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国際交流・留学にすぐには役立ちそうにない教養講座61


ー世界に「日本が存在していてよかった」と思ってもらえる日本に…


国際交流・留学にすぐには役立ちそうにない教養講座

 

No. 61 過香積寺の「孫文のいた頃」

 

過香積寺  王維

不知香積寺 数里入雲峰

古木無人徑 深山何処鐘

泉声咽危石 日色冷青松

薄暮空潭曲 安禅制毒龍

 

香積寺ヲ過ギル

知ラズ、香積寺 数里、雲峰ニ入ル

古木、人徑無ク 深山、何処ノ鐘ゾ                       

泉声、危石ニ咽ビ 日色、青松ニ冷ヤヤカナリ

薄暮、空潭ノ曲 安禅、毒龍ヲ制ス

 

【王維・おうい699-759 盛唐の詩人・官僚。字は摩詰(まきつ)。官職は尚書右丞で王右丞(おうゆうじょう)とも呼ばれる。同時代の詩人李白が「詩仙」、杜甫が「詩聖」と呼ばれるのに対し、仏教徒であったこともあり「詩仏」と呼ばれ、南朝より続く自然詩を大成させた。(Wikipedia)No.34「孫文のいた頃」参照。

【語註】「香積寺・こうしゃくじ」:長安の南、終南山の山中に会った名刹。「泉声」:泉から湧き出る水音。「危石」:そそり立つ石。「薄暮」:薄闇せまる暮。「空潭」:人気(ひとけ)のない潭(ふち)「曲」:渓流の湾曲した所。「安禅」:一心に座禅を行うこと。「安禅不必須山水 滅却心頭火自涼」(安禅必ズシモ山水ヲ須イズ、心頭滅却スレバ火モ自ズカラ涼シ)『碧巌録』

【大意】『香積寺を過ぎる』香積寺がどこにあるのか、知らないまま雲のわく山に分け入った。古木や人の歩けるような道も無い中、どこかの寺の鐘が鳴る。泉から流れ出る水音は切り立った岩にぶつかり音をたてて流れ、日の光りは松を冷ややかに照らしている。夕暮れに、人気(ひとけ)のない渓流のほとりで、座禅をする人(王維自身?)は、淵に潜む(心の中の)毒気を持った龍を制している。

 

さて、このコラムでは毎回、長過ぎる「Epigraph・エピグラフ」(巻頭詩)を、基本、「季節を意識して」掲げています。そしてこの「エピグラフ」を「倣和漢朗詠集」(倣う:真似する、お手本にする)と説明しています。構成的には、HSKの国際交流委員会のコラムらしく、「和漢朗詠集」に倣って、漢詩とそれに私が勝手に合わせた日本の詩を添えています。前回は「袁枚と水原秋櫻子」、その前は「袁枚と袁中郎と山崎宗鑑」でした。個人的にこの「組み合わせ」を考えるのは、大変なのですが、楽しいものでもあります。

 

今回は、季節柄、夏らしい詩を撰びたく思い、しかし袁枚が続いたので、古典的(袁枚と比較すれば)な詩をと思い、王維の『香積寺ヲ過ギル』を撰んでみました。ただこの詩が「夏」の詩であるかどうか…私の印象として、深山に入って、渓流や青松が涼し気な感じがするのですが、あまり自信はありません。そして、第一印象、私の好きな「絵画的・聴覚的」な、王維らしい詩だと思ったのですが、読んでいるとどうも別の印象が湧いてきます。

 

王維は、そもそも、その母の崔氏が、著名な禅僧の普寂(ふじゃく・651739)に師事していた敬虔な仏教徒でした。そのため、上記註でも言及していますが、王維の「字・あざな」が「摩詰・まきつ」になったようです。そもそも「名」を「維」とした時点で、すでに『維摩経・ゆいまきょう』が意識されていたのでしょう。名前の「維」と「字」を繋げると「維摩詰・ゆいまきつ」となります。『維摩経』の主人公である「維摩居士・菩薩」(維摩詰はサンスクリット語の《Vimala-kīrti・ヴィマラ・キールティ》の音写)です。維摩居士にあやかるべく付けられた「名」であり「字」でしょう。「字」の付け方も色々と慣例があったようですが、ここではこれ以上立ち入りません。

