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国際交流・留学にすぐには役立ちそうにない教養講座⑩

ー世界に「日本が存在していてよかった」と思ってもらえる日本に…

 

 

No.10 なお「孫文のいた頃」

 

前回、No.9で夏目漱石(1867―1916)を挙げた際に石川啄木(18861912)を思い出したことに言及しました。共に有名なこの二人ですが、小説家と詩人のジャンル分けで、並べられることは少ないかと思いますが、それなりに接点はあります。

 

1907年、漱石は東京朝日新聞社に社員として入社し、職業作家として小説執筆に集中します。そして啄木1909年に東京朝日新聞に校正係りとして入社し「二葉亭四迷全集」などを担当していたといいますが、漱石の知遇を得て、常に金銭的に困窮していた啄木に漱石は度々援助もして啄木の葬式にも参列しています。

 

さて、石川啄木は親しみやすいかと思います。中学・高校の教科書等に彼の短歌は必ず載っています。26歳で早逝する天才詩人ですが、孫文が日本にいた頃が彼の青春時代でした。

 

不来方の お城の草に 寝転びて 空に吸はれし 十五の心

ふるさとの 山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山は ありがたきかな

たはむれに 母を背負ひて そのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず

やはらかに 柳青める 北上の 岸辺目に見ゆ 泣けと如くに

働けど 働けど猶 わが暮らし 楽にならざり ぢっと手を見る

 

啄木の有名な歌を挙げたらきりがないでこの辺で止めますが、学校教育ではあまりとりあげない別の大きな面もあり、彼は大変な社会批評家でもありました。今回、No.9 の上記、本編で夏目漱石の「三四郎」や「それから」も引用しましたが、そんな世相、時代です。彼は「時代閉塞の現状―強権、純粋自然主義の最後および明日の考察」(1910年)という社会批評の文章を執筆します。本来「朝日新聞」への文章だったといいますが、実際の発表は彼の死後でした。

 

「そうしてこれはじつに「時代閉塞」の結果なのである。

 見よ、我々は今どこに我々の進むべき路を見いだしうるか。ここに一人の青年があって教育家たらむとしているとする。彼は教育とは、時代がそのいっさいの所有を提供して次の時代のためにする犠牲だということを知っている。しかも今日においては教育はただその「今日」に必要なる人物を養成するゆえんにすぎない。そうして彼が教育家としてなしうる仕事は、リーダーの一から五までを一生繰返すか、あるいはその他の学科のどれもごく初歩のところを毎日毎日死ぬまで講義するだけの事である。もしそれ以外の事をなさむとすれば、彼はもう教育界にいることができないのである。また一人の青年があって何らか重要なる発明をなさむとしているとする。しかも今日においては、いっさいの発明はじつにいっさいの労力とともにまったく無価値である――資本という不思議な勢力の援助を得ないかぎりは。」

「時代閉塞の現状―強権、純粋自然主義の最後および明日の考察」(1910年)

 

この文章を読むと啄木がどれほど影響をうけていたのかわかりませんが、私はつい、ニーチェ(1844-1900)の「ツァラトゥストラはかく語りき」(1883-1885)を連想してしまいます。かなり私個人の大雑把な放言になりますが、この「ツァラトゥストラはかく語りき」は当時の西欧一般通常倫理(キリスト教・帝国資本主義)に反して「個から発する倫理」を咆哮している本です。実は「詩」も同じだと思います。(ここに極めて重要な「個と普遍の関係」の問題がありますが、それはまたいつか…)エピグラムの「EIN BUCH FUR ALLE UND KINEN/全ての人のためのそして誰の為でもない一冊の書」がそれを象徴しています。

 

はたして、倫理感の塊のような漱石が反応して熟読したはずです。

 

「端的にいって、漱石はニーチェの主要著書『ツァラトゥストラはかく語り』を熟読玩味していた。漱石の蔵書中、二―チェの著作はティレ(Alexander Tille)の英訳本 “Thus speak Zarathustra (1899)” 一冊だけである。ここには、ほかに例を見ないほど異常に、多量の、漱石自身による英文の書込みがある。」

 

「ニーチェの名前が日本で知られはじめるのも、こうした外国思潮紹介が増大する日清戦争のあと、西暦でいえば1890年代後半の頃からである。当時の雑誌をみると様々な西洋知識や思潮が次々に紹介されていて、まるで手当たりしだいに飛び付いているのではないかと思われるほどだが、一方、その乱雑さの中には、何が何でも西洋文明に追いつことする明治人の、切迫した緊張感と意欲の逞しさが感じられる。」

「漱石の『猫』とニーチェ」杉田弘子(白水社2010年)

 

そして、やはり倫理感(正確には自分も含めた?弱者への思いやり)の塊の石川啄木(まあ、青年にはその傾向があるものだとは思いますが…)も何らかの形で読んでいたような気がしますが、よく調べていないので、今は、わかりません。どちらにしても、民主主義・資本主義・自由主義・自由競争が始まった時代にニーチェや漱石や啄木は矛盾を感じていたのは当然です。そして「そうではない倫理観」を発せざるを得ないのも、やはり当然のことかと思います。

