次回日程

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国際交流・留学にすぐには役立ちそうにない教養講座⑤

ー世界に「日本が存在していてよかった」と思ってもらえる日本に…

 

 

No.5 続々「孫文のいた頃」

 

さて、前回、孫文についてもう少しお話をすることを予告しました。1897年(明治30年)8月、初めて日本に来た当時31歳であった孫文は、1925年(大正14年)312日、59歳、遺言の中のかの有名な「革命未だ成らず、同志なおすべからく努力すべし」(革命尚未成功、同志仍須努力)を残して、北京で肝臓ガンにより客死します。後に南京の中山陵に埋葬されますが、この中山陵が建立されるのは4年後の1929551日、故孫文のための外国来賓公祭に、日本からは犬養毅、頭山満、寺尾亨、宮崎滔天、萱野長知等、多くの日本人が出席したということです。

 

その死の数ヶ月前、1924年(大正13年)1128日、孫文は神戸の旧制神戸高等女学校講堂(現兵庫県庁)において有名な「大アジア主義」と題して講演をします。主催者は神戸商業会議所や新聞3社で、聴衆は3000名近くもいたといいいます。

 

前回も「当時の状況を上手に想像する」という事を話しましたが、司馬遼太郎はこのようにコメントしています。

「たとえば―いまとなれば信じがたいことだが―十九世紀のアジアにとって、白人というのは(とくに英国は)悪魔だったという共有の感情を外して、当時の歴史も人物も見ることができないのである。」

「この国のかたち」第2巻-13「孫文と日本」(文春文庫)

 

上記を意識した上での以下、孫文の「大アジア主義」から数節引用します。本来、中国語で語られ、100年程前の翻訳で、文言、漢字も難しいため、現代風に置きかえておきます。

 

「ヨーロッパ人はこの武力文化を以て人を圧迫する。これを中国の古語では「覇道」を行う、と言うのである。わが東洋においては従来、「覇道文化」を軽蔑し、この「覇道文化」に優った文化を有している。その文化の本質は「仁義道徳」である。「仁義道徳の文化」は人を感化するものであって、人を圧迫するものではない。また人に徳を抱かしめるものであって、人に畏れを抱かせるものではない。このような、人に徳を抱かせる文化を、わが中国の古語では「王道」という。」―中略―「覇道を行う国は、他国と外国の民族を圧迫するばかりでなく、自国及び自国内の民族をも同様に圧迫している。大アジア主義が王道を基礎とせねばならぬというのは、これらの不平等を撤廃するためである。米国の学者は「民族の解放に関する一切の運動を文化に反逆する」というが、吾々の主張する不平等排除の文化は、覇道に対抗する文化であり、民衆の平等と解放とを求める文化である。

日本民族は既に一面、欧米の文化の覇道を取入れると共に、他面、アジアの王道文化の本質を有している。今後、日本が世界の文化に対して、西洋覇道の「犬」となるか、或は東洋王道の「干城」となるかは、日本国民が慎重におえらびになればよいことです。

「孫文選集」より―社会思想社

 

日本民族既得到了欧美的霸道的文化,又有洲王道文化的本,从今以后於世界文化的前途,究竟是做西方霸道的犬,或是做方王道的干城,就在你日本国民去详审

《孙中山先生由上海过日本之言论》,广州、民智书局,一九二五年三月发行―百度より

 

特に、日本国民に発せられた、最後の2行は有名です。司馬遼太郎は「その後の日本がどうなったかについては、触れるまでもない。」(孫文と日本)とにべもありませんが…。

 

時に、かの1915年(大正4年)「対華21ヶ条要求」から10年近くの後、1919年(大正8年)の反日・抗日運動である「五・四運動」勃発から5年後のことです。

 

欧米列強とアジアが、極めて単純明解過ぎる二元論で定義されていますが、あくまでも「覇道」に傾きつつある日本への不満と軌道修正への願いを感じます。大雑把に言えば、「広くアジアの国は仁義道徳を尊ぶ国だ、日本よ!それを思い出してくれ!」ということで孫文の「大アジア主義」の趣旨はほとんど尽きていると思います。(やはり勝手な想像ですが、この演説前日に会ったという頭山満へ孫文はそのクレームをさんざん語ったのではないかと思います。何か結論めいた方策は出たのでしょうか…)

 

そして、この演説は何よりも、自分を、自分の理念を支援してくれた多くの個人としての日本人と、何人かの政府系人間に対して「自分と共有したはずの王道」を訴えています。これを読んだ感想としては、辛いものがありますね。孫文としては、日本こそ「王道国家」を期待した国であったのに…という、数々の美しい思い出と同時にまた無念な思いが入り交じる辛い気持ちあったでしょう。孫文自身が中国建国(革命)の理念を「王道(仁義道徳)」に置き、それがゆえに、日本において、当時、同じ建国理念を持っていた、彼が出会った多くの民間日本人や、政府系一部の人間が賛同し、その「王道による建国理念」を共有し、応援してきたわけです。