 

因みに、この在家の維摩居士が活躍する『維摩経』は極めて哲学的、倫理的で、それをドラマチックなエピソードで表現しています。一例をあげれば「不二の法門」のエピソードがあります。これは「《不二》とは何か?」という問いに諸菩薩がそれぞれの《不二》…相対立する概念は《不二》即ち「二つの別々のものではない」ということの例証として…例えば「生・滅」、「汚・浄」、「善・悪」、「色・空」、「闇・明」等々、次々に語っていく中で、維摩の番になると、維摩はただ口を閉ざし沈黙します。これは後に「維摩の一黙、雷喝の如し」と評される箇所です。即ち《不二》は言葉にすればその途端にすぐ《不二》ではなくなってしまうからで、このコラムにもしばしば登場する「言語(分節)行為とは何か?」という極めて興味深い問題です。その他にも「菩薩の病の由来」、「無尽灯」等、色々な分かり易いエピソードによる、深い思索が提示されます。勿論私が読んだのは日本語訳・解説付で、薄い本ですから皆さんにも一読をお薦めします。

 

さて、その王維、平均356歳が合格年齢である科挙に21歳で合格し、17歳時の詩『九月九日憶山東兄弟』が未だに残っているというこの天才は、「四書五経」はもとより、当然『維摩経』その他仏典も数多く読んでいたことでしょう。その詳細は研究されているのかもしれませんが、私は知りません。ただ想像するに関心を持っていたのは、母の影響もあり、禅宗系であったような気はします。

 

そしてこのタイトル『過香積寺』…素直に読めば…通り過ぎた?(もっとも「過」の意味には「過故人荘・友人の家に立ち寄る」等の意味もあるようですが…)そしてこの「香積寺」(開創706年)は、栄えていた「浄土宗」の寺のようです。私には今、往時の場所は特定できませんが、現在は西安(長安)の南の外れあたりの平地にあるようです。当時の「浄土宗」と「禅宗」(禅宗でも当時は未だ様々な宗派には分かれていなかったようですが…)がどのような関係にあったのか等々…色々と妄想は膨らみますが、私の能力を越えているので先を急ぎます。

 

さて、そんな世俗的な事情も背景にはあったのかもしれませんが、この作品としての『過香積寺』について、もう少し考えてみたいと思います。単純に『過香積寺』「不知香積寺 数里入雲峰」を考えれば、題名・タイトルそのものが、「香積寺を過ぎてしまった。」と読めるように思います。そして「その香積寺はどこにあるかわからないまま、雲の湧く深山に入っていった。」「深山何処鐘」「鐘の音だけが聞こえて、あとは自然だけがあるばかり。」そして最後に「安禅制毒龍」「座禅を組んで煩悩を鎮める。」気付いてみれば「香積寺を過ぎてしまっている」。という意味にとれます。

 

この場合、タイトルにある『過香積寺』は具体的な寺としての「香積寺」で、「不知香積寺」の「香積寺」は悟りの象徴としての「香積寺」と、私には別の意味を持つように感じられます。そして結論は「安禅制毒龍」です。どうも「香積寺」を尋ねた詩ではないように思います。

 

それを、敢えて『過香積寺』と題して、しかも1行目に「不知香積寺」で深山に分け入った行く…。これは「袁枚のそれとはまた違った、別の諧謔・ユーモア」と言うべきであるような気もします。そうならば、8句目での「安禅」を組むのは王維自身ではないかと思えます。

 

