国際交流・留学にすぐには役立ちそうにない教養講座62
ー世界に「日本が存在していてよかった」と思ってもらえる日本に…
国際交流・留学にすぐには役立ちそうにない教養講座
No. 62 三五夜中新月色 二千里外故人心の「孫文のいた頃」
八月十五日夜、禁中独直対月憶元九 白居易
銀台金闕夕沈沈 独宿相思在翰林
三五夜中新月色 二千里外故人心
渚宮東面煙波冷 浴殿西頭鐘漏深
猶恐清光不同見 江陵卑湿足秋陰
八月十五日ノ夜、禁中ニ独直シ、月ニ対シテ元九(げんきゅう)ヲ憶フ
銀台、金闕、夕沈沈 独宿相思フテ翰林ニ在リ
三五夜中新月ノ色 二千里外故人ノ心
渚宮ノ東面、煙波冷ヤカ 浴殿ノ西頭、鐘漏深シ
猶ホ恐ル清光同ジク見ザランコトヲ 江陵ハ卑湿ニシテ秋陰、足(おほ)シ
【白居易・はくきょい】722-864 中唐の詩人、楽天は字(あざな)(詩における唐代を初唐618‐712年・盛唐713‐765年・中唐766‐835年・晩唐836‐907年)。杜甫、李白と異なり、官吏・政治家としても、晩年大臣になる等、実社会でも成功した詩人。上記「三五夜中新月ノ色 二千里外故人ノ心」の句は『和漢朗詠集』(1013年)にも採られている。
【語註】「禁中」:宮中。「独直」:独りでの宿直。
「元九」:元稹(げんじん・779‐831)、中国唐代中期の詩人・文人・宰相。字は微之(びし)。げんじん・779ー831)、中国唐代中期の詩人・文人・宰相。字は微之(びし)。元九とも。白居易の親友で、元白と並称される。白居易の親友で、元白と並称される。〈九〉は九人目の兄弟であることをあらわす「排行」(はいこう):中華圏における人名の呼び方、兄弟の長幼の順序に従ってつけられた番号を名前がわりに用いることをいう。字と同様に、諱を直接呼ぶことを避けた通称。この時元稹は宦官の怒りを買って湖北江陵に左遷されていた。
「銀台・金闕」:白銀づくりの楼台、黄金の宮殿。「夕沈沈」:日がおちて静まり返っている様子。「翰林」:翰林院、詔書を起草する役所。「三五夜」:(3x5)十五夜、陰暦8月15日。「外」:離れている。「渚宮」:江陵にある楚の宮殿。江陵は長江の下流。現在の荊州。唐の時代は荊州の州役所が置かれ、要衝の地だった。「浴殿」:翰林院のそばにあった浴堂殿。「頭」:その辺り(街頭・店頭)。「鐘漏」:時を告げる鐘、水時計のしたたり落ちる音。「江陵」:湖北省江陵県。荊州。「卑湿」:土地が低く湿気が多い。「秋陰」:秋空が曇っている。「足」:とても多い。
【大意】『八月十五日に宮中でひとり宿直をしていた時、月を見て親友・元九を憶う』
豪華できらびやかな宮殿で夜はしずかに更けていく。私はひとり翰林院に宿直(とのい)して君のことを憶っている。
十五夜の空にのぼった美しい月の色、二千里も彼方の君はこの月同じ月をどんな思いで見ているのだろう。
君のいる渚宮の東では霧に煙る川波も冷たかろう、私のいる湯殿の西側では時を告げる鐘の音が響いている。
或いは、もしかするとこの十五夜の美しい月を君は見ていないかもしれない。君のいる江陵はじめじめとした低地で、秋も曇り空が多いと聞くから。
天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも 安倍仲麻呂
【阿倍仲麻呂・あべのなかまろ】698‐770 若くして優れた学才を現し、19歳の時に遣唐使・留学生として唐に渡る。玄宗皇帝に仕え、李白や王維らの著名詩人とも交流、仲麻呂が51歳の時、宗皇帝に帰国を願い出て帰路に着くが、船が難破し安南(現ベトナム)に漂着、以降再び長安に帰り、唐の地で客死。この歌は諸説あるが753年、明州(蘇州とも)での送別会での作品とされている。
【大意】大空に今見えるあの月は、故郷の三笠山の上の月と同じ月なのだな。『古今集』にも、『和漢朗詠集』にも『百人一首』にもある。古今集の詞書では「もろこしにて月を見てよみける、安倍仲磨」とある。