 

以下、孫文が亡くなる1925年(大正14年)318日の1ヶ月程前、病床を見舞った玄洋社の萱野長知の話を引用します。

 

萱野の話によれば、短時間の面会を許されて病室に入ると、孫文は萱野の顔をみるなり、「神戸で行った『大アジア主義』の講演は、日本人の心に響いたか。反響はどうか」と、しきりにきに気にしていたので、萱野は「あの演説はラジオでも放送されるし、新聞にもみんな書き立てられたので、日本の津々浦々まで、十分響き亘った」(『萱野長知・孫文関係資料集』久保田文次編、高知市民図書館、2001年)と答えたという。」

 日本の新聞各紙は、孫文の危篤を報じ、犬養毅、頭山満の談話を掲載するとともに、孫文を気高い思想家であり、根っからの革命の寵児、アジア民族が生んだ大政治家だと賞讃した。

譚璐美著「革命いまだ成らず・下巻」(新潮社2012年)

 

 

孫文が日本にいた1900年頃、日本においては本来「明治維新」が持っていたはずの「王道理念よる建国」は「藩閥政治」により崩れ、それを再構築しようとした「佐賀の乱」、「西南戦争」は失敗し、しかし、それを何とか復活させたい、と願っていた多くの民間人がいたように思います。孫文を支援した人達、宮崎滔天や頭山満等は、西南戦争・1877年(明治10年)で、いわゆる反乱士族側にたっていた人達です。後に首相になる犬養毅ですが、弱冠二十歳の慶応義塾の貧乏学生当時、西南戦争に、時の政府に批判的な「郵便報知新聞」の「従軍記者」として参加、「戦地直報」というタイトルで西南戦争の現場報告記事を連載、大評判になったと言います。

 

そして、連載も百三回を数えた「戦地直報」は万感の思いを込めて書いた。その原稿は、維新の英雄への弔文とも言える、こんな一文で締めくくられた。

 『兵を起こして以来、八ヶ月の久しきにわたり、地を略すること五洲の広きにわたる。武もまた多しと云う可し。英雄の末路、遂に方向を誤り、屍を原野に晒すといえども、戊辰の偉功国民誰か之を記せざらんや。嗚呼、吾輩は官軍凱旋の日に歌い、国家の旧功臣が死せるの日に悲しまざる可からず。― 九月二十五日 犬養毅記』

林新、堀川惠子著「狼の義-新犬養木堂伝」(角川書店2019年)

 

やはり孫文の話になるとどうしても、志ある多くの清朝からの留学生達が手本にしようとしたはずの「明治維新」まで遡らなくてはならなくなります。佐賀の乱や西南戦争は単に、明治維新によって特権身分を失った、不平士族の反乱と考える見方もありますが、「富国強兵・殖産興業」のための「日本の欧米化」(勿論、これはある意味大事なことではあるのですが)だけが先走り、その大本となる「国家成立の原理」をおざなりにした、しかも藩閥で政治をとっていた「政府への抗議」でもあったかとも思います。少なくとも、西郷隆盛や江藤新平の理念はそうであったでしょう。

 

次回は多くの清朝からの亡命者、留学生が手本にしようとした明治維新推進の核であった西郷隆盛を通して、もう少しこの「孫文がいた頃」のことについてお話したいと思います。

 

以上

2021年11月

 

追伸:

アジサイ寺として有名な、文京区白山5丁目の白山神社に長さ23メートル、高さ450センチ、幅780センチの、外見、なんの変哲もないただの石があります。しかしその見かけ上なんでもない、ただのその石のために、その後ろに立派な石碑が建てられており、その銘文には孫文肖像のレリーフと共に「孫文先生座石」とあります。

 

 

1983年(昭和57年)に建立されたこの碑文の由緒書きによると19105月中旬に孫文と宮崎滔天(一説には滔天の息子の龍介)が語り合った時に座った石であるとのことです。当時、確かに、孫文、宮崎はこの辺りに住んでいたようです。白山神社の氏子達によって建てられています。しかし、それにしても、いやはや、ただ、孫文が座ったという石のために、こんな碑を町内会で建てる国が日本以外にあるとは思えません‥‥

 

蛇足ながら、私であれば、町内会の賛同が得られるとは思いませんが、碑文にこんな詩を提案してみたい気もするのですが…。

 

かなしみ

あの青い空の波の音が聞こえるあたりに

何かとんでもないおとし物を

僕はしてきてしまったらしい

 

透明な過去の駅で

遺失物係の前に立ったら

僕は余計に悲しくなってしまった

谷川俊太郎『二十億光年の孤独』1952年

 

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