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国際交流・留学にすぐには役立ちそうにない教養講座⑲


ー世界に「日本が存在していてよかった」と思ってもらえる日本に…

 

 

No.19 暮れても「孫文のいた頃」

 

「漱石の『こころ』(大正3年・1914)に「先生」の友人として登場する「K」は清沢がモデルになっている…と見る仏教学者もいるということです。『こころ』と言えば、私が高校2年、夏休みの国語の宿題感想文の課題図書で、当時クーラーもない暑い部屋で、あの重々しい、ドロドロした人間関係の本を読み、何でこんなものを高校生に読ませるのか…とあまり感動もせずともかく読み徹し、通り一遍の感想文を書いた記憶があります。しかし今回、清沢満之をそれなりに学習して、66歳になった今、「K=清沢」説は大変興味をそそられました。早速『こころ』を50年ぶりに読み返し、次回は夏目漱石と『こころ』を通して、孫文がいた頃、明治時代を考えてみたいと思います。」

No.18 明けても「孫文のいた頃」

 

前回は夏目漱石(慶応3年・1867‐大正5年・1916)の晩年の作品『こころ』(大正3年・1914・420日~811日・朝日新聞連載)に登場する「先生」の友人Kは清沢満之がモデル?!、という説があるということで大変驚きました。

当然、それにはいくつかの例証があるようです。

 

「そのあたりのこと(清沢満之の漱石への影響)については、これまでもいくつかの研究がなされている。たとえば水川隆夫は《『清沢先生信仰座談』が『こころ』の構想に一つの示唆を与えたのではないか》とし、藤井淳に至っては、《漱石がKを描く際に清沢満之という人物を念頭に置いていた》との、踏み込んだ見解を示している。

 KというのはKIYOZAWAの頭文字ではないかとも推測されるが、Kの自殺の理由をめぐっては、種々の説が提示されてきた。だが、いずれの説も、いまだ定説となるまでには至っていない。私はKのモデルが誰であるかをめぐる議論を錯綜させてきた一因は、清沢について知る人があまりに少ないことにあると見ているが、清沢に刺激されてKが描かれているとする、水川や藤井の仮説は、清沢の思想や生きざまを知る者には、頷かされるところが少なくない。」

山本伸裕(やまもとのぶひろ)「清沢満之と日本近現代思想・明石書店2014年10月」

 

上記、『清沢先生信仰座談』は清沢の弟子、安藤州一の著書で漱石の蔵書にありました。(No.18 明けても「孫文のいた頃」参照)水川隆夫は『夏目漱石「こゝろ」を読みなおす』平凡社新書・2005年があるようです。(1934年京都府生まれ。京都大学文学部(国文学専攻)卒業。中学校・高校教諭、京都府教育研究所員を経て京都女子大学文学部教授、1999年退官・amazonの著者略歴より)。そして藤井淳はネット検索によると、駒澤大学 仏教学部仏教学科 教授とあります。水川隆夫の『夏目漱石「こゝろ」を読みなおす』は大変興味をそそられますし、藤井淳もこの件についての論文があるようですが、先ず自分自身で『こころ』を読み直してからと思い、まだ読んではいません。

 

さて、そこで今回は『こころ』その他、彼の作品を通して明治・大正時代、「孫文がいた頃」を考えてみたいと予告して、早速、高校以来読んでいない『こころ』を読み返してみました。そしてまだ読んでいなかった、『こころ』の直前の作品『行人』(大正元年・1912・12月6日~大正2年・1913・11月5日・朝日新聞に連載)も読んでみました。先ず『こころ』を読み返し、「K=清沢満之がモデル」を意識して読むと、この作品の捉え方が全く変わってきます。そして、その前作である『行人』も、読んでみて、当然のことながら、一般の解釈とはかなり変わった捉え方となってしまいます。そこで、これから、『行人』と『こころ』を読み、私がどう感じたかを述べたいのですが、その前に文学作品へのアプローチ(どう読むのか)について、少しだけ考えてみたいと思います。

 

私は学生時代、文学部でそんな研究書をいくつか読みましたが、そもそも文芸作品の「解釈」、「読むという行為」は大変難しい問題です。よく言われる「作家論・作品論・読者論(テクスト論)」の問題です。作品として独立しているものだ…いやいや、その時代の中で書くわけだから、その作家の思想、おかれた時代的状況も…いや読者がどのように読むことこそ…と、いつも議論になるテーマです。そして今、私がこの「コラム」でやろうとしていることは、「その時代を上手に想像する、思い出す…」ために「作品」からアプローチしているわけです。もう少し具体的に言えば清沢満之(の思想)の夏目漱石(の思想・作品)への影響です。

