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国際交流・留学にすぐには役立ちそうにない教養講座⑰


ー世界に「日本が存在していてよかった」と思ってもらえる日本に…

 

 

No.17 さてさて「孫文のいた頃」

 

前回は、日本の置かれた止むを得ない国際情勢のもと、いささか急造りの「国家神道」の嵐が吹き荒れる中、「国と国民(個人)」という概念に初めて出会い、また西洋哲学に初めて出会った当時の知識人、宗教家は何を考えたのでしょうか?というところで終わり、清沢満之(きよざわ まんし・1863-1903)について考えてみることを予告しました。

 

「清沢満之ほど知名度の薄い、それでいて、これほど重要な人物は、ちょっといないじゃないでしょうか。以前「中央公論」で「近代日本を創った100人」という企画がありまして、宗教人を10人選ぶことになりました時、その人選案を見ていますと、内村鑑三、上村正久、鈴木大拙‥‥とあるなかに清沢満之が入っていないのです。むしろ清沢満之が最初に入る人じゃないかと申し上げると、すぐにわかってもらえて10人の中にはいりましたけれども‥‥」

「日本の名著43・清沢満之 鈴木大拙」付録

「哲学と宗教の谷間で」(1970年 中央公論社)司馬遼太郎

(No.16 さて「孫文のいた頃」)

 

参考までに、この「近代日本を創った100人」の中「宗教人」としての10名の宗派、生没年、この本での表題を以下に挙げておきます。

 

・千家尊福(神道《出雲大社教》せんげ たかとみ 1845-1918)「国家神道問題」

・島地黙雷(仏教《浄土真宗》しまじ もくらい 1838-1911)「仏教復興」

・植村正久(キリスト教《日本基督教団》うえむら まさひさ 1858-1925)「日本の基督教」

・内村鑑三(キリスト教《無教会主義》うちむら かんぞう 1861-1930)「不敬事件」

・清沢満之(仏教《浄土真宗》きよざわ まんし 1863-1903)「明治の知識人」

・新渡戸稲造(キリスト教《クエーカー派》にとべ いなぞう 1862-1933)「平民道の形成」

・大谷光瑞(仏教《浄土真宗》おおたに こうずい 1876-1948)「西域探検」

・山室軍平(キリスト教《救世軍》やまむろ ぐんぺい 1872-1940)「廃娼運動」

・出口王仁三郎(神道《大本教》でぐち お[]にざぶろう 1871-1948)「大本教弾圧事件」

・戸田城聖(仏教《日蓮宗・創価学会》とだ じょうせい 1900-1958)「折伏大行進」

「近代日本を創った宗教人10人を選ぶ」中央公論19654月号より

 

島地黙雷は『No.14 なおかつ「孫文のいた頃」』で扱い、今回清沢満之を扱いますが、私は、初めて見る名前も数名あり、少し調べてみましたが、さすが10名に選ばれただけあり大変魅力的な人物ばかりです。小コメントくらい付けたいのですが、それでなくても拡散しがちな私の話がさらに拡散してしまうので残念ながらここでは先を急ぎます。

 

さて、清沢満之でした。上記で、司馬遼太郎に「清沢満之ほど知名度の薄い、それでいて、これほど重要な人物は、ちょっといないじゃないでしょうか。」と言わしめた清沢満之ですが、それから50年も経って、依然として知名度は低いようです。これから時間軸に沿って清沢満之の足跡を追ってみます。

 

清沢満之:きよざわ まんし・文久3年(1863)ー明治36年(190841歳没

尾張徳川家の足軽組頭の家に生まれ、家は維新の影響で経済的に窮迫していました。明治11年(187816歳の時に浄土真宗東本願寺の育英奨学金取得のため、僧籍に入り京都の本願寺教育施設で今の高校での学問を始めます。幼少より神童の誉高く非常に優秀でした。

 

