次回日程

  • 05月19日(日)
  • 03月19日(火)~ 04月19日(金)
  • 筆記・口試
  • 全国主要14都市

国際交流・留学にすぐには役立ちそうにない教養講座⑨

ー世界に「日本が存在していてよかった」と思ってもらえる日本に…

 

 

No.9 まだまだ「孫文のいた頃」

 

前回、日露戦争終結の「ポーツマス条約」に不満を持った190595日の「日比谷焼き討ち事件」まで少し遡り語りました。私個人としては「対支21ヶ条要求」は間違っていたように思うのですが、何故それが出てきたのか?を考えてみたいと思い、それがゆえの「日比谷焼き討ち事件」です。

 

司馬遼太郎の「私は、この理不尽で、滑稽で憎むべき熱気のなかから、その後の日本の押し込み強盗のような帝国主義が、まるまるとした赤ん坊のように誕生したと思っている。」という表現のなんと適確なことかと思ってしまいますが、皆さんはどうでしょうか…。この時点において、政府・軍部の暴走というより、『民衆(司馬遼太郎は「熱気」という表現をとっていますが)の中から』生まれて、そしてこれが10年後に「対支21ヶ条要求」となり、さらにその30年後にポツダム宣言受諾へと繋がっていくのではないでしょうか…。

No.8まだ「孫文のいたころ」

 

この「まるまるとした赤ん坊」が、10年後に「対支21ヶ条要求」にまで育ちます。

 

上記で、司馬遼太郎はそれを「この理不尽で、滑稽で憎むべき熱気のなかから」と表現していますが、残念ながら、この熱気とは、明らかに、我々、民衆の感情、思い、です。勿論「民衆」ということは、当然、当時の新聞(マスメディア)、また知識人・オピニオンリーダー(東京帝大法科大学の七人の教授の会・コラムNo.8既出)の問題もあったでしょう。「熱気」を生み出す力としての「世論形成・オピニオンリーダー・マスメディア」の関係分析は、ここで私の手に負えるものでもないのですが、補足的にこの「帝大7博士」の概要のみ説明しておきます。

 

東京帝国大学等の7名の教授が日露戦争開戦の前年に、南下政策をとるロシアに対して、当時の桂内閣の対露外交の軟弱性を糾弾し主戦論の意見書をマスメディア(新聞)に発表、また開戦後は、徹底抗戦(持久戦)を主張、終戦後も「ポーツマス条約」の条件の不利・過少さに異議を唱え、大衆のオピニオンリーダー的役割を果たしました。

 

こうして、国民感情が育成?され、その後「対支21ヶ条」にまで成長してしまったことになります。

 

「ポーツマス条約」を語る司馬遼太郎と10年後の「対支21ヶ条要求」を非難する石橋湛山は同じことを言っています。

「軽薄なる挙国一致」、「国民の不心得」、「理不尽で、滑稽で憎むべき熱気」

No.8 まだ「孫文のいた頃」

 

そして、やはり同じことを語る学者もいます。奇しくもポーツマス条約の10年前、1895年「日清戦争」講和条約である下関条約締結後の日本の雰囲気です。

 

日清戦争後は、国民的自覚が高まった時代というふうに普通いわれておりますが、しかしその国民的自覚というものの内容が、むしろ感覚的には衝動の解放というような意味を帯びていたのでありまして、同時にこの頃から、近代的個人主義と異なった、非政治的な個人主義、政治的なものから逃避する、或いは国家的なものから逃避する個人主義思想が、つまり政治的な自由主義でなく、むしろ「退廃」を内に蔵したような個人主義が日清戦争以後急速に蔓延して来たということは、非常に興味深いのであります。

丸山真男「明治国家の思想」(1946年 歴史学研究会での講演)

 

丸山真男は司馬遼太郎よりも9歳年上の政治・思想史学者です。偶然にも逝去の年はともに1996年で、まさに同時代の人間です。対談があってもよさそうに思って探したのですが見つけられませんでした。

 

上記、多少わかりにくいかもしれませんが、丸山真男の言う「(日清戦争以後急速に蔓延してきた)個人主義」とは簡単に言ってしまえば、『明治維新によって成立したはずの「国民国家」でしたが(その時に「退廃」を蔵していない「個人主義」があったかどうかは、また別の問題になるかと思いますが)、「国・公」(みんなのこと)を意識しない、自己中心的・身勝手な「個人主義」であり、それは「退廃」を蔵している。』、の意味になります。

 

さらにもう一人、夏目漱石(1867-1916)は、下関条約(28歳)、ポーツマス条約(38歳)の同時代として生きたわけですが、かれは小説、「三四郎」と「それから」の中でこんなことを述べています。(因に彼は孫文と同年齢です。)

 

以下、九州から東京大学に進学するために上京する小川三四郎が、列車の中、偶然出会う、髭の男(後に師として仰ぐことになる、第一高等学校英語教師・広田先生)との会話です。時代は日露戦争後、執筆時期(1908年)と同じくらいの設定です。勿論、この小説は下記だけが主題というわけではありませんが…。

