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国際交流・留学にすぐには役立ちそうにない教養講座㉚


ー世界に「日本が存在していてよかった」と思ってもらえる日本に…

 

No.30 立春まぢかき「孫文のいた頃」

 

1300年の昔、日本初の漢字(外国文字)を使用しての日本語文章表記・文体の発明の苦労を『古事記』において考えてきました。

 

「さてさて…太安万侶が目指したのは「叙事を描写できる日本語文章・文体」であったはずです。しかし、「叙事」になると、まだまだ「漢文・中国語」の文体に頼らざるを得ず、この「叙事の日本語表現」は、すでに上記「歌」部分で使用はしている「万葉仮名」ですが、その発展形である「仮名」の出現まで待たざるを得ず、「仮名」出現以降も、さらにまだまだ日本語表記の模索は続くのでした。次回は日本語表記において『古事記』の次の段階である『万葉集』について考えてみたいと思います。」

No.29 討ち入り過ぎても「孫文がいた頃」

 

ただ、ここで、同時期のほぼ似たような内容という印象の『日本書紀』はどうなんだろう…と思う方もいらっしゃるかと思います。この2つの書物を簡単に比較・整理しておきます。ただし、このコラムの現在の主題は上記「日本語文章表記・文体の発明」で、『日本書紀』は完全な漢文(外国語・唐代中国語)で表記されているのであくまでもこの2つの歴史書の整理です。古代ということもあり、調べれば調べるほど、いろいろな見解があるようで、『古事記』は偽書であるという説まであるようですが、一般的な概略は下記です。

 

『古事記』

編纂目的としては、天皇の正統性とその国家観(世界観)を、天皇側から諸豪族に対して、彼らの家系の正統性(家系真偽の精査)も含めて示す、啓蒙することで、歴史書とは言い難い面もあるようです。そのため漢語を自由に操った高級官僚ではない諸豪族にも理解できるように倭語に近い「変体漢文」で表し、エピソード的にも興味を持たせるように書かれています。例えば、第16代・仁徳天皇の「かまどの煙」の逸話は有名ですが、そのすぐ後に仁徳天皇の「色好み」と「皇后の嫉妬」の話が多くの歌謡をあげながらユーモラスに長く書かれています。また、その趣旨から、外交記録等は極めて少なく、神功皇后の新羅親征、と第15代・応仁天皇の御世に百済からの朝貢の逸話(『論語』『千字文』と王仁、朝鮮鍛冶、呉服織姫、酒杜氏・No.25 盛夏でも「孫文のいた頃参照)があるくらいです。第29代・欽明天皇の御世の「仏教伝来」すら記述がありません。ある意味プロパガンダ的な書物であったようです。

 

「したがって『古事記』には天皇の正統性が描かれ、それが天皇の世界を根拠づけるということにもなりうるが、それを皇別・神別などに組み込まれた氏族たちに追認と合意を要求するところに『古事記』の本性はある。したがって『古事記』は実用のために作られた。小書2行書きの氏祖表記は氏族の提訴や請求を再審査の上、書入れと削除をしやすい形式になっている。この小さな字のひしめきには氏族の生存をかけた念(おも)いがこもっている。そして期限を切って奏上された。だから世間に流布することのないはずであったが、それが誰かによって世の中に持ち出された。今われわれの前にある『古事記』である。」

中村啓信(1929‐)『古事記』解説・角川ソフィア文庫・2009年

 

『古事記』の最古写本(真福寺本)は意外に時代が新しい(1371年)のは上記に理由だったのかもしれません。ただ写本は40種類程はあるとのことです。そして「小書2行書きの氏祖表記」とは下記ですが、下の『古事記』の写真を参照してください。

 

 