この東本願寺の奨学金制度は、これまで見てきたように明治維新の大混乱と国家神道の勃興とそれにともなう廃仏毀釈、キリスト教の浸透等に、東本願寺(浄土真宗)が英才を育てそれらに対抗しようとした1つの方策であったようです。

 

明治15年(1882)東大の予備門に首席で入学、明治16年(1883)東京大学文学部哲学科に入学、明治20年(1887)首席で卒業します。東大では、西欧文化崇拝の風潮の中、日本美術の発見者でもあったあのアーネスト・フェノロサにドイツ哲学のヘーゲル(弁証法)、英国哲学のスペンサー(進化論)を学び、感銘を受けたといいます。その在学中にのちに日本の思想界を作っていく以下の錚々たるメンバーと「哲学会」を創設し、『哲学会雑誌』を創刊します。

・井上円了(いのうえ えんりょう・1858-1919)仏教哲学者、教育者、東洋大学創設者:越後長岡藩領の慈光寺の住職の子、清沢満之と同じ東本願寺給費生でしたが、僧侶にはなりませんでした。

・井上哲次郎(いのうえ てつじろう・1856-1944)哲学者、東大哲学科教授:筑前太宰府の医家の子、No.16「さて孫文のいた頃」参照

・三宅雪嶺(みやけ せつれい・1860-1945)哲学者、評論家:加賀藩の家老本多家の儒医の子、文化勲章受章者

・棚橋一郎(たなはし いちろう・1863-1942)哲学者、教育者:二本松藩(現福島市)の漢学者の子、現・郁文館夢学園創設者

・有賀長雄(ありが ながお・1860-1921)法学者、社会学者:摂津国大阪の歌道の家の子、早稲田大学、東京大学教授

 

「発会の趣意書はおそらく井上円了が書いたのであろうが、本会は東、西哲学を比較研究しつつ『他日その二者の長ずる所をとりて一派の新哲学を組織するに至らば独り余輩のみならず日本全国の栄誉なり』といっている。清沢の青春をささえた情熱もこれだったといっていい。」

司馬遼太郎「清沢満之と明治の知識人・『中央公論1965年4月号』」

 

そして大学院では、宗教哲学を専攻しますが、しかし、清沢は学者の道を選ばず、奨学生として東本願寺への恩義を感じて僧侶の道を選びます。

 

 「清沢は、給費をうけたままで卒業後、京都にゆくことをうやむやにすることもできたかもしれない。しかし彼は「人は恩義を思はざるべからず」という、その儒教的倫理感による手厳しい意思力で自分の方向を強引に定着し去っている。― 要するに彼の場合、仏門入りは、武士道的報恩精神によるもので、宗教的契機によるものではない。」

同上

 

明治21年(18887月には、真宗大谷派の要請で、当時、同派が経営を委嘱されていた京都府尋常中学校(現在の大谷中学高等学校の前身で現在の洛北高校を併設)の初代校長となります。

 

「明治21年(1888)、26歳である。俸給は百円で、これほどの高額を取っている者は京都でも数えるほどしかいなかった。ここでの清沢は、鼻下に口髭を貯え、フロックコートを着用し、手にステッキを持ち外出には俥(人力車)を用い、本願寺僧とはいえ、ただの高級官員とかわらない」

同上

 

しかし、校長就任の翌年くらいから、「実験」と称して、中世の修行僧のように、剃髪して黒い袈裟に木履(ぽっくり)という姿で登校し、禁欲・修行生活を開始します。この時点では、清沢はあくまでも哲学者でしたが、宗教(仏教)に近づく、理解するために実践的な修行を始めます。そして2年後の明治23年(1890)には校長職を辞職、さらに宗教を知るための実践的修行生活を続けながら、その翌年には真宗大学寮(浄土真宗の学問所・現大谷大学)で宗教哲学の講義をし、その講義を基に明治26年(1892)「宗教哲学骸骨」として発表します。簡単に言ってしまえば「宗教・浄土真宗」に哲学の方向から迫った著作です。