白居易の詩『八月十五日夜、禁中独直対月憶元九』は月を見て親友を想い出し、阿倍仲麻呂の歌は月を見て奈良・平城京を想い出す望郷の歌です。太陽でも同じようなもののはずですが、太陽は直視できないから月が媒介されることが多いのかとも思います。鑑真和上ゆかりの「山川異域・風月同天」も阿倍仲麻呂が唐に渡る717年「第9次遣唐使」で長屋王より献上された袈裟に刺繍された文言でした。(No.17「孫文のいた頃」追記参照)

左:月岡芳年(1839‐1892)『月百姿』(明治18・1885年)より(芳年『月百姿』東京堂出版・2010)
右:葛飾北斎(1760-1894)『百人一首姥かゑとき・姥が絵解』(天保6・1834年)より
『月百姿』(つきのひゃくし)は、月岡芳年が明治18年・1885年から明治25年・1892][4]、47‐54歳の時に発表した浮世絵の連作。月をテーマとした全100点揃物の大判錦絵、延べ8年を掛けて完結し、1892年(明治25年)6月の芳年の死の直後に100作品に目録と序文を添えた画帖が発売された。芳年の最後の大作、代表作の一つと評価されている。本作における画号は大蘇芳年。そして上記は『月百姿』の中、タイトルもそのまま「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」でそのままのわかりやすい構図になっています。
▶江戸錦絵について
今までも広重の『江戸名所百景』等、しばしば「江戸錦絵」について言及してきました。No.57「孫文のいた頃」参照。しかしながら、作品自体はともかく、その作品が具体的にどのように作成され、普及していった、ということについては、調べてみると現代の出版感覚とはかなり異なるので、ここで整理しておきます。
【錦絵】江戸時代中期に確立した多色刷りの木版画。版元、絵師、彫師、摺師4者の分業により完成。「版元」は出版社に相当、「絵師」は当然原画を描く、広重なり北斎なりで「彫師」は色刷りの場合、何枚もの木版を彫る担当者です。
【摺師】これが現代に印刷に当たり、現代の感覚とは違うところです。摺師が1日に摺る分量を“一杯”と呼び、普通200枚前後とされています。売れ行きがよく、追加注文を受ければ二杯、三杯・・・と版を重ねました。『浮世絵鑑賞事典』(高橋克彦著・講談社)には「十杯(2,000枚)も売れれば評判の良かった部類」で「歌川広重の東海道の連作(「東海道五十三次」)は、爆発的な好評により、作によっては五十杯(10,000枚)以上も摺ったと伝えられる」とあります。
『浮世絵の鑑賞基礎知識』(小林忠・大久保純一著・至文堂)では、一番数多く売られた(摺られた)浮世絵は、絵柄の山の稜線が消えるほど版木が摩耗していることから「葛飾北斎の『赤富士』(「富嶽三十六景凱風快晴」)ではないか」と推測されています。また、『図説浮世絵入門』(稲垣進一編・河出書房新社)によると「売れ筋の商品は最初から200枚以上の見込み生産をする」こともあったようです。
一般に「初摺」といわれる最初の一杯(200枚)は絵師の指示通りに摺られますが、追加注文の「後摺」は、摺師の一存に任せる習わしがありました。「後摺」では、急ぎの場合はぼかしや版を少なくしたり、色味に絵師よりも摺師の感覚が出てしまうこともあったようです。(「江戸東京博物館」HP参照)
▶『月百姿』の例
つまり、『月百姿』の100図は、最初から一冊の本として木版で刷られたのではなく、1885年から1892年にかけて、一枚物の大判錦絵として順次刊行され、(それをファンであればもれなく買い集めたり、或いは偶々気に入った画だからと買う人が居たり…)そして芳年没後、それらをまとめて「画帖」(一冊の本)として扱う形が現れたということになります。その「まとめ方」が現代の「フルカラー印刷豪華本」のようなものとはかなり異なるようです。
