次回日程

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国際交流・留学にすぐには役立ちそうにない教養講座⑳


ー世界に「日本が存在していてよかった」と思ってもらえる日本に…

 

 

No.20 晴れても「孫文のいた頃」

『行人』は「友達(33章)」、「兄(44章)」、「帰ってから(38章)」、「塵労(52章)」の4編で成り立っており、確かに「帰ってから」以外は《旅行》が背景なので、「こうじん=旅人」となりますが、清沢満之影響を意識すると「ぎょうにん」という読み方も可能になります。この読みだと意味は「ぎょうにん=修行僧、行者」となります。また一番長い最終編の「塵労・じんろう」の意味は「俗世間の苦労」であり、果たして、仏教用語でもあり意味は「煩悩」です。そしてこの第4編「塵労」は「文字通り塵労、悩んでいる兄と一緒に旅行をしている兄の親友Hから弟への長い手紙形式」で表現されています。内容は「悩んでいる兄の世界観が非常に仏教思想的・哲学的」で、それが延々と述べられています。であるなら、この『行人』の読み方は「ぎょうにん」であってもよいのかもしれません。この「漱石全集」の注解に「ぎょうにん=修行僧、行者」の解釈はありませんでした。

No.19 暮れても「孫文のいた頃」

 

前回は夏目漱石(慶応3年・1867‐大正5年・1916)の晩年の作品『行人』(大正元年・1912・12月6日~大正2年・1913・11月5日・朝日新聞に連載)のタイトルの読みに学者によっても定説が無く、仏教の影響を受けているとすると『行人』(こうじん・ぎょうにん)の両方を意識しているのではないか…一番ページを割いている第4編のタイトル「塵労」は仏教用語での「煩悩」の意味でもあり、とくにこの第4編が、兄の親友Hから私(弟)への「兄の精神状態についての長い手紙形式の報告書」の体をとっていますが、見方によっては「仏教哲学の開陳」とも受け取れるのではないか、ところで終わりました。

 

さて見ていきましょう。

 

ストーリーを追えば、まあ、第1編では、色々な契機で始まり、色々な形相をとる男女間恋愛模様が語られ、さらに、第2編、第3編ではその流れで、兄一郎が、彼の嫁・直が、弟・二郎を好きなのではないか?という嫉妬的疑惑を中心にストーリーが展開します。そして、第4編「塵労」(52の章に分かれています)でも、27章までは、そんな延長で話が進みますが、28章から最後まで、兄一郎と一緒に旅行している兄の親友で同僚の文学系大学教授Hからの、兄の心理・精神状況、何を考えているのか?という手紙が弟・二郎に着きます。(まあ、兄が何で悩んでいるのか、自分(二郎)のことをどう思っているのか?心配した弟が、Hに頼んでいたわけですが…)

 

しかし、「手紙」(28章以降)に予想された、嫁・直と弟・二郎の関係への疑い等はほぼ出てきません。

 

しかし、それまでの様々な恋愛の根底にある我執(独占欲、嫉妬等)があるからこそ、それは重低音のように響き続け「手紙の内容」を際立たせます。

 

この『行人』は朝日新聞に(大正元年・1912・12月6日~大正2年・1913・11月5日)で連載されたわけですが、初めの3編が大正2年・1913・4月7日まで連載され、最後の第4編の再開は9月16日で、5ヶ月以上の中断があります。漱石の持病であった胃潰瘍が原因の中断でした。しかし、話の内容が変化していく理由は胃潰瘍のせいではないように思います。初めの3章と4章では内容がかなり変化します。

 

下記が兄の友人・Hからの手紙で兄・一郎の悩みの一番初めのテーマです。

 

或いはよく例に引かれる部分かもしれませんが、たとえば、フランスの哲学者で小説家のジャン・ポール・サルトル(1905-1980)の小説『嘔吐・La Nausée』(1938)を強く連想させます。この「吐き気」とは「意味を剝ぎ取られた存在そのもの」に対する不安・不快の感覚です。因みに、サルトル自身が付けたこの小説の当初の題名は「メランコリア・憂鬱」でしたが出版社(ガリマール社)の代表ガストン・ガリマールの意見で「嘔吐・La Nausée」になったということです。