 

 「なぜ筆者が、つまりこの稿で清沢満之の史的位置を紹介せねばならぬ筆者が、なぜこのような資質論(芸術的直感で結論が悟れる体質でなく、キリで揉み込むような理詰めの追及の挙句に何らかの結論を得る体質・哲学的資質)にふれるかといえば、はたして哲学が哲学的思考をつきつめたあげくに宗教になりうるかということを、ふと思ったからである。宗教には宗教的直感力を必要とする、と普通考えられる。清沢は生涯そういうものを媒体とせず、求道的姿勢をもった上のような哲学的資質と思弁をもって宗教に肉迫しようとした。われわれはそのめずらしい実験を、清沢に生涯で持つ。」

同上

 

西洋哲学を学んだ清沢満之が、明治政府が急造せざるを得なかった「国家神道・明治帝国憲法・教育勅語」を横目に見て、宗教・浄土真宗の本質について論理的に哲学的に考えていったわけです。それにしても、一方で、かつての「哲学会」の仲間であった井上哲次郎が「教育勅語」を擁護し宗教(無限)を薄っぺらな倫理学にしてしまっていることを清沢満之はどう思っていたのでしょうか…どこかにそんな資料があるのかもしれませんが…

 

「清沢の主要な究極の関心は仏教にある。彼は西欧哲学の言語をもって、より正確には清沢的に改作された哲学的言語をもって、仏教的精神または仏教に内在する思考をいわば再発見し、語り直し、仏教の哲学的可能性だけでなく、仏教的信念(または信知、信と知の合一としての智慧)の本質を解明しようとしたのであった。」

今村仁司(いまむら ひとし)「清沢満之と哲学」(岩波オンデマンドブックス・2004年)

 

上記、「彼は西欧哲学の言語をもって、より正確には清沢的に改作された哲学的言語」とありますが、清沢満之は従来の仏教用語(仏陀、阿弥陀如来、本願、等々)に頼らず、ほどんど使用せず、例えば、如来のことを「絶対無限者」と表現します。以下は「宗教哲学骸骨」の現代語訳からの引用です。

 

「我々が無限という用語を選ぶ理由は、単に有限の相関項としてであり、我々は有限を宇宙の制限された事物のための用語として採用したのであった。このように2つの用語(有限と無限)の大雑把な説明を与えたうえで、我々による宗教の定義はつぎのように自由に言い換えられるだろうし、そのいくつかは読者にとって有益であろう。『宗教とは相対存在と絶対者との統一である。』、『宗教とは様態と実態との統一である。』、『宗教とは生きとし生けるものとブッダとの統一である、等々。』。

清沢満之「宗教哲学骸骨」・『現代語訳清沢満之語録』(今村仁司翻訳)(岩波文庫・2001年)

 

この「宗教哲学骸骨」は「The Skeleton of Philosophy of Religion」として英訳され、「シカゴ万国宗教大会(1893年)」で発表され好評を得たといいます。

 

「『宗教哲学骸骨』には2つのヴァージョンがある。日本語の原本とその英語版である。日本語版は明治25年(1892)京都法蔵館から刊行された。英語版は明治26年(1893)三省堂から刊行された。- 英訳者は野口善四郎で清沢満之はこれを校閲して完成させた。シカゴ大会には野口がこの英語版をたずさえて出席した。」

『現代語訳清沢満之語録』解題(今村仁司翻訳)(岩波文庫・2001年)

 

この大会はコロンブスのアメリカ大陸発見400年を記念して開催された「シカゴ万博(World’s Columbian Exposition)1893/05/01-10/30」の一環として開催され世界19ヶ国より12の宗教の関係者が参加し、日本からは仏教の4宗派(臨済宗、真言宗、浄土真宗西本願寺、天台宗)が参加したといいます。因みにこの「シカゴ万博」の一般参加者は2,750万人と当時のアメリカの人口の半数であったということです。