『月百姿』は、一枚ずつ刊行された大判錦絵100枚を、最後に「折本(おりほん)」形式(100枚をジャバラ形式で繋ぐ)の画帖としてまとめたもののようです。つまり、現代の画集のように、100ページを印刷して、紙を折って、綴じて製本した、というものではなく、まず、一枚物として発表、各作品はおよそ 縦36cm × 横25cm の大判錦絵として、多色木版で一枚ずつ刷られ、版元の「滑稽堂・秋山武右衛門」から順次発売され、そして、100図が揃った段階で、それらを「折本・折帖・蛇腹形式」で1冊にまとめ画帖としたようです。また気になるのは販売価格です。以下に表にまとめてみました。
現代の感覚だと、版元、絵師、彫師、摺師4者の賃金がかなり安いような気はします。
あまり脱線してもしょうがないのですが、ちょっと別の方向から計算してみます。錦絵の購買層が江戸一般庶民であったとして、調べると当時(文化・文政期・1818-1830年)の棒手振り(魚・野菜行商)等:日収 約400文、大工・左官等の熟練職人:日収 約500‐540文、とあります。これら超大雑把な概算で下記のように考えられるかと思います。
・想定購買層:江戸都市部の町人・職人などの庶民層
・月収:日収約400~500文、月20~25日程度の稼働と仮定し、約8,000~12,000文程度(超概算)
・錦絵一枚:約20文=月収の約0.2%前後
現在、勤め人の月収35万円の0.2%だと7000円くらい。まあ、とんでもない数字でもないようには思います。
さて、作品としての『月百姿』にもどします。私は絵としては、北斎、広重程の方が好みではあるのですが、その「画題・題材」100の選択にビックリします。江戸人が好きだった、和漢の「名エピソード」が採られています。もっとも江戸期には『百人一首』1つとっても、詳細は省きますが「異種百人一首」と称され以下全て江戸末ですが『秀雅百人一首・1848年』、『続英雄百人一首1894年』、『新編歌俳百人撰・1894年』、『義烈百人一首・1850年』、『畸人百人一首・1852年』等々が刊行され、さまざまな人物・故事・逸話が日常に溢れていたようです。よく江戸末の庶民の識字率の高さが言われますが、まことそうのような文化背景で、画集も成立したのでしょう。
「芳年の生きた時代は、まさに、幕末から明治へと大きな変革のあった激動の時代であった。彼の浮世絵師としての画業もまた、時代とともに変化を見せた。師の歌川国芳(うたがわくによし、寛政9年・1798-文久元年・1861、)江戸時代末期の浮世絵師。を追随する豪快な武者絵に始まり、上野の彰義隊と官軍の戦いを描いた慶応四年(1868)の「魁題百撰相」では写生的な描写を試み、明治十年(1877)には勃発した西南戦争の戦闘画を手掛け、同年からの「大日本名将鑑」においては洋風の明暗描写を摂取した画風を見せた。新しい描線を用いて新題材に取り組み、次々と新様式に挑んで明治の浮世絵を形成した芳年であった。最後の大作となった「月百姿」(明治18年・1885・46歳、53歳没)は江戸の浮世絵とは異なる印象を受けるが、題材を検討し、芳年のイメージの源泉を探ると、そこには消えていこうとしていた江戸の浮世絵に対する芳年の追慕の念と慈しみが浮かび上がってくる。「月百姿」には、最後の浮世絵師であった芳年の新時代を開く努力と江戸の浮世絵への回帰という二つのべクトルが止揚されているのではなかろうか。」
月岡芳年『月百姿』(明治18・1885年)解説(岩切友里子)より(芳年『月百姿』東京堂出版・2010)