さて、この王維の『過香積寺』に合わせて「倣和漢朗詠集」として日本の詩歌を撰んでみました。前置きをすれば、上記のように考えれば『過香積寺』はかなり特異な詩であるようにも思いえます。(『過香積寺』の題名で始まり、しかも一行目に「不知香積寺」…)今となっては古典中の古典、天下の王維の詩ですが、当時としては(私は学者ではないので、これから先を探求する能力もありませんが、私の知る範囲で現在市販されている「王維の詩の解説」には一切こんなことは書いていません…)かなりの今風に言えば「前衛詩的…」勿論、そんな用語はありませんでしたが、想像するに「不立文字」(当時この言葉もまだ無かったようには思いますが…)を旨とする「禅」が興隆しつつあり、詩人としての王維は、その「文字・言葉とは何か?文字・言葉で何が表現できるのか?」ということは当然深く考えていたはずです。まあ「分節としての言語(日常的言語)」を越えようとする「新しい試み」だったようにも感じてしまいます。(先に引用した『維摩経』の《不二の法門》にも通じるものがあります。)王維より300年前の、いつも引用する陶淵明(365-427)の「此中有真意、欲辨已忘言」(この中に真意あり、弁ぜんと欲して已に言を忘る。)を王維が意識していないはずはないでしょう。

【語註】「香積寺を過る-香積寺はいずことも知らず、一里ほど雲つく峰に分け入った。年経た木々が聳え立ち、人の跡を見ぬ。いずこよりか鐘の音が、深い山に響く。きりたつ岩にむせぶ泉の音。青い松に冷やかな日の光。たそがれの人気ない潭の隅に、坐禅して妄念を鎮める僧がいる。」小川環樹 他 選訳『王維詩集』岩波文庫・1972年

 

ここでNo.47「孫文のいた頃」から福岡伸一のコメントを再度揚げておきます。

 

「この世界のあらゆる要素は、互いに連関し、すべてが一対多の関係でつながりあっている。つまり世界に部分はない。部分と呼び、部分として切り出せるものもない。そこには輪郭線もボーダーも存在しない。

そして、この世界のあらゆる因子は、互いに他を律し、あるいは相補している。物質・エネルギー・情報をやりとりしている。そのやりとりには、ある瞬間だけを捉えてみると、供し手と受け手があるように見える。しかしその微分を解き、次の瞬間を見ると、原因と結果は逆転している。あるいは、また別の平衡を求めて動いている。つまり、この世界には、ほんとうの意味で因果関係と呼ぶべきものもまた存在しない。

世界は分けないことにはわからない。しかし、世界は分けてもわからないのである。

福岡伸一『世界は分けてもわからない』(講談社現代新書、2009年)

 

「世界は分けないことにはわからない。しかし、世界は分けてもわからないのである。」は蓋し名言であると思います。言い換えれば、「世界は言語(分析)によらなければはわからない。しかし、世界は言語(分析)だけではわからないのである。」ということです。

 

或る意味「世界に新しいことは無い」とすれば、陶淵明から1300年の後の我々もほぼ変わってはいません。「不立文字」という用語はともかく「分節としての言語(日常的言語)」を否定?越えようとする、「〈言葉〉によって〈言葉〉を否定?越える試み」こそ、「詩」の本来のありかたのようにも思います。そしてそれは、いつの時代の詩人にとっても。前置きが長過ぎましたが、撰んだのは、結局いつもの我が西脇順三郎(18941982)の長編詩(1500行!)からの一部です。

 

ノアの洪水のあとの人魚の

悲しい歌は歌つてはならない

それは人間を再び放浪の海へ流すからだ

一枚の枯葉が水の記憶にぬれるように

永遠の追憶に人間をぬらすからだ

このことは人間の言葉でいうべきでない

水は水へ神秘は神秘へ流すのだ

オレリアは私のために死んだ

マイクルは私のために死んだ

人間の不幸は言葉をもつているからだ

人間の存在は言葉をもたないところにある

こおろぎのように鳴くか笑うかだ

メアンダーは洪水のような蜜酒を

真珠をちりばめたコップをささげて

心行くまで海原のように飲んだ

月の女神のために生命と愛はとけて

永遠へと流れ去る

西脇順三郎 詩集『失われた時』(1960年・政治公論社)より部分

 

さて、先に上記に示したように、特に西脇順三郎の詩は「《分節としての言語・日常的言語》を否定?越えようとする?試み」ですから、勿論、私に解説は不可能です。興味をもたれた方は、是非、オリジナルに当たって読んでみてください。逆に言えば1500行しかありません。でもそれでは余りに素っ気ないので、何かいい評論はないかと探しましたが、下記が一番分かり易いかもしれません。