天菩比命之子、建比良鳥命 (此出雲國造・无邪志國造・上菟上國造・下菟上國造・伊自牟國造・津嶋縣直・遠江國造等之祖也

天津日子根命 者(凡川內國造・額田部湯坐連・茨木國造・倭田中直・山代國造・馬來田國造・道尻岐閇國造・周芳國造・倭淹知造・高市縣主・蒲生稻寸・三枝部造等之祖也。)

 

この2柱の命(みこと)「天菩比命之子、建比良鳥命(あめのほひのみことの子、たけひらとりのみこと)」「天津日子根命(あまつひこねのみこと)」は、それに続く赤枠囲い「小書2行書き」に記された人達の祖(おや)であることを示し(氏祖表記)ています。

 

また国造(く にのみやつこ)とは世襲制の地方官・地方豪族、朝廷から任命されてその地方を統治。出雲、无邪志(むざし・武蔵国東部)、上菟上(かみつうなかみ・千葉県市原市辺り)、下菟上(しもつうなかみ・千葉県香取郡辺り)、伊自牟(いじむ・千葉県茂原辺り)津嶋(つしま・対馬)・遠江(とおとうみ・静岡県西部辺り)等は地名です。(以下、省略…興味のある方はネットで簡単に調べられます。)

 

『古事記』国宝 真福寺本‐国立国会図書館デジタルコレクション

 

『日本書紀』

一方、『日本書紀』は「歌謡」を除いては、完全な漢語で書かれ、書かれた目的は、朝鮮半島、大陸(唐王朝)に向けて、天皇の正統性を説き、それにより「日本国」の正統性を宣言した正史(国家主導の歴史書)です。もちろん、正当化等もいろいろあるようですが、ともかく、中国の歴史書である『漢書』、『後漢書』また『史記』や、文学書である『文選』等も参考にして書かれています。また天皇の勅命により成立の720年の翌年から平安時代にかけ繰り返し講義が行われ、日本国の「正史」として権威あるものとして位置付けられてきました。従って写本も最古の「田中本」が9世紀、その数も16世紀までに14種類あり、その内、国宝5点、重要文化財が5点あります。

 

『古事記』の最古写本と比べると雰囲気が全く違っていかにも「正史」という印象です。

日本書紀 巻第十残巻』国宝・田中本・9世紀 奈良国立博物館収蔵品データベース

 

『古事記』と『日本書紀』…多少ゴチャゴチャしたので、一般的な定説に基づいて簡単な対照表を作成して整理してみました。

 

さてこの同時代の『日本書紀』を無視するわけにもいかないので少しのつもりで触れてみたら長くなってしまいました。ただ『古事記』、『日本書紀』の「歴史的・社会的な意味、位置付け」について少し理解できたのはよかったと思います。

 

さて本題です。『古事記』において試みられた「日本語文章表記・文体の発明」について、前回、『No.29 討ち入り過ぎても「孫文がいた頃」』でみたように「叙事を描写できる日本語文章・文体」にまでは到達できなかったということでした。

 

(歌謡に反して)一方、散文にはまだ(文章構成法〈Composition〉・文体〈Style〉の)用意が出来ていなかった。勿論、言語であるからには「文法」を備えていなかったわけではない。表現、特に、書きことばとしての型、「コンポジション」を、当時の日本語は備えていなかったのだ。あとで述べるように骨格を備えるようになるのは、平安時代もかなり深まった頃になる。ここまで考えてくると、太安万侶の前に用意されていなかったものは、日本語の表記法だけではなくて、日本語の散文の型、散文の「コンポジション」でもあったということになる。」

小池清治(こいけせいじ・1941~)『日本語はいかにつくられたか?』1989年・筑摩書房

 

『万葉集』は「歌謡集」であり「歌謡」としての「コンポジション・構成・スタイル」を持っていたので成立することができました。ただここで考えたいのは、「日本語文章表記・文体の発明」についてです。しかし、それには、「仮名の発明」が必要なようで、そのためには、全て漢字を使用して表現された『万葉集』を考える必要があるようです。「日本語文章表記・文体の発明」までは道はまだまだ遠いように思われます。