上記、『月百姿』明治18年刊行時、夏目漱石(慶応3年・1867-大正5年・1916)は18歳、「浄土真宗・歎異抄」を西洋哲学視点で再解釈した天才哲学者・清沢満之(文久3年・1863‐明治36年1903)は22歳です。彼は『歎異抄』だけではなく『義士銘々伝」』が座右の書であったということです。(No.18「孫文のいた頃」参照)
さて北斎の『百人一首姥かゑとき・姥が絵解』です。唐の明州で詠まれたという歌ですが、何と、阿倍仲麻呂は和装で、しかも「月」は空にはなく海に映っています。
「『百人一首姥がゑとき』はそのタイトルが示すとおり、おそらくは姥(乳母)が子どもにわかりやすく説明するように、知識の豊富な老女が百人一首を説くように解説するといった意味で、和歌の意味を絵でわかりやすく見せるというところに、当初の版元の企画の趣旨があったものと思われます。ところがこれから見ていただくように、北斎の絵は難解で、実際に絵の解釈についてこれまでにわかっていることはごく僅かです。和歌の一部の言葉をきっかけに、当世風俗で描いて機智的な表現を展開させていたり、また有職故実の知識を生かした古典風俗で描いていたり、その和歌へのアプローチは実に様々であるようで、何か方程式に当てはめれば解けるというような単純なものでもないようです。ほとんど関係がないように見える絵もありますが、これにも何かトリックが隠されているのでしょうか。本書では、今後の研究のためにも可能性のある解釈は、あまり躊躇せずに書くことにしましたが、江戸時代当時であっても、とても一般的に理解された内容とは思えません。」
解説・田辺昌子『葛飾北斎・百人一首姥がゑとき』二玄社・2011年
北斎74歳の時の作品ですが、解説者も匙を投げている状態です。この絵についての解説は下記です。
「帰国の航海を諦めざるを得なかったその口惜しい思い、故郷の奈良三笠山の月と重ねて故郷を懐かしむ思い、船と海面に映る月は仲磨の切ない心情を思わせます。残されている本図の下絵の段階では、月が空に描かれていることが確認されるのですが、最終的に海面に奥ゆかしく映る月として表したのも、仲磨の視線の中に船と月を収めてその心情を表したかったからではないでしょうか。」(同上)
そもそも『百人一首姥かゑとき・姥が絵解』というタイトルが人を喰っています。「絵解き」とは、本来、文字が読めない人に、絵でわかりやすく、説明するものです。それを題名はそのまま…敢えて「謎解き」に変えています。このシリーズは27首で終わっているのですが全て、オリジナルの歌を敢えて外した絵になっています。想像するに北斎のファンは、競ってこの「謎解き」を口角泡を飛ばして酒の肴にしていたように思います。そして北斎の狙いもそこにあったことでしょう。
さて、私の解釈の番です。素人は責任がないから楽です…。
百人一首の「歌」のままであれば、本来、「唐衣」のはずの阿倍仲麻呂が「和装」です。そして、本来、明州(蘇州)の空にある月を眺めながら、その同じであろう月によって、三笠山の月を想い出しているはずです。しかし、天空に月を見ているはずなのに、「海に映る月」を見つめています。在唐50年以上、そもそも天才の彼が見つめていたのは、まあ…このようなチョット感傷的な歌は詠んでみたけれど…現実的に見つめる先にあるのは、故郷へ帰る「船」(敢えてかなりショボい)であり、強いて言えば、手に取ることの可能性(取れないけど…)のある海に映る「現実的な月」だったような気はします。そして何よりも「在唐50年」であっても…望郷の思いを表す「和装」だったのでしょうか。そして旗を見ると海からの逆風でもありますね。
さて、飯島虚心(いいじまきょしん・天保12年・1841-明治34年・1901)『葛飾北斎伝』にはこうあります。