 

さて「宗教哲学骸骨」発表後の清沢満之に戻ります。翌年、明治27年(1894)清沢は結核を発症します。須磨・垂水に転地療養したといいますが、当時結核は不治の病でした。抗生物質(ストレプトマイシン)の普及は戦後です。清沢の他界まで10年ですが、その間、結核と戦いながら彼は精力的に活動します。

 

「彼は(浄土真宗の開祖である)親鸞を知ろうとして白熱的な探求で近づくのだが、その方法は、数百年、本願寺が宗乗(教義)として積み重ねてきた勧学寮(学問所)の宗学にたよろうとせず、むしろ黙殺し、むしろ西洋哲学にたよった。真宗的信仰習慣も黙殺した。たとえば田舎では説教僧が地獄極楽を説いている。浄土真宗を信ずれば死後そこへゆくと言っている。しかし彼が到達しえた「親鸞」によれば『来世の幸福のことは、私はまだ実験していないことであるから、ここに述べることはできぬ』というものであり、『地獄極楽の有無、霊魂の滅否は無用の論題也』というものであった。

司馬遼太郎「清沢満之と明治の知識人・『中央公論1965年4月号』」

 

清沢満之は「教団としての浄土真宗・東本願寺」に逆らって素手(論理)で親鸞の思想に迫っていきました。信仰と教団の関係についての大きな問題ですね。親鸞の有名な「私は弟子を1人ももたぬ」という言葉がありますが、実際、開祖親鸞も大教団を築こうと思ったわけでもなく、当然親鸞の時期に大きな教団は出来ていません。親鸞(1173-1263)が活動するのは鎌倉期でしたが、本願寺が教団として大きくなるのは、室町時代の8代門主である蓮如(1415-1499)の時代です。

 

親鸞の嫡流とはいえ蓮如が生まれた時の本願寺は、青蓮院の末寺に過ぎなかった。他宗や浄土真宗他派、特に佛光寺教団の興隆に対し、衰退の極みにあった。その本願寺を再興し、現在の本願寺教団(本願寺派・大谷派)の礎を築いたことから、「本願寺中興の祖」と呼ばれる。

Wikipedia-蓮如

 

「教団」が興隆するのは政治力であり広報・宣伝力です。上記、司馬遼太郎が語っている「たとえば田舎では説教僧が地獄極楽を説いている。浄土真宗を信ずれば死後そこへゆくと言っている。」…方式(広報・宣伝方法)によって大膨張していったわけです。しかし清沢は親鸞に立ち帰って研究しました。

 

正しく浄土真宗における「明治維新」です。

 

「それ以降、教団との惨憺たる格闘がある。およそ非政治的な清沢が、強烈な志士的情熱を燃やしたのは、幕末から明治中期にかけての時代相の影響というほかない。彼は法主の君側の奸を払い、教法を親鸞の昔にかえし、運営を近代化することをめざしたが、彼が仰望する法主自身が女出入りの噂の絶えぬ醜聞の製造者であった。」

司馬遼太郎「清沢満之と明治の知識人・『中央公論1965年4月号』」

 

上記状況の中、ともかく清沢満之は、本願寺の役職から去って、京都の洛東白川村に居を移し同志6名とともかく「東本願寺維新」を起こします。彼らは「白川党」呼ばれ、明治29年(189610月、雑誌『教界時言』を発刊「大谷派の有志者に檄す」と題して全国の門徒に発信しますが、結論から言えば、明治31年(1898)『教界時言』は廃刊、この維新は失敗に終わります。この辺りの事情は、理崎 啓(りさき けい)の小説「六花飜々(りっかほんぽん)―清澤満之と近代仏教」(哲山堂・2011年)に詳しいので関心ある方は参照下さい。

 

