いますが、この後に、「阿頼耶識」へのアプローチが始まります。「阿頼耶識」においては「何故?前後際断」なのかを説明しているようなのですが、次回はそこから始めたいと思います。

 

【前後際断*】「道元は言うのだ。薪が燃えて灰になる。いったん、灰になってからは、また元にもどって薪になることは不可能だ(と、普通の人間の常識は考えている)。だが、このような(誤った)経験的認識の事実に基づいて、灰は後、薪は先、というふうに見てはならない。事の真相は、むしろ次のようである(〈しるべし〉)。薪は、薪であるかぎりは、あくまで薪なのであって(〈薪の法位に住して〉薪という存在論的位置に止まって)、独立無伴、その前後から切り離されている(〈前後際断〉)。前の何かから薪となり、またその薪が後の何かになる、というのではない。」「No.47 孫文のいた頃」

 

2025年10

 

 

 

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