次回日程

  • 05月19日(日)
  • 03月19日(火)~ 04月19日(金)
  • 筆記・口試
  • 全国主要14都市

国際交流・留学にすぐには役立ちそうにない教養講座⑯


ー世界に「日本が存在していてよかった」と思ってもらえる日本に…

 

 

No.16 さて「孫文のいた頃」

 

さて、前回「国家神道の発生と展開」というテーマで、何故「国家神道」が発生せざるを得なかったのか、ということを考えてみました。

 

安政5年~明治44年(1858-1911)の独立国の体をなさない不平等条約下にあって、ともかく主権国家となるべく、するべく一方では法律の整備を急ぎ、一方では欧米列強のキリスト教に対抗できる「国家の依って立つべき原理」を模索し、発生したのが「国家神道」であったということでした。

 

これら(国家神道)は特定の政治家や集団が計画的に推し進めていったものではない。近代国家の装置がどのように機能するかが理解されると共に、祭政一致国家の理念に共鳴するさまざまな立場の人々―政界・官界指導部(薩長藩閥勢力が主軸だった)、神社界、神道・国学勢力、天皇周辺の人々などーの力が作用して、次第に形作られていったものなのだ。」

「国家神道と日本人」島薗 進(しまぞのすすむ)(2010年・岩波新書)

No.15 またして「孫文のいた頃」)

 

私が「発生」という言葉にこだわっているのは、上記にもあるように、個人の或いは組織の意図ではなく時代的運動の中で「国家神道」は生まれてきたということになるからです。

 

「明治維新が神道ナショナリズムとも言うべき復古精神の強い影響下に遂行されたため、王政復古を唱える明治維新は、すでに単純な政治革命ではなく祭政一致をめざす宗教運動でもあった。」

「明治思想家論」末木文美士(すえきふみひこ)(2004年・トランスビュー社)

 

この視点から言えば、明治維新の流れの中で、この後にでてくる「大日本帝国憲法」(明治22年(1889)と「教育勅語」(明治23年(1890)も「宗教運動」の一環ということになります。そしてここまで来るとNo.13重ね重ね「孫文のいた頃」のこの一節の意味がよくわかるかと思います。少し長くなりますが引用します。

 

「―山折

 明治になって、ヨーロッパ文明が日本にもどっと入ってきますけれども、その段階で、宗教に関する国家の政策が新しくつくりあげられます。その時、一番重要な役割を果たした人物が、私は伊藤博文だろうと思っています。

   伊藤博文がヨーロッパに行って、政治、経済、宗教、文化のいろいろなシステムの勉強をして帰国し、明治近代国家の青写真を描きはじめるわけですが、その時彼は、ヨーロッパの近代社会を支えているのはキリスト教であるということに気づく。それが最重要の精神の基軸だということを言うわけです。そのヨーロッパ近代社会を支えているキリスト教にあたるものを日本のこれからの国家社会の中につくりだしていくにはどうしたらいいだろうか。

   そういう発想で憲法をつくっていったのだろうと思います。

   その時に、伊藤博文が、たしか枢密院かどこかで演説しているのですが、ヨーロッパの近代社会におけるキリスト教に当たるようなものは、もう日本の伝統的な宗教にはないというのです。仏教はその力をもっていない。神道も既にそういう権威を失っていまっている。そして、それに代わるものとして結局、皇室の問題を持ち出してくるわけですね。

   そこで「大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之を統治ス」という例の明治憲法(明治22年2月11日・1889年公布)の第1条が出てくるのだろうと思います。

   その時、伊藤博文は、日本の伝統的な宗教には、もはや宗教的な権威なんかないのだと考えているわけですが、そういう考えが出てきたのは、ヨーロッパのキリスト教がもっている圧倒的な影響力の大きさというものが前提としてあったからだと思います。

   そういう一神教的なキリスト教を基準にして、彼は同時代の日本の伝統的な宗教を見ていた。つまり汎神論的といいますか、無神論的な日本の神仏信仰は、とてもキリスト教に対抗できるものではないと考えて、なんとかそれに対抗するものをつくりだそうとした。ここに明治憲法成立の動機があったのではないか。そのような思想の出発点に立つのが、どうも伊藤博文ではないかと私は思うのです。