「嘉永二年(1849)、翁病に罹り、医薬効あらず。是よりさき医師、窃(ひそか)に娘、阿栄に謂て曰く、「老病なり、医すべからず」と。門人および旧友等来りて、看護日々怠りなし。翁死に臨上み、大息し《天我をして十年の命を長ふせしめば》といひ、暫くして更に謂て曰く、「天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし」と、言訖(おわ)りて死す。実に四月十八日なり。歳九十。浅草の誓教寺に葬る。翁の死するや、門人および旧友等、各出金 して、葬式の礼を行ひたり。棺槨などは、粗製のものな りしが、見送りの人々の中には、鎗、挟箱など、もたせたる士もありて、凡百人程にて、誓教寺へ赴きたり。古来裏店より鎗箱など持せて、見送りし葬礼は、嘗(かつて)これなきことゝて、近隣の者共、大に羨みたり。」
飯島虚心『葛飾北斎伝』鈴木重三 校注(岩波文庫・1999年)
臨終に際して、初め、あと10年あれば…次いでいや5年あれば…真正画工になれると
と言い直しているのが、何とも本気で言っているようで、興味深いです。
この浅草の「瑞亀山 誓教寺・ずいきざん せいきょうじ」に北斎の墓は今もあり、その墓石の右側に「辞世」として次の句が刻まれているとのことです。
悲と魂で ゆくきさんじや 夏の原 行年九十
(人魂で 行く気散じや 夏の原)
「人魂になったからフラフラと夏の原っぱに気晴らしに行こう」程の意味でしょうか。
まあ、たいしたものです。近い内に墓参りに行ってみたいと思っています。
「倣和漢朗詠集」
◆これまでの流れと復習
文化によって異なる「時間観」…他文化のそれと比較しながら「日本の時間観」について1年半以上考えてきました。そしてここ数回は「言語に表れた時間観」を考えてきました。中学生以降…英語やらドイツ語やらフランス語やらを学習してきましたが、何も解かっちゃいなかった…と、今更ながらにチョット気付いたのでした。
その過程で登場してきたのが、当然のことながら、文化によって異なる「文法」でした。「語順(主語・述語)」「時制」…中学生?或いは、小学生の頃より学習してきた…おそらく、明治期「孫文のいた頃」に「ヨーロッパ語文法」を「手本」として開発・説明された「日本語文法」は、先生方もその理解は難しかったのではないでしょうか……当時、私はよくわからず、理屈っぽい性格でありながら、「文法」はあまり好きにはなれませんでした。そして残念ながら、学校教育では未だに、そのヨーロッパ語文法に沿った路線で「日本語文法」を教えられているようではありますが…。
さて、前回は文法における時間観として「時制・“Tense”」と「相・“Aspect”」という考え方から、「日本語は、近代ヨーロッパ言語のような客観的・線分的な《過去・現在・未来》時間観(時制)ではなく、《記憶・認識における時間的な距離と状態》(相)によって時間を表現する。」という結論に達したのでした。念のため、簡単に整理した表を再度あげておきます。
「時制・”Tense”」:出来事を「客観的線分的時間軸上」の〈何時・いつ〉のどこに置くか?(「過去・現在・未来」という客観的時間位置)
「相・“Aspect”」:出来事を「話者・主体」からどう見るか、どういう状態であるか?(「進行中・継続・未完了」という見方)
・近代ヨーロッパ語 ➡ 時制中心
・スラヴ(ロシア)語 ➡ 時制と “Aspect” の両立( “Aspect” 優位)
・中国語 ➡ “Aspect” 中心
・日本語 ➡ “Aspect” 中心(助動詞・補助動詞・テイル形など)
【註】「テイル形」:文法用語(~ている形)は、動作の進行、結果の残存、経験、反事実など、文脈に応じて多様な意味を表す日本語の ”Aspect” 形。非過去・過去の両方で使われ、文脈に応じて意味が変化する。(雨が降っている)(扉が閉まっている)等々。