 

「床に入る前になって、私は始めて兄さんからその時の心理状態の説明を聞きました。兄さんは碁を打つのは固もとより、何をするのも厭だったのだそうです。同時に、何かしなくってはいられなかったのだそうです。この矛盾がすでに兄さんには苦痛なのでした。兄さんは碁を打ち出せば、きっと碁なんぞ打っていられないという気分に襲われると予知していたのです。けれどもまた打たずにはいられなくなったのです。それでやむをえず盤に向ったのです。盤に向うや否やじれったくなったのです。しまいには盤面に散点する黒と白が、自分の頭を悩ますために、わざと続いたり離れたり、切れたり合ったりして見せる、怪物のように思われたのだそうです。兄さんはもうちっとで、盤面をめちゃめちゃに掻き乱して、この魔物を追払うところだったと云いました。何事も知らなかった私は、少し驚きながらも悪い事をしたと思いました。

『いや碁に限った訳じゃない』と云って兄さんは、自分の過失を許してくれました。私はその時、兄さんから、兄さんの平生を聞きました。兄さんの態度は碁を中途でやめた時ですら落ちついていました。上部から見ると何の異状もない兄さんの心持は、おそらくあなた方には理解されていないかも知れません。少なくとも、こういう私には一つの発見でした。

 兄さんは書物を読んでも、理窟を考えても、飯を食っても、散歩をしても、二六時中何をしても、そこに安住する事ができないのだそうです。何をしても、こんな事をしてはいられないという気分に追いかけられるのだそうです。

『自分のしている事が、自分の目的(エンド)になっていないほど苦しい事はない』と兄さんは云います。

『目的でなくっても方便(ミインズ)になれば好いじゃないか』と私が云います。

『それは結構である。ある目的があればこそ、方便が定められるのだから』と兄さんが答えます。

 兄さんの苦しむのは、兄さんが何をどうしても、それが目的にならないばかりでなく、方便にもならないと思うからです。ただ不安なのです。したがってじっとしていられないのです。兄さんは落ちついて寝ていられないから起きると云います。起きると、ただ起きていられないから歩くと云います。歩くとただ歩いていられないから走ると云います。すでに走け出した以上、どこまで行っても止まれないと云います。止まれないばかりなら好いが刻一刻と速力を増して行かなければならないと云います。その極端を想像すると恐ろしいと云います。冷汗が出るように恐ろしいと云います。怖こわくて怖くてたまらないと云います。」

行人 第4編・塵労・31章

 

その次に以下の「憂鬱」が登場します。

 

「『君のいうような不安は、人間全体の不安で、何も君一人だけが苦しんでいるのじゃないと覚ればそれまでじゃないか。つまりそう流転して行くのが我々の運命なんだから』

 私のこの言葉はぼんやりしているばかりでなく、すこぶる不快に生温いものでありました。鋭い兄さんの眼から出る軽侮の一瞥と共に葬られなければなりませんでした。兄さんはこう云うのです。

『人間の不安は科学の発展から来る。進んで止まる事を知らない科学は、かつて我々に止まる事を許してくれた事がない。徒歩から俥(くるま・人力車)、俥から馬車、馬車から汽車、汽車から自動車、それから航空船、それから飛行機と、どこまで行っても休ませてくれない。どこまでつれて行かれるか分らない。実に恐ろしい』

『そりゃ恐ろしい』と私も云いました。

 兄さんは笑いました。

『君の恐ろしいというのは、恐ろしいという言葉を使っても差支えないという意味だろう。実際恐ろしいんじゃないだろう。つまり頭の恐ろしさに過ぎないんだろう。僕のは違う。僕のは心臓の恐ろしさだ。脈を打つ活きた恐ろしさだ』