 

さて『万葉集』です。基本情報を下記に整理してみました。

 

 

「漢字を使用した日本語表記」としてここで問題になるのは、私はいままで単純に『万葉集』=「万葉仮名」としか、理解していませんでしたが、改めて調べてみると、上記赤字部分、すでに「和訓」も多く使用されています。下記に7世紀の舒明天皇の歌(万葉集・2番)と、詠んだ日付が特定できる大伴家持の歌(万葉集・3983番)(天平19年・747)を例にあげ(音読み)と和訓読みをわけてみました。ちょうど100年程の時代の差がありますが、「音・訓」の使い分けは時代の問題ではないようです。No.29 討ち入り過ぎても「孫文がいた頃」の『八雲立つ』、日本最古とされている歌はすべて漢字の音読み使用でしたが。

 

 

 

この2つの詩をながめていると「万葉仮名使用」と「和訓使用」の使い分けや、またいつ、「國=くに」「嶋=しま」と訓まれ始めたのか?等(No.27 菊 咲くころも「孫文のいた頃」参照)、についても更に掘り下げたくなりますね。しかし、ここでは、我慢をして先を、「仮名の発明」へと急ぎます。ただ、家持の歌は詩の音の美意識から敢えて一文字一音の万葉仮名を使用したような気はしますが…。そして特に、家持は敢えて「無意味な漢字」を使用している歌は「仮名」までもう一息という気さえしてきます。

 

また、上記「万葉集」の表組の赤字「その他」ですが下記のようなエピソードもあったということです。

 

「こんな説話が伝えられている。梨壺の五人のひとり源順(911-983)は、万葉集の難訓の数々に苦しんで、それらが読み解けるようにと石山寺に参籠して観世音菩薩に祈誓した。その下向の道、「左右」の2文字の訓み方を案じつつ馬を進めていた彼は、すれ違う馬子の翁が馬の荷を両手で整えながら「までより」(〈真手・まで〉でせよ)と皆に号令するのを聞いて翻然としてそれを覚ったという(『石山寺縁起絵巻』第2巻)。片手(かたて)に対して左右両手を古くは真手(まで)と称したことから、万葉集に数多い「左右」がすべて「マデ」と訓めることに気づいたのである。「幾代左右二賀」(万葉集34番の部分)は、「幾代までにか」という和語の表記であった。同様に、「左右手」「二手」「諸手」なども「マデ」であった。」

大谷雅夫『万葉集』・解説1「万葉集を読むために」岩波文庫・2013年

 

我々が今現在、普通に和歌として読むことのできる「白波の 浜松が枝の 手向けくさ 幾代までにか 年の経ぬらむ」(現代語訳:白波の打ち寄せる、浜辺の松の枝に掛けられた手向けの幣は、どれほどの年が経ったものだろう)ですが、原文は「白浪乃濱松之枝乃手向草幾代左右二賀年乃經去良武」でした。それを10世紀頃、1000年以上も前に観世音菩薩の力まで借りて読み解いたということです。いやはや。今回、初めて、或いは、個人的にはようやく今頃になって、『万葉集』を「読み解く」ということについての「1000年の営々とした学者達の努力」に驚き、そして未だに議論が続いているということに、感心したのでした。

 

「万葉集は、古代日本語の歌を表記するにふさわしい文字をもたなかった。漢字だけを用いて歌を記さざるを得なかった万葉集は、千年の研究史を経ても、なお完全には読み解けていない歌集である。本書の作成に私たちは微力を尽くしたが、ここに示した歌の形、理解が絶対に正しいと限らないことは改めて言うまでもない。別に刊行する『原文・万葉集』と見比べて、漢字と和語との間をたえず往還しつつ、読者諸賢がこの古歌集を注意深く読み進めて下さることを期待したい。」

同上

 