   その後、日本の知識人というか、日本の指導層というのは、多かれ少なかれ、みんなこの思想の影響を受けて、今日まで来てしまった。それが今日における漠然とした日本人の無神論的な心情と共鳴している。そういうものとどこかで繋がっているのではないかと思うのですね。

―司馬

   いや、その話は重要ですね。

   伊藤博文がそう思ったというセンス。つまりヨーロッパの各国、いまでもスウェーデンやデンマークを思い出していただければわかることですが、ほとんどの古い国の国旗が十字ですね。だから、国家の基礎の中に、つまり “圧搾空気” のようにして地盤があって、それがキリスト教で、その上に国家という ”屋台” が立っている。

   その国家という ”屋台” は地面にベッチャと基礎工事もせずに立っているものではないのですね。

   キリスト教的な倫理観および気分の上に国家が立っているということです。

   伊藤博文はよく考えたと思うのです。彼が、その時に「萬世一系ノ天皇」というものを考えざるをえなかったのは、日本の近代の苦しみだろうと思います。「萬世一系ノ天皇」ということだけでは、やはり明治20年代にはまだ思想化できていないので、そのへんにある神道を ― 国家神道にもう既にしつつありましたが ― 国家神道にするということは、神道というものを、結果として、われわれの心から離れさせてしまった。国家神道に仕上げられた神道も気の毒なのですが、キリスト教に代わる “圧搾空気” にしようとしたのですね。

   これはもう普遍性もなにもないものにしてしまった。

   それは確かに明治の時に、明治維新という「革命」に宗教が参加したのは、わずかに平田篤胤の国学でした。これが神道になっていくわけですが、平田篤胤の国学までは国家神道よりはるかにいいのですが、生物として ―生物といってもバクテリアもあればウィルスもあるのですけれどもー、無機化して国家神道になる。それから西本願寺が少しは個人として参加しているぐらいのものでした。

   宗教家たちは、みな明治維新をただ座視しているだけでした。

   それがまずかったですね。

―山折

   そうですね。

「日本とは何かということ・『宗教と日本人-自然のなかの神と仏』」

司馬遼太郎・山折哲雄(1997年3月・NHK出版)

 

私は勿論、「天皇制度」は日本の大切な伝統であり慣習であると考えます。ただ、その美しい伝統に性急に「西欧風の建国理念としてのキリスト教」に対抗させるべく「国家神道」の役割を持たせざるを得なかったところが当時の悲劇ということなのでしょう。司馬遼太郎にしては冷たい言い方で「宗教家たちは、みな明治維新をただ座視しているだけでした。」とありますが、当時の欧米列強を知らない日本の宗教家達としてはどうしようもない部分でもあり、そもそもそういう形で「宗教」をとらえてはいなかったでしょう。或る意味当然のことですが、キリスト教の “God” を全く異なる概念である日本語の「神」と訳さざるをえなかったところから始まる問題でもあります。自分達の言う「信心」に似ているようでありながら ”religion” とは何か?から考えなくてはいけなかったわけです。

しかし、結局、私も、日本にとっての司馬遼太郎の言う “圧搾空気” が気になっています。そして我が敬愛する「天下爲公・三民主義」の孫文にしてもその “圧搾空気” をどのように考えてきたのか?ということこそが、このコラムで延々と歴史を辿りながら右往左往しながら考えていることのもっとも根底にある部分です。

No.13 重ね重ね「孫文のいた頃」)

 

もう少しこの「圧搾空気」(国家の依って立つべき原理)としての「国家神道」について考えていきたいと思います。

 

前回、末木文美士(1949年生 [73] 仏教学・東大名誉教授)と島薗進(1948年生[74] 宗教学・東大名誉教授)を主に引用して国家神道について話をすすめました。両名はリベラルな印象です。そして彼らとはいささかタイプの違う山折哲雄(1931年生 [91] 宗教学・国際日本文化研究センター名誉教授)と司馬遼太郎(1923-1996)の対談ですが、国家神道の成立についてはほぼ同じことを語っています。