 

そして、「時代の影響」という観点から、評論家、江藤淳(えとう じゅん)(昭和7年・1932- 平成11年・1999)に『漱石とその時代』(新潮選書・19701999)という完成(実際は江藤の死により未完)までに30年近くをかけた全5部の大著があります。私はまだ全部は読んでいません。その江藤淳が「明治の一知識人」というタイトルで漱石について下記のように述べています。因みにこの論文は19694月、ハーバード大学で講演した “Natsume Soseki, A Meiji Intellectual” を基に改稿したものだということです。

 

「明治時代の文学に、大正・昭和期の文学からは喪われてしまったある鮮明な特色があることを否定する者は少ないが、この特質が果たして何に由来しているかということになると、答えはかならずしも容易ではない。しかし、今かりに、それを次のように概括することはできるかもしれない。つまり、明治の作家たちは、その生活と思想のほとんどあらゆる位相を、圧倒的な西欧文明の影響下に曝した最初の日本の知識人であったにもかかわらず ー というよりはむしろその故に ー つねに日本人としての文化的自覚を失わず、一種強烈な使命感によって生きていた人びとであった、と。

 実際、何を書くにせよ、彼らは一様に「国のために」書いた。作家同士がお互いに思想的・芸術的立場を異にすることがあっても、少なくとも時代の理想 ― 日本文化を中核として、東西の文明を融合しようという若々しい理想は、その間に共有されていたのである。〈中略〉

 しかし、夏目漱石、森鴎外という明治の生んだ二人の巨匠の没後、このような使命感や責任感はついに次代の作家に継承されずに終わった。大正期の「白樺」の作家はもちろん、昭和十年代後半のいわゆる「超国家主義」作家たちにおいてさえ、同様の自覚に支えられた使命感は、実はよみがえってはいなかったのである。」

江藤 淳「明治の一知識人」(決定版 夏目漱石・新潮文庫) 

 

江藤淳の「彼らは一様に『国のため』に書いた」という表現はともかく、他の文化・文明(西欧文明)と出会い、当然自分の文化に気付き、その差について考えた、考えざるを得なかったということでしょう。そして、何故、夏目漱石や森鴎外の没後、日本文化と欧米列強文化との対峙が次代の作家に継承されなかったかにつき下記のようにのべます。

 

(因みに、上記、江藤淳の文章で一見「文化」と「文明」が混同されているようにも感じますが、私がこんなことを言うのも僭越ですが、さすがは江藤淳、きちんと使い分けています。我々がよく使う一般的な言葉で、ここで「文化」と「文明」について、深入りするわけにもいかないのですが、意外に混同されている、「文化」と「文明」についてちょっとお話しておきます。

「文化」は「カルチャー・Culture」の翻訳語で、「文明」は「シビリゼーション・Civilization」の翻訳語ですが、簡単に言うと文化とは「個的、地域的なもの」であり、文明は「普遍的」なものです。定義しづらい部分もありますが、「石・鉄器文明」等はこの用例で、「キリスト教・イスラム教文明」、「自由主義文明」等の用例は広義で、影響範囲が極めて広いために、本来「文化」というべきものでしょうが「文明」とも言えるのでしょう。その広く強い影響力を意識して江藤淳は「西欧文明」と表現していると思います。当然、「他文化間」の相互理解はなかなか難しいものです。)

 

さて、何故?漱石・鴎外没後、文化対峙が継承されなかったのか?でした。続けます。

 

「日露戦争の勝利は、日本に西欧列強と政治的にほぼ同等の位置をあたえた。さらに第1次大戦中、連合国旗の中に日の丸を見出した日本人は、まさに日本が「世界のなかの日本」であることを、ある満足とともに認めるにいたった。同等の認識は、ある意味では明治の理想があまりにも早く達成されてしまったことの認識である。もはや人々は「国のために」思いわずらう必要を感じなかった。国は、今や充分に強大と思われたからである。こうして、同等の認識は自然に同質の幻影にすりかえられた。いや、大正期以後の日本人にとっては、同等である以上は、日本は西洋と当然同質であるはずであった。」

同上

 

西欧文化と日本文化の『同等』と『同質』の混同、それによる混乱…、非常に興味深い指摘ですね。令和5年の今も変わっていないかもしれません。欧米列強、キリスト教に対抗するべく急造した「国家神道」も含めた「日本」は、しかし、ともかく日露戦争にも勝利し、つまり機能し「明治の理想があまりにも早く達成されてしまった」ということなのでしょう。(No.16 さて「孫文のいた頃」参照)

 