西本願寺本『万葉集』巻1- 国立国会図書館デジタルコレクション

完本として最古、鎌倉時代後期13世紀末~14世紀初頭の書写と推定。全20冊の冊子本

 

さて、「日本語文章表記・文体の発明」に必須である「仮名」の発明、ドナルド・キーンが「仮名の出現が日本文化の確立を促した 最大の事件だ」(No.26 秋分間近でも「孫文のいた頃」参照)とまで言った「仮名の発明」がようやく見えてきました…。

 

そして、この「仮名の発明」により、大陸から、半島から…別の文化を歩きはじめたのでしょうか???…次回はその辺りから考えてみたいと思います。

 

以上

202312

 

追記:万葉の植物① 牧野富太郎と「あきのか」

『万葉集』に多くの植物が出てくることはしばしば言及されています。4500余首の中に植物を詠んだ歌は1700首程、詠まれた植物の種類は150余種類、全体の40%近くの歌に植物が詠まれているわけです。

 

最多は「萩」141首、次いで「梅」129首、「橘」68首、「桜」42首、「べに花」29首、「藤」27首、「なでしこ」26首、「卯の花」24首です。また150余種類の植物のうち、鑑賞的な花は50種類程で、その他は、食用(アワ、イネ、ヒエ等)、建材(ヒノキ、ケヤキ等)、薬用(クズ等)、衣料用(アサ等)、染料用(アカネ、ハゼ等)の植物だということです。

 

また「万葉植物園」と呼ばれる植物園は全国に70ヶ所以上もあるので、皆さんもどこかの「万葉植物園」には行かれたことがあるのではないでしょうか。因みに一番最初に出来た「万葉植物園」は奈良の春日大社にあり昭和7年(1932)の開園です。

 

さて、近代日本の植物学者、牧野富太郎(文久2年・1862‐昭和33年・1957)は、命名した植物が2500種以上(新種1000、新変種1500)という日本の植物分類学の権威で皆さんも名前はご存じかと思います。

 

94歳という長命で高齢まで活動をしていたので、同時代人と捉えにくいのですが、森鷗外や岡倉天心と同年です。孫文より4歳年長、宮崎滔天より9歳、南方熊楠よりも5歳年長です。その時代、明治の真っただ中「孫文がいた頃」に、彼は旧制小学校中退という学歴で、孜々として「植物」を研究していたことを想像すると、その時代にそんな人物もいたのかと、不思議な気持ちになります。ただ、一方それが明治時代の特徴でもあったということでしょう。封建制度・世襲制度が終わり明治になり、土佐(高知)の田舎の造り酒屋の息子が、植物学を志したのも、方向が異なっていただけで、やはり、「孫文がいた頃」の上記6名は、明治の英雄・同類項であるような気はします。

 

「社会のどういう階層の、どういう家の子でも、ある一定の資格をとるために必要な記憶力と根気さえあれば、博士にも、官吏にも、軍人にも、教師にも成り得た。そういう資格の取得者は常時少数であるにしても、他の大多数は自分もしくは自分の子がその気にさえなればいつでもなりうるという点で、権利を保留している豊かさがあった。」

司馬遼太郎『坂の上の雲』あとがき1・昭和44年・1969・文藝春秋

 

その牧野富太郎が晩年『万葉植物図譜』に取り組みますが、完成しませんでした。偶々、2022年、牧野富太郎生誕160年で、彼が残した『万葉植物図』、『万葉植物目録』、『万葉植物図譜原稿』という3つの資料を基に、牧野が企画していた『万葉植物図譜』全容の再現を目指した出版物が刊行されました。『牧野万葉植物図鑑』(原著・牧野富太郎、編集・邑田仁、田中純子、牧野一浡・北隆館・2022年)で、大変興味深い本です。

 