さて、今回は「現代日本語」における、もう少し広く「文法・構文」という観点から「日本の時間観」…「日本とは何か?」について考えていきたいと思います。これまでも少しふれてはきましたが、一見「時間観」からは離れているようですが、実はそうでもないのではと思っています。後にそれが何らかの結びつきを持つ気はするのですが、今は不確かです。ただ、余りにも重要な「言語構造・文法」(或る意味当然ながら、下記、言語学者の池上嘉彦(1939‐)によれば「世界理解の方法」)を、「時間観」からだけではなく、もう少し広い範囲から考えてみたいと思っています。
さて、下記は「世界についての認識・理解」を「言語」の観点からコメントしたものです。
「人間の場合は状況は違う。そこでも他の生物と同じ本能によって支えられた世界はある。しかし,人間の場合はそれにとどまらない。新しい事態に出会い、それを主体的な思考を通して意味づけし,適切に反応する 一 こういう経験を通じて、人間は本能的な刺激反応を超えたレベルでもうーつの分節された世界を創り上げて行く。(それぞれの文化によって異なる言語が発達する。)その分節の項目の重要なものには言語によるラベルが与えられ、そうなればそれは文化的遺産として伝えられるものとなる。ある言語を身につけることによって、「ある一つの意味づけの体系を身につける」ということになるわけである。人間の場合、本能という、他の動物と同じいわば自然のレベルでの環境世界の他に、もう一つ、人間自身が自らの周囲との関わりを通じて構築した文化のレベルでの環境世界に住んでいるわけである。
言語によって支えられた意味づけの体系も本能に支えられた意味づけの仕組みと同じように、人間を強く支配する。あるものやことに出会った場合、例えばこれは「アブラ」というものであるとか、「ジシン」ということであるというように言語を念頭に置いてよく判断する。これは、文化的な意味づけの体系の中でのそのものやことの位置づけが確認されたということである。それが出来れば、そのものやことに対する文化的に適切とされる反応の仕方が何であるかということも、おのずから明らかになる。われわれの「分かる」という意識は,「分けられる」ということ、つまり、分類体系の中の適当な位置に振り分けられるということと深く結びついている。」(下記、訳者解説より)
George Lakoff (ジョージ・レイコフ・1941-)『認知意味論』池上嘉彦・他訳(紀伊国屋書店・1993年)
それでは改めて❶「文法・言語構造」について、と次いで、特に時間観に直接かかわる、この➋「相・“Aspect”:出来事を「話者・主体」からどう見るか、どういう状態であるか?(「進行中・継続・未完了」という見方)」とについて、もう少し掘り下げたいと思います。これらの表現は正しく日本的時間観を象徴しているように思えます。
❶「文法・言語構造」から考える
◆「日本語」と「その英語訳」による構文の対比
▶日本語「ある・行為者がいない」と英語「する・行為者から始まる」について
「日本語はある状況を、自動詞中心の《何かがそこにある・自然にそうなる》という、存在や状態変化の文として表現する。一方、英語は同じ状況を、《誰が何かをする》という意味の、他動詞を挟んだSVO(主語―他動詞―目的語)構文で示す。人間の行為を積極的に表現する傾向が強いことを指摘した。」
金谷武洋(かなやたけひろ・1951‐)『日本語と西欧語ー主語の由来を探る』講談社学術文庫(2019年)
上記の論証として金谷武洋は「助詞・が」を例にあげて下記のような日英の対比をあげています。