 私は兄さんの言葉に一毫も虚偽の分子の交っていない事を保証します。しかし兄さんの恐ろしさを自分の舌で嘗めて見る事はとてもできません。

『すべての人の運命なら、君一人そう恐ろしがる必要がない』と私は云いました。

『必要がなくても事実がある』と兄さんは答えました。その上、下のような事も云いました。

『人間全体が幾世紀かの後のちに到着すべき運命を、僕は僕一人で僕一代のうちに経過しなければならないから恐ろしい。一代のうちならまだしもだが、十年間でも、一年間でも、縮めて云えば一カ月間乃至一週間でも、依然として同じ運命を経過しなければならないから恐ろしい。君は嘘かと思うかも知れないが、僕の生活のどこをどんな断片に切って見ても、たといその断片の長さが一時間だろうと三十分だろうと、それがきっと同じ運命を経過しつつあるから恐ろしい。要するに僕は人間全体の不安を、自分一人に集めて、そのまた不安を、一刻一分の短時間に煮つめた恐ろしさを経験している」

『それはいけない。もっと気を楽にしなくっちゃ』

『いけないぐらいは自分にも好く解っている』

 私は兄さんの前で黙って煙草たばこを吹かしていました。私は心のうちで、どうかして兄さんをこの苦痛から救い出して上げたいと念じました。私はすべてその他の事を忘れました。今までじっと私の顔を見守っていた兄さんは、その時突然『君の方が僕より偉えらい』と云いました。私は思想の上において、兄さんこそ私に優すぐれていると感じている際でしたから、この賛辞に対して嬉しいともありがたいとも思う気は起りませんでした。私はやはり黙って煙草を吹かしていました。兄さんはだんだん落ちついて来ました。それから二人とも一つ蚊帳に這入って寝ました。」

行人 第4編・塵労・32章

 

「文明の進化(その根底にある人間、個人の闘争・競争の本能)」についての不安・憂鬱ですが、この友人のHは二郎やその他の人にように変だとは思っておらず「兄さんこそ私に優すぐれている」と評しています。

 

そして「悩みの解決」が、ここではあるわけではないのですが、以下にチラリとは見え隠れします。

 

「あなたも現代の青年だから宗教という古めかしい言葉に対してあまり同情は持っていられないでしょう。私も小むずかしい事はなるべく言わずにすましたいのです。けれども兄さんを理解するためには、ぜひともそこへ触れて来なければなりません。あなたには興味もなかろうし、また意外でもあろうけれども、それを遠慮する以上、肝腎の兄さんが不可解になるだけだから、辛抱してここのところをとばさずに読んで下さい。辛抱さえなされば、あなたにはよく解る事なんです。読んでそうして善く兄さんを呑み込んだ上、御老人方の合点のゆかれるように御宅へ紹介して上げて下さい。私は兄さんについて過度の心労をされる御年寄に対して実際御気の毒に思っています。しかし今のところあなたを通してよりほかに、ありのままの兄さんを、兄さんの家庭に知らせる手段はないのだから、あなたも少し真面目になって、聞き慣れない字面に眼を御注ぎなさい。私は酔興でむずかしい事を書くのではありません。むずかしい事が活きた兄さんの一部分なのだから仕方がないのです。二つを引き離すと血や肉からできた兄さんもまた存在しなくなるのです。

兄さんは神でも仏でも何でも自分以外に権威のあるものを建立するのが嫌いなのです。(この建立という言葉も兄さんの使ったままを、私が踏襲するのです)。それではニイチェのような自我を主張するのかというとそうでもないのです。

『神は自己だ』と兄さんが云います。兄さんがこう強い断案を下す調子を、知らない人が蔭で聞いていると、少し変だと思うかも知れません。兄さんは変だと思われても仕方のないような激した云い方をします。

『じゃ自分が絶対だと主張すると同じ事じゃないか』と私が非難します。兄さんは動きません。

『僕は絶対だ』と云います。

 こういう問答を重ねれば重ねるほど、兄さんの調子はますます変になって来ます。調子ばかりではありません、云う事もしだいに尋常を外れて来ます。相手がもし私のようなものでなかったならば、兄さんは最後まで行かないうちに、純粋な気違として早く葬られ去ったに違ありません。しかし私はそう容易く彼を見棄てるほどに、兄さんを軽んじてはいませんでした。私はとうとう兄さんを底まで押しつめました。