さて、この後も清沢の活躍は続くのですが、今回あまりに長くなってしまったので今回はこの辺で擱筆します。次回、失敗に終わった「東本願寺維新」の後、清沢が何を始めるのから続けたいと思います。清沢の死まであと5年です…

 

因みに、孫文(31歳)が横浜に初来日したのは明治30年(1897)の816日でしたが、時に、この白川村では「東本願寺維新」の真っ最中、。(No.3「孫文のいた頃」参照)清沢は孫文より3歳年長の34歳でした。

 

清沢満之の第一高校(旧制一高)時代(蓮成寺所蔵)
山本伸裕(やまもとのぶひろ)著「清沢満之と日本近現代思想」(明石書店・2014年)表紙より

以上

 

2022年11

 

追記:▶山川異域・風月同天―❷ 詩の背景

 

霊亀 3年・養老元年(717)、今から1305年前の事です。この年の第9次遣唐使でこの詩(偈)が刺繍された袈裟1000枚が長屋王(676 or 684-729)より唐王朝に贈られます。開元5年、「開元の治」と呼ばれる、35歳の気鋭溢れる玄宗皇帝が活躍し始める時代で、また文学史では「盛唐」と呼ばれる黄金期です。

 

そして吉備真備(695-775)22歳、阿倍仲麻呂(698-770)19歳、この伝説の天才2人は奇しくもこの同じ第9次遣唐使で唐に渡ります。彼らは、長屋王から「1000枚の袈裟」を託されどんな話をしたのでしょう。エリートですから仏教や儒教の知識はかなりあったはずです。因みに吉備真備は後に右大臣に、阿倍仲麻呂は科挙に合格し同年代の李白や王維の友人となり詩のやり取りなどもし、唐の玄宗・粛宗 ・代宗の3代に渡り重用されました。

 

当時まだ日本に日本語の文字はありません。「万葉仮名(音読みの当て字方式)」を使い公式文書は完全に唐様(中国語)の書記方式です。(「ひらがな・平仮名」の発明は800年代くらい。)

 

そんな時代のことを上手に想像することは中々難しくもありますが、楽しくもあります。以下、第9次遣唐使派遣の717年に当時の日本と唐の有名人が何歳であるかを一覧にしてみました。唐王朝の「不空三蔵」は、これより86年の後、遣唐使として日本からやってくる空海の師の「恵果阿闍梨(けいかあじゃり)」の師です。5歳の杜甫はカワイイですね。日本の薄緑でハイライトしている3名は遣唐使で、*のついている人は万葉歌人です。

 

 

そんな時代に日本から贈られた「袈裟」は「授戒(僧になる資格を授ける)」のできる高僧が日本には存在しなかったため、その高僧の招聘・渡日を願うための「貢ぎ物」であったのではないか…ということです。下記に出て来ますが、鑑真はその「16文字の詩が刺繍された袈裟のこと」を知っていたということになります。

そして、正式には聖武天皇の時代、733年の第10次遣唐使に、普照(ふしょう・生没年不明)と栄叡(ようえい・?-749)が「授戒できる高僧招聘」の命を受けて唐に渡り、実際鑑真に出会うのは742年の事です。

結果、高僧・鑑真和上(688-763)が幾度もの渡日、渡海の失敗の末、失明までして日本の益救島(屋久島)に753年12月7日に到着、平城京入りは754年2月4日であったといいます。時に鑑真66歳でした。

「袈裟」が贈られたのは鑑真29歳、第1回目の渡日の試みが743年ですから鑑真55歳です。26年の後に「袈裟」の成果が出て、実際に鑑真が平城京に到着するまでに37年!贈り主の長屋王はその25年も前に政変(長屋王の変・729)によって自殺に追い込まれてしまいました。

さて、上記、詳細・克明な記録がたどれるのは、淡海三船(おうみのみふね・722-785)が著した「唐大和上東征伝(とうだいわじょうとうせいでん)・779年」(鑑真の渡日の契機や唐招提寺建立縁起等を記したもの)(下記写真)が残っていたからです。