 

「彼は詩でも小説でも文章ではないといふことを主張してゐる。だから彼の詩は少くとも彼の主張からいつて、その構成する言語は論理的の始終を持たぬといふことになる。各品詞はそれらの有機的な存在を持たぬのである。「世界がつまらない」といへば、世界がつまらぬのでもなければつまるのでもない。彼はかかる文章的機能を解除する

他の如何なる詩人も、”symbolist(サンボリスト・象徴派の詩人)” といへども、世界がつまらぬといふことを書けばそこに彼らの意味表示が存在する。然るに彼の場合には、かかる意味を表示せんとする意志すら存在しない。少くともそれを排斥しやうとする。唯、何物かを書下さうとする意志と、言語に対する表象とのみがある。但しこれだけの存在は確実である。”symbolist” の場合には然し、世界がつまらぬといふことを表示するのが最終目的でないにしても一つのより大きな思想を表現するための材料となつてゐる。結局「世界がつまらない」といふことは一つの文章として、ひと先づその概念を吾らに伝達すべき機能を有する。彼の場合は違ふ。

“symbolist” は言葉に対する恐怖から出発するに対して、彼は言葉に対して極めて ”innocent(純真・言葉に侵されていない)” である。だから恐しい危険も晴れ晴れしくやつてのける。〈中略〉

彼は用語に対しては非常にナイーヴ(素朴・言葉に侵されていない)なことで、彼の用語は用語のための用語でもなく、特殊な “Image(イメージ)” を写出せんための意識的努力によるのでもない。唯彼には日本語の伝統的臭味から脱出し、それらを嘲笑せんとする努力以上に、”spontaneity”(自由発想)が支配してゐる。そして何時も非常な危険を犯して詩の極端に立つてゐるのにも気がつかず、このバアバリズム(言葉に対する野性的な暴挙)に不可思議なヒューマア(ユーモア)すら感ずる。」

瀧口修造『雑記帳から‐西脇氏の詩』(雑誌『山繭』昭和2年・19272月号)

【註】「瀧口修造・たきぐちしゅうぞう・1903‐1979」:近代日本を代表する美術評論家、詩人、画家。戦前・戦後の日本における正統シュルレアリスムの理論的支柱であり、近代詩の詩人とは一線を画す存在。Wikipedia

 

奇しくも100年前に書かれた文章です。西脇順三郎の門下生として自宅にまで押しかけていたという瀧口修造ですが、それにしても22~3歳で西脇順三郎の詩についてここまで本質を見抜いているというのは、私が言うのも僭越ですが、さすが大したものです。

 

さて、この当時、昭和元年・1926にイギリス留学から帰り、慶応義塾の文学部英文科の教授に就任した西脇順三郎(当時32歳)の門下塾生として瀧口修造(1925年入塾・21歳)は5年間学びます。家庭の事情で退塾・再入塾等をしていたので年齢的には9歳しか差がありません。因みに瀧口修造が卒業してから4年後の1934年に井筒俊彦が西脇順三郎の門下生として英文科に入ってきます。大正12年・19239月が「関東大震災」、昭和6年・19319月が「満州事変」ですから、大変な時代下でした。No.42「孫文のいた頃」 参照)

 

左:瀧口修造(65歳)と西脇順三郎(74歳)(昭和43年・196811月銀座文藝春秋画廊で開催された西脇順三郎の個展)

瀧口修造は特に美術評論家として名を馳せます。西脇順三郎は中学生の頃は「文学」より「英語」や「絵画」を好み、卒業後はは画家を目指した時期もあったといいます。私は、西脇順三郎の「絵」は嫌いではありませんが、残念ながら良さも分かりません。そう考えると何の話をしているのかわかりませんが、勝手に想像して、瀧口修造の表情はなかなか興味深いものがあります。

右:『ヴェニスーBasilica of the Salute』西脇順三郎画(小千谷市立図書館蔵)

共に新倉俊一『評伝 西脇順三郎』(慶応義塾大学出版社・2004年)より

【註】「新倉俊一・にいくらとしかず・1930‐2021」:アメリカ文学者、明治学院大学名誉教授、西脇順三郎の弟子。

(*「新倉俊一・にいくらしゅんいち・1932-2002」:フランス文学者、東京大学名誉教授とは別人)