 

「―山折

 いまの国家神道の問題ですけれども、よく考えてみれば「萬世一系ノ天皇」だけでは、やはり近代国家の精神的基軸としては非常に弱い。堅固な中心軸とはなりえないという懸念があったのではないか。その強化策のひとつとして、儀礼的に荘厳にする装置を作り出そうとしたと思うんですね。何をやったかというと、伝統的な神道の中から儀礼の部分を取り出して切り離し、天皇を中心とする祀りのシステムをつくりあげました。

 そのうえで、この祀りのシステムは宗教ではない、祭祀であると、言い逃れたわけですね。一般的に、宗教と祭祀の分離政策といわれているものです。そうすれば「政教分離」という近代的な原則にも違反しないのだというふうに抗弁したわけです。祭祀は宗教ではないのだから、王(=天皇)の正当性を保証する儀礼として活用してもよいのだという論理です。

 その結果、伝統的神道は天皇儀礼として一体化して、いわば一神教化したのではない

と私は思うのですね。

 明治の近代化の過程で蒙った神道の変化ですね。それは一神教化といってもいいし、キリスト教化と言ってもいいのではありませんか。」

「日本とは何かということ・『宗教と日本人-自然のなかの神と仏』」

司馬遼太郎・山折哲雄(1997年3月・NHK出版)

 

いみじくも山折哲雄が「国家神道」は神道の「一神教化」であり、「キリスト教化」とまで言っていますね。それをまだ不平等条約下にあった半独立国の日本が急造せざるを得なかったということが、或る意味、残念なところでもあるかと思います。この山折哲雄の言葉に司馬遼太郎は下記のように答えます。

 

「―司馬

 気分としては一神教、つまり天照大神を頂点とする一神教の体系に似たようなものが明治以後にできた。明治以前には、さきほどふれた平田篤胤(1776-1843)みたいな人がいましたが、彼は確かに「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」という不思議な、なるほど「古事記」や「日本書記」に一度しか出てこない神を、神々の世界を統治する最高神(God)の位置においていました。

 平田篤胤は江戸後期の国学者でしたが、やはりそんな感覚があったのでしょうね。キリシタン的な教養があったのですね。結局、キリスト教がうらやましかったのでしょう。だから「天之御中主神」を中心にもってきたのでしょうね。

 しかし国家神道では「天之御中主神」というあまりに抽象性の高いものははずされて、具体的な天照大神になってしまう。だから、このような一神教的な体系には無理がありました。本当に無理がありました。けれども、これは世界のどの国も経験しなかった明治維新という、つまり非常に後れたアジアで近代化を遂げるときの、無理の歪みですね。

―山折

 そうですね。ある意味ではいたしかたなかったのかなと思いますね。

 文明開化の跫音(あしおと)の中で、国家体制も、政治体制もキリスト教化するということになりました。それが中央集権制と結びついて、一神教化という形で現れ、天照大神と天皇を直結させる系譜信仰というものが、その上につくりだされることになったわけですね。

同上

 

さて、明治維新が政治革命であったと同時に宗教改革でもあったということを再確認しました。そして「大日本帝国憲法」(明治22年・1889)を補足する形でその翌年に「教育勅語」(明治23年・1890)が発表されます。「大日本帝国憲法」の第一条が「大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」であり、第三条が「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」でした。この2つを少し振り返ります。

 

ここで詳細は引用しませんが「大日本帝国憲法」はその「告文(こうもん)(前文)」で更に上記「万世一系・神聖不侵」が強調されています。あ、やはり冒頭だけ引用します。

 

皇朕󠄁(すめらわ)レ謹󠄀(つつし)ミ畏(かしこ)ミ

皇祖(こうそ)皇宗(こうそう)ノ神靈(しんれい)ニ誥(つ)ケ白(もう)サク皇朕󠄁(すめらわ)レ天壤無窮(てんじょうむきゅう)ノ宏謨(こうぼ)ニ循(したが)ヒ惟神(いしん)ノ寶祚(ほうそ)ヲ承繼(しょうけい)シ舊圖(きゅうと)ヲ保持(ほうじ)シテ敢(あえ)テ失墜󠄁(しっつい)スルコト無ナシ