 

偶然、列車内の乗り合わせた西洋婦人を見てからの会話です。

「どうも西洋人は美しいですね」と言った。

 三四郎はべつだんの答も出ないのでただ「はあ」と受けて笑っていた。すると髭の男は、「お互いは哀れだなあ」と言い出した。「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね。もっとも建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応のところだが、― あなたは東京がはじめてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない」と言ってまたにやにや笑っている。三四郎は日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらなかった。どうも日本人じゃないような気がする。

『しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう』と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、「滅びるね」と言った。― 熊本でこんなことを口に出せば、すぐなぐられる。悪くすると国賊取り扱いにされる。三四郎は頭の中のどこのすみにもこういう思想を入れる余裕はないような空気のうちで生長した。だからことによると自分の年の若いのに乗じて、ひとを愚弄するのではなかろうかとも考えた。男は例のごとく、にやにや笑っている。そのくせ言葉つきはどこまでもおちついている。どうも見当がつかないから、相手になるのをやめて黙ってしまった。すると男が、こう言った。

「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。

「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と言った。「とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ」

 この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出たような心持ちがした。同時に熊本にいた時の自分は非常に卑怯であったと悟った。

夏目漱石「三四郎」(1908年9月1日~12月29日朝日新聞、1909年5月出版)

 

 

上記、太字で強調したのは、勿論私です。それをたどれば…当時の日本の一般人(民衆)の感覚・雰囲気(三四郎が生まれ育った)と、イギリスに留学し、イギリス(欧米)と日本の違い(良くも悪くも)をノイローゼになるほどに考えた漱石であるからこそ、日本の行く末を案じ、看破していたのでしょう。

 

さらにその後、続いて執筆した「それから」では、かの「高等遊民」の典型である「長井代助」に下記のように語らせています。

 

「第一に、日本程借金を拵らえて、貧乏震いをしている国はありゃしない。この借金が君、何時になったら返せると思うか。そりゃ外債位は返せるだろう。けれども、そればかりが借金じゃありゃしない。日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでいて、一等国を以て任じている。そうして、無理にも一等国の仲間入をしようとする。だから、あらゆる方面に向って、奥行を削って、一等国だけの間口を張っちまった。なまじい張れるから、なお悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。その影響はみんな我々個人の上に反射しているから見給え。

こう西洋の圧迫を受けている国民は、頭に余裕がないから、碌な仕事は出来ない。

悉く切り詰めた教育で、そうして目の廻る程こき使われるから、揃って神経衰弱になっちまう。

話をして見給え大抵は馬鹿だから。自分の事と、自分の今日の、只今の事より外に、何も考えてやしない。考えられない程疲労しているんだから仕方がない。精神の困憊と、身体の衰弱とは不幸にして伴なっている。のみならず、道徳の敗退も一所に来ている。日本国中何所を見渡したって、輝いてる断面は一寸四方も無いじゃないか。悉く暗黒だ。

 

夏目漱石「それから」(1909年6月27日~10月14日、東京朝日新聞・大阪朝日新聞に連載。1910年1月出版)

 

ここで、不思議な物言いかもしれませんが、このように思います。

 

漱石は孫文とは別のアプローチで日本を憂い、そして、少し年少の同時代人の魯迅(1881-1936)はそれを学習して察知して、医者になることをやめて、文筆家になることを志したのではないかと、そして、もしかするとそれは漱石の影響であったかもしれない…などと、勝手に夢想してしまいます。当然ですが、魯迅は「三四郎」や「それから」を発表同時期に読んでいたかと思います。

 

一方、「漱石」や「高等遊民」ではないにしても「少なくとも一部の政治家」は、決して、見栄や個人の欲望で「一等国」を目指したわけでもなく、そうせざるを得ない事情もあったかとは思うのですが…

 

以上、司馬遼太郎、石橋湛山、丸山真男、夏目漱石、まったく異質なジャンルの彼らの、その時代についての印象を重ね合わせると、日清戦争終結の1895年から第一次世界大戦参戦の1915年までのちょうど20年間の中に、浮かび上がってくる「問題」とは、結論から言えば「国民教育」の問題です。結局、明治維新の建国時にまで遡らざるを得ません。

 

司馬遼太郎が「翔ぶが如く」の中、西郷と大久保の対立の焦点であった「国家論」の違いに象徴されています。

 

「西郷と大久保には、基本的に国家論の違いがある事を、すくなくとも大久保は気づいていなかった。西郷はむしろその面で、つまり国家を成立せしめている基本の問題について議論をすべきであった。 ー中略ー 西郷は国家の基盤は財政でも軍事力でもなく、民族がもつ颯爽とした士魂にありとおもっていた。そういう精神像が、維新によって崩れた。というよりそういう精神像を陶冶してきた士族のいかにも士族らしい理想像をもって新国家の原理にしようとしていた。しかしながら出来あがった新国家は、立身出世主義の官員と、利権と投機だけに目の色を変えている新興資本家を骨格とし、そして国民なるものが成立したものの、その国民たるや、精神の面でいえば愧ずべき土百姓や素町人にすぎず、新国家はかれらに対し国家的な陶冶をおこなおうとはしない。