 

「倣和漢朗詠集」

 

◆これまでの流れと復習

発端は、No.39「孫文のいた頃」において初めて取り上げた「国や文化によって異なる時間の概念」を考えてみたかったのでした。そして、もちろんその背後には「日本とは何か?」という大テーマがあり、その一環として「日本の時間観」を探りたいと思ったのでした。加藤周一(大正8年・1919-平成20年・2008)の『日本文化における時間と空間』岩波書店・2007年を参考に、古代ギリシア、ユダヤ・キリスト教、古代中国の「時間概念」「歴史観」を比較検討、そして途中、極めて難関であった「華厳哲学・道元の時間論」は井筒俊彦の『コスモスとアンチコスモス-東洋哲学のために』を頼りに1年以上をかけて挑戦し、結果多分…その何割かは理解したように思います。

 

▶「日本の時間観」における「今の継起」と日本語文法における「語順」

そして、ここ数回、加藤周一の語る「日本の時間観」の根底には、奇しくも?果たして?「道元や華厳の時間論」である「刹那の連鎖」と同じ考え方である「それぞれの事件の現在=〈今〉の継起が時間に他ならない。」No.58「孫文のいた頃」)があったのでした。そして、その「今の継起」という考えをもとに中国、ヨーロッパにおけるの文法の「語順」と日本語の文法的語順について考えたのが前々回でした。

 

文法の「語順」の観点から近代ヨーロッパ文法と対比して、動詞(結論)が最後に来る日本語を加藤周一は「今の継起」という観点から、次のように分析したのでした。ヨーロッパ語では読者の注意が全体から細部へ向い、日本語では細部から全体ヘ向う。すなわち従属句の叙述する細部が、日本語では、文の全体から離れてそれ自身を主張するのである。細部と全体との関係を、時間の軸に投影すれば、細部を、時間の流れ全体のなかでの、それぞれの〈今〉と考えることができるだろう。文の全体から離れての細部(従属句)の強調は、前後の時間から離れての〈今〉の強調である。現在の出来事の意味は、自己完結的で、それを理解するために、必ずしも過去や未来の出来事を参照する必要はない。No.59「孫文のいた頃」

 

そして、前回、中国語、近代ヨーロッパ語における「時間表現・時制」を考えました。

 

▶中国語、近代ヨーロッパ語の「時間表現・時制」について

古典中国語の動詞には時制がない。話題の出来事の時間的な前後関係は、副詞によって指示されるか、文脈から理解されるにすぎない。」No.60「孫文のいた頃」)と始まり、動詞自体の中に時間が存在する、即ち、動詞が、日本語を母語とする我々の感覚から比較すると、あまりにも変化する、近代ヨーロッパ語の「時間表現・時制」を「フランス語の時制としての動詞変化」(人称によっても変わりますが…)を例に考えてみたのでした。

 

その結論としては「ヨーロッパ語の時制は、過去・現在・未来を明瞭に区別するばかりでなく、過去(または未来)の2つの出来事の、前後関係をも明示する。すなわち文法上の過去と大過去との区別は、多くのヨーロッパ語に共通の特徴である。日本語文法にはその区別がない。(同上)ということでした。

 

そしてそのような(過去・現在・未来を明瞭に区別しない)中国語、日本語の文法を考える上で重要な捉え方が、「時制・”Tense”」ではなく「相・“Aspect”」という概念でした。中国も日本語も動詞に時制はありませんが、副詞によって「相・“Aspect”」という概念で時間観をあらわしているのでした。

時制・”Tense”出来事を「客観的線分的時間軸上」の〈何時・いつ〉のどこに置くか?(「過去」という時間的位置)

相・“Aspect”:出来事を「話者・内部」からどう見るか、どういう状態であるか?(「進行中・継続・未完了」という見方)

 

文法における “Aspect” の発明

この “Aspect” については、それほど難しい概念でもないのに、私は学校教育では学習しませんでした。そして未だに教えられていないようです。少し気になったのでこの Aspectについて少し調べてみました。Aspect” 発明の経緯は下記のようです。