 

念のため、単語の意味は下記です。

「皇朕󠄁:明治天皇」、「皇祖:天照大神、神武天皇」、「皇宗:初代以降の歴代の天皇」

「天壤無窮:天地と同様に永遠」、「宏謨:広大な計画」、「惟神:かんながら、神・自然に従う」、「寶祚:天皇の位、皇位」、「舊圖:昔からの伝統的な計画」

 

大意は、「明治天皇が歴代のご先祖様に対し、広大な計画、そして伝統にのっとり、皇位継承し、失敗しないようにします、と謹んで申し上げます」ということになるかと思います。

 

詩的に比喩的に語っているとすれば、私はそれなりに美しいとも思い、また日本(世界)でもっとも古い血統であるわけですから、このくらいは言って欲しいと思いますが、まさに祝詞(のりと)に近いものである印象ですね。

 

■教育勅語

これはある程度知られているものかと思います。私の父母の世代が小学校で暗唱したというのはよく聞いた話です。冒頭は下記のように美しく飾られていますが、内容は、親孝行、兄弟、夫婦仲良く、友情を大切に、慎み深く、他人とも仲良く、勉強をして、徳を積み、世の中の役にたつように、国を大切に考え、有事の際は国のために頑張る、というきわめて常識的な道徳的なものです。

 

「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス」

 

「朕が思うに、我が御祖先の方々が国をお肇めになったことは極めて広遠であり、徳をお立てになったことは極めて深く厚くあらせられ、又、我が臣民はよく忠にはげみよく孝をつくし、国中のすべての者が皆心を一にして代々美風をつくりあげて来た。これは我が国柄の精髄であって、教育の基づくところもまた実にここにある。」(文部省による現代語訳)

 

この「教育勅語(国家神道)」により「国」とは何か、つまり「国民・個人」とは何かを教えていったわけです。

 

ここ場で詳細な吟味はできませんが、この明治期、新たに日本に入ってきた「国」の概念、そしてそれを形成する「国民(個人)」の概念は、当時の日本人にとって理解するのに大変難しかったはずです。「一刻も早く国を、国民をつくらなければならない」という大きな課題がありました。そしてそれは、その問題をともかく「国家神道」で乗り切るしかなかった日本の問題でもあったはずです。

 

ここに、「道徳・倫理(国家神道):と「宗教」の衝突がはじまります。前半、後半の国家神道的修飾はともかく「教育勅語」のメインは極めて常識的な道徳倫理です。しかし、それだけでやっていけるのか…いけなかったではないか…というのが今回、考えていることです。少なくとも当時、誰もが認める美しい「仁義礼智忠信孝悌心」の徳目ですが、宗教側から考えると、敢えて言えば「世俗的価値」と言えるかもしれません。

 

そして宗教は、それと矛盾せず、さらにその奥に迫る、あるいは、深みをもって「人を越える」ものが「宗教」なのではないかとも思います。

 

リベラルな考えをする末木文美士はかなり手厳しい評価をこの「大日本帝国憲法」と「教育勅語」に与えており、それを擁護した哲学者井上哲次郎(1855-1944)にはさらに厳しい評価をしています。

 

「憲法によって確立した政治体制は、教育勅語という道徳主義とセットとなり、しかもそれを教育という場に強制することによって、より完璧な安定した体制を確立しようとしたのである。―この体制のイデオロギー的側面の確立で大きな役割を果たしたのが、哲学者井上哲次郎であった。井上というと、ともすれば独創性のないかけらもない凡庸な御用学者というイメージがつきまとい、京都学派の独創性に対して、東京帝国大学の硬直した官学体質を象徴する戯画的な悪役以上の評価はなかなか得にくい。」

「明治思想家論」末木文美士(2004年・トランスビュー社)

 

そして結論は下記です。

「宗教を倫理化し、非宗教化しようとする井上の方向は、神道を非宗教化して全国民に課そうとする国の神道政策と極めて近似することも間違いない。」

同上

 