そして、その「勘違いの象徴」のような事件が日露戦争の終戦条約の「ポーツマス条約」に反対した国民暴動「日比谷焼き討ち事件(明治381905)年957日)」でした。(No.8 まだ「孫文のいた頃」参照)

そして一方、この『世間一般の和洋同質勘違い問題』を、まさしく、正すための努力こそ、清沢満之の「浄土真宗・他力思想」を「欧米(非仏教用語)言葉で表現」する努力であり、漱石の使命感でもあったはずです。即ちこのコラムで延々と扱ってきた問題の根底にあるものだと思います。

 

因みに、江藤淳はこの「同等・同質の勘違い」の例証として「白樺」派をかなり否定的に論評しています。

 

「『白樺』派は、彼らの幻影のサロンに、ダ・ヴィンチ、ゲーテ、トルストイ、ヴァン・ゴーグ、イエス・キリスト、メーテルリンクなどという古今の偉大な精神を、時代的背景も文化の質の相違も無視して招待し、その同時代者をもって自認した。これが、学習院出の貧乏華族の子弟の、稚気満々たる気負いとスノビズムの表現であったことはいうまでもない。」

同上

 

まあ、漱石・鴎外と比較されるのもかわいそうな気はしますが、白樺派で実際に留学しているのは有島武郎(明治11年・1878 – 大正12年・1923)くらいで西欧を肌身で感じることがなかった、とは言えるでしょう。

 

そして一方、以下の漱石の門弟への「手紙」は少し意外にも感じるかもしれませんが、漱石の「日本に対する使命感」の一端が現れています。

 

「しかし、明治の知識人である以上、漱石は、このような幻滅(西欧文明との対峙)の後でさえ、なお明治人独特の使命感と社会的責任の意識を喪わなかった。たとえば明治39年(1906)最初の小説「吾輩は猫である」を完成した直後、漱石はその門弟・鈴木三重吉に次のように書き送っている。《…この点から云うと単に美的な文字は昔の学者が冷評した閑文字(かんもじ・無駄・無益な文章・言葉)に帰着する。俳句趣味はこの閑文字の中を逍遥して喜んでいる。しかし、大なる世の中はかかる小天地に寝転んでいるようでは到底動かせない。しかも、大いに動かさざるべからざる敵が前後左右にある。いやしくも、文学を以て生命とするものならば単に美というだけでは満足ができない。ちょうど維新当時の勤王家が困苦をなめたような料簡にならなくては駄目だろうと思う。 ― 僕は一面において俳諧的文学に出入りすると同時に一面において死ぬか生きるか、命のやりとりをするような維新の志士の如き烈しい精神で文学をやってみたい》(明治39年10月26日・鈴木三重吉宛)」

同上

 

さて、ここでようやく『行人』(大正元年・1912・12月6日~大お正2年・1913・11月5日・朝日新聞に連載)にたどりつきました。書かれた順番で『こころ』の前に『行人』から考えてみます。

 

まずこのタイトルの読み方ですが一般的には「こうじん」と読み、そう発音すると「旅人」の意味になります。岩波書店1994年発行の「漱石全集・第8巻」のタイトルとしての「行人」について詳細な注解があります。注解は藤井淑禎(ふじい ひでただ・1950日本近代文学の研究者・立教大学名誉教授)です。漱石の原稿はタイトルに限らず、フリガナも多いのですが、このタイトルにはフリガナはなかったようです。そして、そうであるがゆえに、ここで詳述は省略しますが、学者の様々な議論があり(読み方・意味に)いまだ定説はない」とあります。

 

『行人』は「友達(33章)」、「兄(44章)」、「帰ってから(38章)」、「塵労(52章)」の4編で成り立っており、確かに「帰ってから」以外は《旅行》が背景なので、確かに「こうじん=旅人」となりますが、清沢満之影響を意識すると「ぎょうにん」とい読み方も可能になります。この読みだと意味は「ぎょうにん=修行僧、行者」となります。また一番長い最終編の「塵労・じんろう」の意味は「俗世間の苦労」であり、果たして、仏教用語でもあり意味は「煩悩」です。そしてこの第4編「塵労」は「文字通り塵労、悩んでいる兄と一緒に旅行をしている兄の親友Hから弟への長い手紙形式」で表現されています。内容は「悩んでいる兄の世界観が非常に仏教思想的・哲学的」で、それが延々と述べられています。であるなら、この『行人』の読み方は「ぎょうにん」であってもよいのかもしれません。この「漱石全集」の注解に「ぎょうにん=修行僧、行者」の解釈はありませんでした。

 