 兄さんの絶対というのは、哲学者の頭から割り出された空しい紙の上の数字ではなかったのです。自分でその境地に入って親しく経験する事のできる判切(はっきり)した心理的のものだったのです。

 兄さんは純粋に心の落ちつきを得た人は、求めないでも自然にこの境地に入れるべきだと云います。一度この境界に入れば天地も万有も、すべての対象というものがことごとくなくなって、ただ自分だけが存在するのだと云います。そうしてその時の自分は有るとも無いとも片のつかないものだと云います。偉大なようなまた微細なようなものだと云います。何とも名のつけようのないものだと云います。すなわち絶対だと云います。そうしてその絶対を経験している人が、俄然として半鐘の音を聞くとすると、その半鐘の音はすなわち自分だというのです。言葉を換えて同じ意味を表わすと、絶対即相対になるのだというのです、したがって自分以外に物を置き他を作って、苦しむ必要がなくなるし、また苦しめられる掛念も起らないのだと云うのです。

『根本義は死んでも生きても同じ事にならなければ、どうしても安心は得られない。すべからく現代を超越すべしといった才人はとにかく、僕は是非とも生死を超越しなければ駄目だと思う』

 兄さんはほとんど歯を喰いしばる勢いでこう言明しました。」

行人 第4編・塵労・44章

 

ここで、兄・一郎が語っていることは正しく「仏教」でいう「塵労」を離れた「悟り」の境地です。ただし、それは「宗教・信仰」から入るのではなく、「理性・知性」から辿り着こうとしているようです。上記の少し前、39章で兄・一郎にこんな独白があります。

 

「『死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」

 兄さんははたしてこう云い出しました。その時兄さんの顔は、むしろ絶望の谷に赴おもむく人のように見えました。

『しかし宗教にはどうも這入れそうもない。死ぬのも未練に食いとめられそうだ。なればまあ気違だな。しかし未来の僕はさておいて、現在の僕は君、正気しょうきなんだろうかな。もうすでにどうかなっているんじゃないかしら。僕は怖こわくてたまらない』」

行人 第4編・塵労・39章

死か狂気か宗教か、3つのものしかない…そうは言いながら、それ以外のものが出てきかかっているようです。ただ、それができるかできないかはともかく。それはある意味、清沢満之が、素手で、或いは、西洋哲学の方法を借りて、浄土真宗の教義を、親鸞の教えを再吟味したことと、同様であるように思います。夏目家の宗旨は浄土真宗で、また、漱石は参禅などもしていますが…。

 

さて、『こころ』の先生の友人「K」は清沢満之がモデル、という説に惹かれて、その前作の『行人』を読んでみました。『行人』において、既にして清沢満之の影響であるかどうかはともかく、ある意味当然ですが、仏教哲学を念頭に書かれたものである、とは言えると思います。

 

そして次作の『こころ』でこの漱石の考えがどう変化していくのか…次回はそこから考えていきたいと思います。

以上

2023年2

 

追記

 

上記コラムのコンテンツが余りに重かったので「アート系」の話にしましょう。


漱石は良寛(宝暦8年・1758-天保2年・1831)の「書や漢詩」が大好きでした。

 

良寛というと多くの方は、子供と「手鞠つき」をして遊でいる好々爺のイメージが強いかもしれませんね。だから、つい「良寛さん」と親しみを込めて「さん付け」で呼ばれることも多いかと思いますが、まあ、そんな面もあったのでしょう。しかし一方、厳しい修行を積んだ曹洞宗の僧侶でもありました。

 

私はパラパラと彼の漢詩を読んだり、書を見たりしていますが、きちんと良寛について勉強したことはありません。しかし彼の漢詩を読む度に、書を見る度に、もっと良寛について知りたくなります。

 

以下は漱石から森成麟造(明治17年・1884‐昭和30年・1955:漱石が修善寺で倒れた時の担当医、その後交流が続く)への漱石が「良寛の書」を貰った時の御礼状です。