司馬遼太郎、山折哲雄の暖かさにくらべて、末木文美士のリベラリズムにはどうなのかと感じるところもないではありませんが、この「宗教の倫理化」という問題は大変深い指摘であるかと思います。

 

そして、そうだとすると、この国家神道の嵐が吹き荒れていたこの時期に、それでは「本物」の宗教家達は何を考え、何をしていたのでしょうか?ここで遂に清沢満之(きよざわまんし・1863-1903)が登場します。ほとんどの方はご存じないでしょう。そして清沢が2023年の今も、ほとんど知られていないという、その当時の残念であり、今のなお残念なところであると思います。下記、司馬遼太郎が彼について語ったのは1970年、50年以上が前です。

 

「清沢満之ほど知名度の薄い、それでいて、これほど重要な人物は、ちょっといないじゃないでしょうか。以前「中央公論」で「近代日本を創った100人」という企画がありまして、宗教人を10人選ぶことになりました時、その人選案を見ていますと、内村鑑三、上村正久、鈴木大拙‥‥とあるなかに清沢満之が入っていないのです。むしろ清沢満之が最初に入る人じゃないかと申し上げると、すぐにわかってもらえて10人の中にはいりましたけれども‥‥」

「日本の名著43・清沢満之 鈴木大拙」付録

「哲学と宗教の谷間で」(1970 中央公論社)司馬遼太郎

 

「国家神道」が進行する中、「国と国民(個人)」という概念に初めて出会い、西洋哲学に初めて出会った当時の宗教家は何を考えたのでしょう。次回はその辺りからまた進めてみたいと思います。

 

以上

2022年10

追記:▶山川異域・風月同天―➊ 16文字の詩の説明

前回、No.15の追記において、「日中国交正常化50周年」記念イベントで、再度、2年前のコロナ禍発生時に当協会から中国の大学にマスクを寄付した際、支援物資の税関通過を速やかにするための「貼り紙」の下に小さく入れた漢字8文字(山川異域 風月同天)のことが再度注目された件に触れました。

 

今回から何回かにわたって、この追記コーナーで「山川異域 風月同天」とその背景について説明していきたいと思います。今から1300年程前に書かれたこの詩ですが、この詩の裏には日本と中国の壮大な交流の歴史があります。

 

さて、この8文字の後に更に8文字あります。この詩(16文字)は僧侶の着る袈裟の縁に刺繍されて日本から当時の中国(唐代)の僧侶に贈られました。通常この唐の時代の漢詩は1句5文字や7文字が一般ですが、この44文字は仏教用語で「偈(げ)」と呼ばれています。

 

偈:経典中で、詩句の形式をとり、教理や仏・菩薩をほめたたえた言葉。4字、5字または7字をもって1句とし、4句から成るものが多い。(goo辞書)

 

以下、書き下し文と意味の説明です。

 

山川異域           山川域を異にすれど       

(私達の住んでいる所で見える)山や川は(あなた達が住んでいる所で見えるものとは)違います。

風月同天           風月天を同じゅうす

でも、(私達の所から見える)月や(吹いている)風は、(あなた達と)同じ空にあります。

寄諸仏子           諸仏子に寄する

この袈裟を(仏教を学ばれている)あなた達に捧げます。

共結来縁           共に来縁を結ばん

どうぞ一緒に仏教の縁を結びませんか。

 

詩の技巧としては、1句目と2句目は対句になっています(山↔風、川↔月、異↔同、域↔天)。そして2句目と4句目の最後の文字が韻をふんでいます。4句目は、袈裟の刺繍にも関連して「結」と「縁」で糸の縁語として糸偏の漢字が使われて、しかも袈裟の「縁(ふち)」に刺繍されています。


復元された袈裟に刺繍された16文字


復元された袈裟を着る唐招提寺の西山明彦長老(当時)

 

写真2枚共に「時の回廊」― 鑑真招いた「来縁」の袈裟 唐招提寺(日本経済新聞・2018年66日)より

 

続く

No.15 またして「孫文のいた頃」をみるlist-type-white

 

No.17 さてさて「孫文のいた頃」をみるlist-type-white