 こういう新国家というものが、いかに将来国庫が満ち、軍器が精巧になろうとも、この地球において存在するだけの価値のある国家とはいえない、と西郷はおもっている。」

 

司馬遼太郎「翔ぶが如く・3巻」―激突の章(文春文庫)

1972年1月~76年9月『毎日新聞』朝刊連載

 

ともかく西洋帝国主義を一刻も早く模倣し、芝居の書割のような国家であったとしても、ともかくその体をなし、自転車操業で富国強兵、殖産興業の道をたどらざるをえなかった、大久保の判断も、決して間違いであったということではないでしょうし、致し方なかったかとも思います。ただ「国民にたいする国家的陶冶」も忘れてはいけなかったはずで、いつか忘れられて、それが露見したのが、先ず、下関条約(1895年)で、それ以降、色々な形で障害となってあらわれたのかと思います。

 

私は、この「翔ぶが如く」を初めて読んだ時からおそらく数十年が経つのですが、当時、司馬遼太郎にしては、いやに過激な厳しい表現、その国民たるや、精神の面でいえば愧ずべき土百姓や素町人にすぎずがいまひとつ腑に落ちませんでした。しかし、こうやって、いろいろな方向から、当時を想像し、迫ってみると「なるほど…」と納得がいく気もします。

 

それは20213月、司馬遼太郎の執筆・発表から半世紀の後、漱石の「三四郎」は高校生で読んでいるはずですがやはりある程度理解したのは、読んでから50年の後…いやはや。

 

今、気付いたのは、かの20年間(1895年・下関条約、1905年ポーツマス条約、1915年・対支21ヶ条要求)とは、言葉だけの実体の無い「国民」だけが先行した結果としての、「理不尽で、滑稽で憎むべき」日本国民の誕生ということになりますまいか…。

 

ナショナリストの私としては耐え難く残念なことです。

 

さて、そこで、ちょっと気分転換に近所の「漱石山房記念館」に行ってきました。やはり、奇遇なことにJYDA/HSKオフィスから直線距離なら1㎞もない所にあります。

 

ここは漱石が晩年(19071916)を過ごした住居跡で、オリジナルの漱石山房は残念ながら19455月の東京大空襲で焼失し、その跡地は都営アパート、区営アパート、1976年にはその一部は漱石公園となり、2017年に記念館としてオープンしました。当時の漱石山房、彼の書斎が再現されています。上記、「三四郎」や「それから」もここで執筆され、また芥川龍之介はじめ、様々な文人達が集まった「木曜会」が開催されたのもこの場所です。

 

この地で往時、今は歴史上の人物となった文人達がガヤガヤと議論したのかと、漱石山房の木曜会を想像すれば果てしない気分になり、そして、しかし、すべての具体的な物は…(何度も繰り返しますが、「下関条約」から50年、「ポーツマス条約」から40年、「対支21ヶ条要求」の30年後)の1945年の東京大空襲で文字通り灰燼に帰してしまいました。

 

しかし、今日、漱石の死後106年の後に作品と伝説は残り、私ですら、作品と伝説により、様々に思いを馳せることができることに少し驚き、さらに、また果てしない想いに駆られたのでありました。

今回の初訪問で、実は私にとって一番感慨深かかったのは、記念館の展示物よりこの猫塚でした。記念館の裏手の、児童公園にほぼ放置されている、猫塚(塔)でした。案内版によると、「吾輩は猫である」のモデルとなった「福(ふく)」は1908年に亡くなり裏庭に埋葬されたそうです。この石塔はその後1920年に夏目家で飼われていたペットを供養するため漱石の娘(筆子)婿(松岡譲)が建立したもので、それが東京大空襲で損壊し、しかしその残欠片を拾い1953年に再興されたもので現存する漱石山房の唯一の遺構となるそうです。

 

漱石が福猫供養のために墓標に書き付けたという一句が残っています。

この下に 稲妻起こる 宵あらん 漱石

 

この日、漱石山房記念館より四谷三丁目の宴会に行くべく、のんびりと歩いて行く途中、ふと見上げると、春の美しい宵月が梅花越しに見えました。

漱石と 春の月見る 夕間暮れ 風来

 

実は、ここで夏目漱石から石川啄木を思い出し、「追記」を書き始めたのですが、少し長くなり過ぎたので、変則的ではありますが次回、No.10の冒頭はNo.9の追記?から始めようかな…など思っています。不如擱筆。

以上

 

2022年3

 

No.8 まだ「孫文のいた頃」をみるlist-type-white

 

No.10 なお「孫文のいた頃」をみるlist-type-white