「本書では、『万葉集』に歌われた植物に関する牧野の文章をさまざまな文献から拾い出して各図の解説としたが、それらを読むと、牧野は万葉学者が唱えた従来の説に植物学者としての視点から反論を加え、また和名や漢名の使い方に疑問を呈し名称を正すことに力を入れていたことがわかる。そうした牧野の見解には、牧野が実地に基づいて日本の植物相を解明する研究と相まって、古い文献を渉猟し名称をはじめ植物に関する事柄を丹念に調べ上げてきた、その豊富な知の貯えが十二分に活かされている。両方の研究が分かちがたく一体となって奥深い牧野式植物が形成され、それが『万葉植物図譜』を編纂しようとする原動力になったのではないだろうか。」

『牧野万葉植物図鑑』・「牧野富太郎と万葉集」(田中純子・北隆館・2022年)

 

私も植物は大好きですが、我々が普通に使っている植物の和名の起源・変遷についてはあまり考えたことがありませんでした。(ただ…私は昆虫も大好きで、高校生の時、「古典」授業で、平安時代に「キリギリス」は「コオロギ」の事ですと学習したことが頭を過りましたが…)しかし1000年前に既に150種類の植物の「名前」があったわけです。勿論『万葉集』の中でも現在でも変わらない名前も多くありますが全く異なる名称もあります。以下はこの『牧野万葉植物図鑑』の中、牧野が実際に『万葉集』からピックアップした「万葉植物名」と「現行植物名」の対比表です。

 

すべて興味深いのですが、とりあえず「あきのか」について牧野説を追ってみたいと思います。

 

◆あきのか

詠芳    高松之 此峯迫尓 笠立而 盈盛有 秋香乃吉者

芳を詠みき       高松のこの峰も狭に笠立てて満ち盛りたる秋の香のよさ(10巻2233番)

高松山のこの峰も狭くなるほど、笠を立てて満ちあふれている秋の香りの良いことよ。

 

註:題詞の「芳」は香りの」意。「高松」は「高円(たかまど)」か。本居宣長は、昔は香りを愛でることは稀であったとして、この「芳」も「茸」の誤写だと説く(『玉勝間13・梅の香をよむ事』)が、今は「芳」の本文のままに「か」と訓んでおく。秋の山の中で笠を立てて広がるのは茸。特に香の高い松茸を詠うのであろう。」

『万葉集』岩波文庫・2014年第1刷

 

上記の註では少し、自信無さ気に「秋香」について説明していますが、本居宣長と牧野富太郎の視点からこの歌を解釈すれば、歌のタイトルは「茸・きのこ」で、歌の現代語訳・説明としては「高松山のこの峰も狭くなるほど、(松茸の)笠を立てて満ちあふれている〈松茸〉の良いことよ。」となるかと思います。

 

植物の名称1つとっても、古代の歌の解釈は難しく、そうなれば、国文学者だけではなく、植物学者、動物学者、民俗学者、歴史学者、社会学者、言語学者等の多くの専門家が必要なのでしょう。

 

白川静は『詩経』(全305篇、B.C.11世紀~B.C.7世紀の詩篇集)と『万葉集』とを比較して次のように述べています。

 

(『詩経』と『万葉集』は)同じく呪的な自然観から出発しながらも、わが国ではそこからほとんど無媒介的に叙景歌が成立した。呪的な自然はただちに生命的な自然として把握され、心象の投影としての観照の世界が生れた。中国では、(社会詩が基本であり)自然詩が成立するのは六朝(3~6世紀)以降のことである。西欧より遥かに早いとしても『万葉』との懸絶は大きい。両者の志向するところは、はじめからちがっていたのである。」

白川静『詩経』1970年・中公新書

 

次回の追記では上記『万葉植物目録』の赤傍線を引いた他の2つ、「あさがほ」と「いちし」についてふれたいと思います。

 

No.29 「討ち入り」過ぎても「孫文のいた頃」をみるlist-type-white

 

No.31 梅は咲いても「孫文のいた頃」をみるlist-type-white