 

特に上記、天才・啄木の彼は教育とは、時代がそのいっさいの所有を提供して次の時代のためにする犠牲だということを知っている。しかも今日においては教育はただその「今日」に必要なる人物を養成するゆえんにすぎない。はニーチェ(ツァラトゥストラ)の例えば、次のような一節を連想させ、また同じことを語っているように感じてしまいます。

 

「かくて、ツァラトゥストラは民衆に向かって次のように語った。

いまこそ、人間が自分に対してその目標を定めるべき時である。いまこそ、人間がその最高の希望の芽を培養すべき時である。

まだ人間の土壌はそうするに足るほど豊である。しかし、この土壌はいつか不毛になり、活力を失うであろう。そして、高い木はもはやそこから生えることができなくなるであろう。

わざわいなるかな!人間がもはやその憧憬の矢を人間を越えてかなたへ投射することなく、そしてその弓の弦がうなることを忘れてしまう時が来るのだ!

 わたしはきみたちに言う、ひとは、一つの舞踏する星を産,むことができるためには、自分のうちにカオスを持っていなくてはならない、と。わたしはきみたちに言う、

きみたちは自分のうちにカオスを持っている、と。

 わざわいなるかな!人間がもはや星を産まなくなる時が来る。わざわいなるかな!自分自身をもはや軽蔑することのできない最も軽蔑すべき人間の時が来る。

―『愛とは何か?創造とは何か?憧憬とは何か?星とは何か?』最後の人間はそのように問うて目をしばたかせる。―『われわれは幸福を考案した』と最後の人間たちは言って目をしばたかせる。

さてここで、『序説』とも呼ばれるツァラトゥストラの最初の説話は終わった。というのは、この個所で群衆の叫声と歓喜が彼を妨げたから。『われわれにこの最後の人間を与えよ、おお、ツァラトゥストラよ』と彼らは叫んだー」

「このようにツァラトゥストラは語った~ツァラトゥストラの序説」吉沢伝三郎・訳(講談社文庫1971年)

「Also sprach Zarathustra」(エルンスト・シュマイツナー書店・ドイツ・Chemnitz 1883年[明治16年]6月)

 

私はニーチェが好きです。大学生時代に自分なりに(レクラム文庫版オリジナルと上記、吉沢伝三郎訳の双方を睨みながら)かなり真剣に「ツァラトゥストラ・ニーチェ」を勉強しました。そして、今、あらためて、教育者の端くれに伍しながら、我々は本当にどこに向かうべきなのか、改めて考えさせられる、ニーチェと石川啄木24歳の言葉ではあります。

ところで石川啄木は短歌だけではなく詩も書いています。

 

ココアのひと匙

一九一一・六・一五・TOKYO

 

われは知る、テロリストの

かなしき心を――

言葉とおこなひとを分ちがたき

ただひとつの心を、

奪はれたる言葉のかはりに

おこなひをもて語らむとする心を、

われとわがからだを敵に擲(な)げつくる心を――

しかして、そは真面目(まじめ)にして熱心なる人の常に有(も)つかなしみなり。

 

はてしなき議論の後の

冷(さ)めたるココアのひと匙(さじ)を啜(すす)りて、

そのうすにがき舌触(したざは)りに、

われは知る、テロリストの

かなしき、かなしき心を。

「呼子と口笛」1911年「啄木遺稿」(東雲堂書店1913年)

 

大逆事件(191011)に感じてという解説が多いのですが、勿論彼もテロを讃えているのではなく、そうせざるを得ない直接行動にでてしまう(かなしい真面目な心を持った)人と、社会を憂いながらも議論止りの自分を対照させているのでしょう。

 

飛行機

一九一一・六・二七・TOKYO

 

見よ、今日も、かの蒼空(あをぞら)に

飛行機の高く飛べるを。

 

給仕づとめの少年が

たまに非番の日曜日、

肺病やみの母親とたった二人の家にゐて、

ひとりせっせとリイダアの独学をする眼の疲れ……

 

見よ、今日も、かの蒼空に

飛行機の高く飛べるを。

「呼子と口笛」1911年「啄木遺稿」(東雲堂書店1913年)

 

常に金銭的に困っていた啄木ですが、明るい未来がはっきりとは見えにくい状況の中、それでも努力する少年への、美しい共感と励ましの詩でもあるかと思います。

 

さて「孫文がいた頃」というタイトルのもと、日本の近代化と中国との関係等について、その当時をなるべく上手に想像してみようと、色々な方向から考えてきました。実際、孫文の初来日は1897(明治30)年で最後の訪問は彼の死の数か月前の1924(大正13)年でした。

 