「英語の例文は、ことごとく他動詞を使った積極的行為文(する文)となっている。いわゆるSVO構文だ。すべての文で〈(I・私)〉は〈主語〉であり、様々な行為の動作主として表現されている。これに対して日本語の様子はまるで異なっている。まず、大抵の場合、〈私〉はそもそも登場しない。表現されたとしても、せいぜい〈私は/私には〉と、主語ではなく主題(トピック)で現れるにすぎない。トピック(topic)の語源はギリシャ語の〈topos〉で、〈人〉ではなく〈場所〉である。つまり、あの人がある出来事に関わっている、ある人を通じてこれこれのコトが出来(しゅったい)する、ということにすぎない。行為文である英語とは正反対に、日本語で重要な役割を演じるのは格助詞〈が〉で示される名詞だ。しかし、英語とは対照的に、これらの単語は行為者ではない。それは上図の例文を見ていただければ一目瞭然だろう。二つの言語におけるそれぞれの共通部分が、英語は主語の〈I・私〉であり、日本語は格助詞の〈が〉であるのは興味深い事実だ。〈が〉が付いた言葉は、英語の方では直接目的語となっていることが多く、そちらはSVO他動詞文が中心だ。だが、日本語ではどれひとつとして他動詞文ではない。つまり積極的な行為者がこちらには存在しない。述語は〈ほしい/見たい〉のように形容詞文だったり、〈好きだ/嫌いだ〉のように名詞文(形容動詞文)だったり、それ以外では自動詞文となっている。〈は/が〉が主語を表す助詞である、などという学校文法は大嘘であることがこれで分かるはずだ。日本語では、英語のように〈誰かが(意図的に)どうする〉ではなくて、〈何かが(自然に)どうなる/どうである〉という言い方となるのは、こうした日英語の発想の違いの当然の結果である。〈ドアが閉まります〉のように、自動詞文なら話し手と聞き手の間に亀裂は生じない。英語における主語、つまり行為者が日本文からは消えてしまうからだ。両言語間の、何という対照的な発想だろうか。まさに〈天と地〉の違いと言うべきだろう。」(同上)
▶【名詞文 or 形容動詞文】:「この街が好きだ。」の述語解釈
上記の表で、金谷武洋は「この街が好きだ。」を名詞文と説明しています。しかしここは、文法論上、議論の分かれるところのようです。「好き」を「名詞」と捉えれば、「好き(名詞)+だ(断定の助動詞)」となり、名詞文と解釈できます。一方、学校文法では「好きだ」を「形容動詞」として捉え、形容動詞文とします。
どちらの解釈を採るにしても興味深いのは、英語の “like” は当然ながら「動詞」であり、英語では「好む」という動作・関係を「動詞」で表すのに対し、日本語では「好き」という「状態・性質」を表す語を述語にする、という違いです。
【述語】:どうする・どんなだ・なんだ・ある(いる・ない)を意味する言葉。述語は文末にあり、主語をくわしく説明するのが特徴。【述語の一覧例】:「歩く・走る・見る」などの動詞、「きれいだ・静かだ・にぎやかだ」などの形容動詞、「美しい・美味しい・大きい」などの形容詞、「新聞記者だ・小学生だ・本だ」などの名詞+助動詞。(wordrabbitのHPより)
なお、さらに一歩踏み込むなら、「好き」は本当に「名詞」なのか、それとも「形容動詞」の語幹なのかという問題は、単なる「品詞分類」ということではなく、実は、欧米語と対比して、日本語において「状態」をどのように述語化するかという、極めて興味深い問題だと思います。つまり、世界を〈行為〉として捉えるのか、〈状態〉として捉えるのか?という問題でもあると思います。ただ残念ながら、能力的に今の私にこれ以上の踏み込みはできないのですが…。
▶川端康成『雪国』の冒頭とその英訳の対比
さて、上記のような単純な文章ではなく、文学作品を題材にこの「行為↔状態」の問題をとりあげてみましょう。現在ではこの川端康成(1899-1972)『雪国』の冒頭とその英訳比較は大変有名であり、さまざまな人が取り上げているようですが、金谷武洋は下記のように語ります。