 

発端は何とロシア語(スラブ語)の文法においてです。ロシア語では動詞が、「未完了動詞」と「完了動詞」とに分かれているといいます。即ち、Писать:書いている・書く(未完了)、Написать:書き終える(完了)…この場合、接頭辞として Haを付けてそう表現する構造になっているようです。ここで、まさか全く知識の無いロシア語文法を掘り下げるつもりはないのですが、そして、ロシア語には時制もあるようですが、ともかく “Aspect” 重視の文法のようです。

 

その、ロシア語文法において вид:見方・見え方、という概念が使われ始め、これをスイスの言語学者のKarl Philipp Reiff(カール・フィリップ・ライフ:17961872)が、 вид“Aspect” というフランス語へ翻訳したのが18281829年頃であったといいます。

 

さらに20世紀に入り、フランスの言語学者 Gustave Guillaume(ギュスターヴ・ギョ―ム:18831960)が、さらに理論化し、ほぼ上記のように整理された、ということです。

つまり、”Aspect” という概念そのものは、西欧文法に最初から存在したものではなく、19世紀、スラヴ語文法の研究を通じて『時制だけでは動詞の時間性を説明できない』ことが様々な経緯から明らかになり、新たな文法概念として導入されたようです。

 

以上を私なりにまとめると、19世紀までの現代西洋文法では、客観的線分時間上の「現在」「過去」「未来」のどこに・いつ?起きるか?…だけで済んでいたものが、近代に入り、西欧言語学者たちは「人間は時間を、本当に一本の時間軸としてだけ認識しているのだろうか。」という疑問があがり、この新しい文法概念である ”Aspect” が注目され始めます。つまり、「出来事をどのように理解・経験するか?」という問題です。まあ、これは「言語表現・文法」の問題であると同時に、「認知・認識・cognitionの問題でもあるでしょう。

 

さて、ここで、“Aspect” に拘っているのは、これから考える日本語が Aspect中心の言語だからです。

これまで考えてきたことを、大雑把に整理すると下記のようになります。

近代ヨーロッパ語        ➡ 時制中心

スラヴ(ロシア)語    ➡ 時制と “Aspect” の両立( “Aspect” 優位)

中国語                             “Aspect” 中心

日本語                             “Aspect” 中心(助動詞・補助動詞・テイル形など)

【註】「テイル形」:文法用語(~ている形)は、動作の進行、結果の残存、経験、反事実など、文脈に応じて多様な意味を表す日本語の ”Aspect” 形。非過去・過去の両方で使われ、文脈に応じて意味が変化する。(雨が降っている)(扉が閉まっている)等々。

 

そして前回の結論は下記でした。

「繰返しにもなりますが、極めて概略的・単純に言い切ってしまえば、日本語にいわゆる(厳密には欧米文法における)「現在形」も「未来形」も「過去形」もありませんでした。まあ、もっとも…そんなことを…「他文化比較を通しての日本における時間観」を探るための考察でした。今回、「日本語文法」を見直して多くのことに気付きました。あるいは「主語・述語」も「時間観」同様に揺らいできます…次回に考えることになると思いますが「日本語についての欧米文法的解釈からの脱却」が、三上章(1903‐1971)であり大野晋(1939⁻2008)であり、森田良行(1930‐)であり、金谷武洋(1951‐)の主張です…。そして「脱却」したその先にどんな「日本語の正体」があるのか…。他文化とは分かり合えるはずです。ただ、単純に類似を照らし合わせてみても「文化の本質」はわからないのでしょう…。」

No.60「孫文のいた頃」

 

◆日本語の「時間表現・時制」について

ようやくここに辿り着きました。もちろん、いままでチラチラと触れてはきましたが、我々が普通・日常生活で使用している日本語、日常会話において、「《線分的時間》という観点」も、或いは「《主語・述語》という観点」も、たとえば江戸期以前の人間にはそんな観点はなかったのかもしれません…明治以降に輸入された「欧米由来の概念」っぽい「現在・過去・未来」の感覚とは、実際のところ、かなり異なっているような気はします。

 