しかし考えて行く上でやはり明治維新にまで遡らざるを得ず、そうなると、どうしても気になることが1つ浮上してきます。学校教育ではあまり重要視して教えられていないようにも思うのですが、それは明治元年(1898年)の「神仏判然令」で、これにより「廃仏毀釈」の動きがおこり、例えば隠岐では100余りあった寺がすべて無くなり、奈良興福寺では2,000体以上の仏像が破壊されたとあります。そして、この動きとどう関係するのか、私はまだよくわかっていないのですが、一方、勢力を持っていたはずの神社側も、1906(明治39)年「神社合祀令」により、神社の統合にまで繋がっていきます。孫文の友人の南方熊楠はこの「神社合祀令」に反対してその翌年1907年に「神社合祀反対運動」を起こしますが、例えば和歌山県に3,713社あった神社が1911(明治44)年には790社になっています。

 

天皇を中心とした立憲君主国として、欧米化を目指した明治政府の考え方(国家神道?)が影響しているように思うのですがそれがどんな影響を日本に与えたのか、次回、その辺りから考えていきたいと思います。

 

これはこのコラムの1つのテーマである「新国民国家建国の理念と国民教育」にまた繋がっているように思います。

 

西郷は国家の基盤は財政でも軍事力でもなく、民族がもつ颯爽とした士魂にありとおもっていた。そういう精神像が、維新によって崩れた。というよりそういう精神像を陶冶してきた士族のいかにも士族らしい理想像をもって新国家の原理にしようとしていた。しかしながら出来あがった新国家は、立身出世主義の官員と、利権と投機だけに目の色を変えている新興資本家を骨格とし、そして国民なるものが成立したものの、その国民たるや、精神の面でいえば愧ずべき土百姓や素町人にすぎず、新国家はかれらに対し国家的な陶冶をおこなおうとはしない。

No.6 また「孫文のいた頃」

以上

2022年4

追記:

 さて、JYDA・HSK神楽坂オフィスの周辺は、孫文がいた頃、漱石、啄木等、文人達にも様々な縁のあった場所でした。

漱石の生誕地とこのJYDAHSK神楽坂オフィスとの間の1,400メートルほどの間に、英国留学から戻ってすぐ(1903年)に居住した漱石の奥さん(鏡子)の実家(貴族院書記官長・中根重一の屋敷の離れ・現在の新潮社のある辺りのようです)、そして様々な小説を書いた終焉地の漱石山房がNo.9 まだまだ「孫文のいた頃」あります。

また神楽坂は漱石の多くの作品に登場します。私の好きな「野分」では主人公の白井道也は神楽坂毘沙門天の裏辺りに住んでいる設定で、また「坊ちゃん」の卒業した大学は「東京物理学校(現東京理科大学)」です。

白井道也は高潔な古武士のような先生で、その高潔さ故に周囲とは合わず教員を3回やり3回クビになります。小説というより、倫理観の高い落語の人情噺のような作品だと、私は感じてしまいます。

 

「三度教師となって三度追い出された彼は、追い出されるたびに博士よりも偉大な手柄を立てたつもりでいる。博士はえらかろう、しかしたかが芸で取る称号である。富豪が製艦費を献納して従五位をちょうだいするのと大した変りはない。道也が追い出されたのは道也の人物が高いからである。正しき人は神の造れるすべてのうちにて最も尊きものなりとは西の国の詩人の言葉だ。道を守るものは神よりも貴っとしとは道也が追わるるごとに心のうちで繰り返す文句である。ただし妻君はかつてこの文句を道也の口から聞いた事がない。聞いても分かるまい。」

「野分」(1907年1月『ホトトギス』)

 

日比谷焼き討ち事件(190595日)No.8 まだ「孫文のいた頃」から1年半も経っていない時の作品です。

 

下記は100120年ほど前のJYDAHSKオフィスを中心に半径1.5キロほどの地域に、偶然にも集中していた。中国の英雄的革命家達やこのコラムに関連する日本の政治家、文人達がいた場所を示した地図です。

 

孫文が犬養毅の援助で早稲田に住んでいたのは明治29年(1896)、漱石の英国留学帰国は明治36年(1903)、飯田橋の「富士見楼」で孫文歓迎会が開かれるのは明治38年(1905)、「青島領有」や「対支21ヶ条要求」に反対の論陣を張った(大正45年・191415)石橋湛山がいた「東洋経済新報社」はJYDAHSKオフィスからは直線距離で500メートル程です。

 

 

 また、漱石や啄木、坪内逍遥、北原白秋、尾崎紅葉も原稿用紙を買いにきたという「相馬屋源四郎商店」はその「毘沙門天」の斜向かいです。創業は江戸初期の「紙漉き屋」より起こり、明治には洋紙の原稿用紙を売り出したといいます。

 

2022年5月の相馬屋(右奥の白いトラックが止まっている向こうが「毘沙門天」)

 

 

No.9 まだ「孫文のいた頃」をみるlist-type-white

 

No.11 なおなお「孫文のいた頃」をみるlist-type-white