「二つの言語を比べる時に、翻訳の状況を観察するのは効果的方法である。とりわけ、翻訳者がひとつの同じ状況を、直訳ではなく〈わざわざ〉原文の構造を意図的に変えて、自分の母語に訳す場合が注目に値する。もちろんこれは訳者の意図的な操作だが、そうする最大の理由は〈直訳すると悪文になるから〉である。つまり、現実を言語化する際に二つの言葉の間に認知的な違いが生まれる状況下では、優秀で良心的な翻訳者ほど直訳でなく〈意訳する〉傾向が強い。」(同上)
先ずこの有名な『雪国』冒頭のオリジナルと英訳を文法的に分析してみました。

「緑点線囲い」は省略されているものの文脈補完。

翻訳はサイデンステッカー(Edward George Seidensticker・1921‐2007)日本文学作品の翻訳を通して、日本の文化を広く紹介したアメリカ合衆国の日本学者・翻訳家。
英訳された『雪国』等で日本人初のノーベル文学賞を受賞した川端康成は、日本語で書いた自作が世界で読まれ評価されたのは訳者であるサイデンステッカーの貢献が大きいとし、「ノーベル賞の半分は、サイデンステッカー教授のものだ」と賞金を半分渡し、また、川端からストックホルムでの授賞式への同行を依頼され同席した。
▶状況描写における「静寂」と「動性」
明らかに、川端康成の原文が「静寂」を感じさせるのに対して、英訳は「動的」です。この文芸作品においても、金谷武洋が「助詞・が」の短い例文とその英語との対比について述べたことと、同様の「発想の違い」が現れているように思います。
「日本語では、英語のように〈誰かが(意図的に)どうする〉ではなくて、〈何かが(自然に)どうなる/どうである〉という言い方となるのは、こうした日英語の発想の違いの当然の結果である。」(同上)
もちろん、『雪国』のこの一文だけから日欧の時間観の違いを直接導き出すことはできません。しかし、ここに見られる「出来事の捉え方」の違いは、それぞれの文化における時間の捉え方とも、どこかで繋がっているのではないでしょうか。
川端康成の原文では、出来事は必ずしも「どこかへ向かう運動」として提示されません。むしろ、その瞬間に現れてくる風景・状態が、次々と「今」として立ち現れてきます。これに対して英訳では、敢えて本来存在しない「The train」という主体をまず置き、「came out」という運動によって出来事が展開していきます。
この違いを「時間観」という観点から眺めれば、どこか特定の終点へ向かうというよりも、「今」が次々と継起してゆく日本的な時間感覚と、始点から終点へと方向性をもって進む近代欧米的な線分的時間観との差を、そこに重ねて見ることもできるように思います。(これを「時間観」の観点から見れば、日本的時間観-どこに向かっているわけでもない、「始まりも終わりもない直線的時間観」と常に方向性をもって動いている近代欧米的時間観、即ち「始まりと終わりがある線分的時間観」の「差」であるとも感じるのですが、少し無理があるかもしれません…。)
そして、これは、日本文化における時間の特徴を「今の継起」と捉えた加藤周一の議論とも呼応します。
「現在の出来事の意味は、自己完結的で、それを理解するために、必ずしも過去や未来の出来事を参照する必要はない。」加藤周一『日本文化における時間と空間』(No.61「孫文のいた頃」)
さて、今回は「文法・言語構造」そのものから、そこに現れる日本語の「静的なもの」について考えてきました。そして、それはどうやら、これまで考えてきた「日本的時間観」とも繋がっているように思われます。
次回は、さらに直接「時間観」にかかわる問題として、➋「相・Aspect」――出来事を「話者・主体」からどのように見るのか、また、その出来事をどのような状態として捉えるのか――という問題、とりわけ「進行・継続・未完了」という見方について、もう少し掘り下げてみたいと思います。
以上
2026年8月