この場合、多くの日本近代文学者は、梅原猛(うめはらたけし・1925-2019・哲学者)が云った「宗教的痴呆」に陥っている…ということなのかもしれません。

 

さて、今回は『行人』という「題名の解釈」で終わってしまいました。次回もう少し『行人』について考えたいと思います。


「漱石全集・第8巻」の口絵より(岩波書店1994年発行)

 

この第8巻の後記に下記がありました。

 

「『行人』の原稿は、現存の有無を確認できず、参看することができなかった。ただし「塵労」の第1回の第1紙は『漱石全集』第5巻(大正7年・1918)の口絵写真版として残されている。」

 

『行人』のオリジナル原稿表紙には漱石は2つの意味を持たせて敢えてフリガナは付いていないのかもしれません。

 以上

2023年1

 

追記
上記、江藤淳の「明治の一知識人」の中、漱石は手紙の中で「 ― 僕は一面において俳諧的文学に出入りすると同時に一面において死ぬか生きるか、命のやりとりをするような維新の志士の如き烈しい精神で文学をやってみたい」と述べています。上記の引用の趣旨としては「維新の志士」の方を強調したかったわけですが、実際「一面において俳諧的文学に出入りする」とありますが、一方、漱石は、大変な漢詩人でもあり俳人でもありました。 

 

漱石の漢詩は現在208首あり、俳句は2,527句あるといいます。新たに発見されたりすることもあり、多少の変動はあるようですが、学生時代から晩年まで生涯にわたって漢詩も俳句も書いています。今回の終わりに漱石の春の美しくも切ない「漢詩」を1首、挙げておきます。

 

其十                 其の十
渡尽東西水        渡り尽くす 東西の水

三過翠柳橋        三たび過ぐ 翠柳の橋
春風吹不断        春風吹きて断たず
春恨幾条条        春恨 幾条条

「春日偶成十首」 明治45年(1912)5月24日(漱石全集・第18巻・岩波書店・1995年)

 

東西の水:東の川、西の川、この場合、あちらこちらの掘割、運河、水路
翠柳の橋:橋のたもとの翠(緑色)の柳
春恨:春という季節を惜しむ、「恨」は「うらむ」の意味が一般ですが、「おしむ・愛(お)しむ、惜(お)しむ」の意味があります。(「字通・白川静著」)うつろいやすい春への思い、憂い。
吹不断:(春風が)いくら吹いても(春恨を)断ち切れない
条:筋(すじ)、幾筋にも分かれる春への思い

 

漱石の日記に「春日偶成 十首」というタイトルのもと、10首の五言絶句が漱石の日記1912年の5月23日25日の間にあります。10首すべて抒情的な春を詠んだ漢詩です。(因みにこの年の12月から『行人』の連載が始まります。)その10番目の詩で、場所は特定されてないようですが、春、柳の芽が出る頃に水路・掘割の多い地域を散策したのでしょう。

 

私は以前、下町は墨田区の某所に住んでいたことがあり、昔の運河・掘割がいくつかありました。それまでは山の手にしか住んだことがなくこの「東西水」がイメージできなかったのですが、墨田区に住んでみて、この詩の情景がイメージできるようになりました。“カーナビ” がなかった頃の昔、タクシーの運転手さんは道を覚えるのに、「山の手は『坂』で覚える、下町は『橋』で覚える」と云ったそうです。坂の景色も、水路の景色もともに美しいですね。

 

「今試みに東京の市街と水との審美的関係を考うるに、水は江戸時代より継続して今日においても東京の美観を保つ最も貴重なる要素となっている。陸路運輸の便を欠いていた江戸時代にあっては、天然の河流たる隅田川とこれに通ずる幾筋の運河とは、いうまでもなく江戸商業の生命であったが、それと共に都会の住民に対しては春秋四季の娯楽を与え、時に不朽の価値ある詩歌絵画をつくらしめた。」

永井荷風「日和下駄・第六『水』・大正4年(1915)」

 

永井荷風(明治12年・1879‐昭和34年・1959)が上記を発表するのは漱石の「春日偶成十首」の3年後、荷風と漱石は一回り違いの同じ「卯年」の同時代人です。私は荷風の「日和下駄」(No.8 まだ「孫文のいた頃」参照)が大好きで学生時代から愛読していましたが、この『水』というタイトルで「自然の川や運河」を語っているのが不思議でした。「水」という言葉は私にとっては、ほとんど、化学式で表す「H2O」のことでしたが、改めて、漱石の漢詩や荷風の随筆をみると、今回、なるほど明治期までは「水」一文字でも、そのような意味を持っていたのかと、ミョウな発見もして感動しました。

 

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