 

 

これを基にして書かれたものが井上靖(いのうえやすし・1907-1991)の「天平の甍(てんぴょうのいらか・1957年)」という小説です。実際、私がこの「山川異域・風月同天」の詩を知るのは、学生時代にこの本を読んだからです。1300年も前のことを小説とはいえドキュメンタリー風にリアルに描くことができたのは「唐大和上東征伝」と、ちょうど其の頃、美術史家で鑑真研究者の安藤更生(あんどう こうせい・1900-1970)が鑑真について克明に研究しており、井上靖は安藤更生に教えを受けたということです。因みに安藤更生のB5,470ページの大著「鑑真大和上伝之研究」(平凡社)の刊行は1960年でした。

 

さて、今「天平の甍」を読み返すと上記写真の赤線部分とその前後がそのまま引用・翻訳されていました。

 

「 話を聞き終わると、鑑真はすぐ口を開いた。大きい体躯から出る声は意外に低かった。諄々と説くようなその口調には魅力があった。

『私は聞いている。昔南岳(なんがく)の思禅師(しぜんじ)は遷化の後、生を倭国(やまとのくに)の王子に託して仏法を興隆し、衆生を済度されたということである。またかかることも聞いている。日本国の長屋王子(ながやのおおぎみ)は仏法を崇敬して、千の袈裟を造ってこの国の大徳衆僧に施された。その袈裟には四句が縫いとりされてあった。―山川域を異にすれども、風月天を同じゅうす。これを仏子に寄せて、共に来縁を結ばん。―こういうことを思い併せると、まことに日本という国は仏法興隆に有縁の国である。いま日本からの要請があったが、これに応えて、この一座の者の中でたれか日本国に渡って戒法を伝える者はないか』

 たれも答える者はなかった。暫くすると祥彦(しょうげん)という僧が進み出て言った。

 『日本へ行くには渺漫たる滄海を渡らねばならず、百に一度も辿りつかぬと聞いております。人身は得難く、中国には生じがたし。そのように涅槃経にも説いてあります』

 相手が全部言い終わらぬうちに、鑑真は再び口を開いた。

『他にたれか行く者はないか』

 だれも答えるものがなかった。すると鑑真が三度口を開いた。

 『法のためである。たとえ渺漫たる滄海が隔てようと生命を惜しむべきではあるまい。お前たちが行かないなら私が行くことにしよう』

 一座は水を打ったようにっしんとなっていたが、全てはこの間に決まったようであった。」

「天平の甍」井上 靖(1957年・中央公論社)

 

感動的な場面なのでつい長々と引用しました。100に1つは大げさですが当時の遣唐使の生還率は50%であったといいます。次回、もう少しこの「山川異域・風月同天の背景」について語りたいと思います。

 


唐招提寺金堂・国宝・奈良時代後半(8世紀)建立・天平時代(729-749)

唐招提寺ホームページより

 

聖武天皇の招きに応じ、苦難の末、日本にやってきた唐僧鑑真和上によって建立されました。鑑真和上は日本に着いてから5年間、戒壇院での授戒を制度として確立するために東大寺で過ごしましたが、東大寺を引退された後、故新田部親王(天武天皇の第七皇子)の旧宅を賜り、そこを「唐律招提」と称し、戒院として教学の場を営むことになりました。やがて鑑真和上を支持する人々から居室や宿舎を贈られ、倉庫、食堂、講義用の講堂、本尊を安置する仮金堂などが建てられ、鑑真和上の没後も金堂や東塔が建立されました。平安時代初頭に伽藍全体が完成し、そのころ「唐律招提」から「唐招提寺」となりました。

「公益社団法人 奈良市観光協会」ホームページより

 

 

 

No.16 さて「孫文のいた頃」をみるlist-type-white

 

No.18 明けても「孫文のいた頃」をみるlist-type-white