 

「拝復、良寛上人の筆蹟はかねてよりの希望にて年来御依頼致し置候処、今回非常の御奮発にて懸賞の結果漸く御入手被下候由、近年になき好報、感謝の言葉もなく只管恐縮致候。
良寛は世間にても珍重致し候が小生のはただ書家ならという意味にてはなく寧ろ良寛ならではという執心故、菘翁だの山陽だのを珍重する意味で良寛を壁間に掛けて置くものを見ると有(も)つまじき人が良寛を有ってゐるような気がして少々不愉快になる位に候。

大正5年3月16日(木)越後高田横町 森成鱗造様」
漱石全集 第24巻書簡(岩波出版社・1997)

 

上記、「菘翁だの山陽だの」…彼らは、漱石にはひどい扱いを受けていますが、勿論人気もあり珍重された貫名菘翁(安永71778 – 文久3年・1863:儒学者・書家)と、かの頼山陽(安永9年・1781 – 天保3年・1832)です。私としては山陽はイマイチ解らないような気もしますが、菘翁の書はカッコイイとは思います。要は漱石がそれほど良寛を好きだったということでしょう。

 

漱石が良寛を好きな理由の一つは、勿論、書の素朴な凛とした美しさにあると思いますが、もう一つは、その良寛の生き方を漢詩を通して感じ、それに憧れたのではないか、と思います。即ち、本来、高僧であるから当然とも言えますが、漱石と同じ、崇高な理念と倫理観を持ち、しかもノビノビとした、また時には激しく厳しい「漢詩」をたくさん(下記引用書で483首)詠んでいた、ということでしょう。

 

生涯懶立身     生涯、身を立つるに懶(ものう)く はなから出世に興味は無い

騰騰任天真        騰騰、天真に任す                          ゆったり運に任せるさ

嚢中三升米        嚢中、三升の米                              袋の中には米がある

炉辺一束薪        炉辺、一束の薪                              炉端にゃ薪もちゃんとある

誰問迷悟跡        誰か問はん、迷悟の跡            悟った、悟らぬ、どうでもいいさ

何知名利塵        何ぞ知らん、名利の塵            世間の名誉はただのゴミ

夜雨草庵裏        夜雨、草庵の裏(うち)         庵で夜の雨音聴きながら

双脚等閑伸        双脚、等閑に伸ぶ                 両足投げだし伸びをする

蔭木英雄良「寛詩全評釈」(春秋社・2002年)

 

「コラム重さ」の反発勢いで、右に井伏鱒二風の超軽い訳を付けてみました。それにしても漱石の生涯を振り返ると、おそらく彼もこの詩のような境涯に憧れたのでしょう。

 

「立身出世」(今日の「お金持ちになりたい!」とは全く違いますが)、がキーワードの明治期に、日本全国各地の頼もしい優秀な子供に対して「末は博士か大臣か」という言葉がありました。今の大学の先生と異なり、当時、大臣と同様、博士は極少数の限られたエリートでした。その立場を辞めて朝日新聞の社員になった漱石(漱石が良寛を知るのは大正に入ってからということですが…)としては、出会った時に、良寛は心の友であり先輩であると思ったことでしょう…それは嬉しかったと思います。

 

さて、みなさんも、良寛の書見たいですよね。折角なので挙げておきます。

 

良寛没後あまり年を経ていない頃、明治・大正期に、良寛を慕う超俗の芸術家達に密かに知られていた良寛の座右の銘があります。「一生成香」(一生香を成せ)生涯いい香りを発しながら生きよ、という実に気高く深みのある言葉です。道元に心酔し、さらに法華経を深く学んだ良寛らしい座右の銘です。

萬羽啓吾「良寛‐文人の書」(2007年・新典社)(写真も)

 

「一生成香」…カッコイイですね。ここで使っている「香」は、今風に言えば、たいへんな「オーラ」のことでしょうか…

 

 

No.19 暮れても「孫文のいた頃」をみるlist-type-white

 

No.21 雨でも「孫文のいた頃」をみるlist-type-white