加藤周一は日本語の「時制」についてこう始めます。

「日本語の時制については、定説がない。日本語では動詞の後に助動詞を加えて、動詞の意味をさまざまに変えることができる。たとえば断定を推量に、出来事の進行を完了に。問題は動詞の現在を過去に、あるいは未来に変える助動詞の体系があるか、ないかである。少なくともヨーロッパ語のように明示的な体系(すなわち時制)はない。」

加藤周一『日本文化における時間と空間』

 

定説が無いわけですから、研究者の間でも未だにこの議論が続いているようです。下記はNo.59「孫文のいた頃」で触れた、そもそもの「日本語の文法問題」です。

 

「加藤周一はこの〈時間の様々な表現〉の章の冒頭、先ず〈中国語や近代ヨーロッパ語とくらべて、日本語の特徴の一つは、文の語順である。日本語では動詞(または形容動詞が)原則として文末に来る。〉と始めます。さてさて、語順(主語・述語・動詞等)をはじめ、人称代名詞、時制…等々、以前から〈近代日本語文法〉については、百家争鳴、議論百出のテーマです。振り返れば、例えば、有名な『象は鼻が長い』(三上章・みかみあきら・1903-1971)は、国語学者達に様々な議論を巻き起こしました。たしか、私が大学生くらいだったので…50年程も前になるかな…、当時の〈騒ぎ〉をよく覚えています。そして結論だけ先に述べておけば、三上章は〈欧米文法概念〉を基礎とした〈日本語文法構築〉の否定(日本語には英語のような《主語》はない。《は》は主語を示すものではない。)だと思いますが、私の印象では未だに、この議論は続いているようです。これについては後でもうすこし詳しく考えたいと思っていますが、ここで、この議論の歴史を少しだけ振り返ってみます。」

No.59「孫文のいた頃」

 

一例をあげておきます。1974年に発行された『岩波古語辞典』の「基本助動詞解説」の一部ですが、加藤周一は「日本語の時制については、定説がない。」と2007年に述べているわけでが、今現在どんな定説があるのか、ないのか…興味はありますが、少なくとも「学校教育現場」では、下記のようには教えられていないようです。

 

助動詞【き】・【けり】

【き】・【けり】は、回想の助動詞である。多くの文法書では、これを過去の助動詞という。それはヨーロッパ語の文法の呼称に倣ったものと思われるが、現代のヨーロッパ人と古代の日本人との間には、時の把握の仕方に大きな相違がある。ヨーロッパ人は、時を客観的な存在、延長のある連続と考え、それを分割できるものと見て、そこに過去・現在・未来の区分の基礎を置く。しかし、古代の日本人にとって、時は客観的な延長のある連続ではなかった。むしろ、極めて主観的に、未来とは、話し手の漠とした予想・推測そのものであり、過去とは、話し手の記憶の有無、あるいは記憶の喚起そのものであった。それ故、ここに【き】【けり】について《過去》の語を用いず、《回想》という。むしろ、進んでこれは記憶、あるいは気づきの助動詞というべきであると思われる日本人は、動詞の表わす動作・作用・状態について、それが完了しているか存続しているか、確認されるかどうかを【つ】【ぬ】【り】【たり】で言い、ついで、それらに関する記憶の様態を【き】【けり】で加えた。それが、日本人の時に関する表現法であって、ヨーロッパ語で示される時の把握の仕方とは根本的に相違がある。」

大野晋・他編『岩波古語辞典』基本助動詞解説(1974年・岩波書店)

 

ただし、上記の学説について加藤周一は下記のような批評を加えており、この批評に答えるには、古代・現代日本語は勿論、古代ラテン語、近代ヨーロッパ語等にも精通していなければならず、1人の学者に別の分野の専門研究が可能なのかどうか、また、そんな共同研究が可能なのかどうかわかりませんが、途方もない問題に発展します。

 

「この独創的な考え方には、いくつかの問題点もある。その一つは、ここで〈時の把握の仕方〉が、古代日本人と現代ョーロッパ人との間で比較されているが、古代日本人と古代ョーロッパ人との間ではどうなるか、ということである。もう一つは、〈時の把握の仕方〉を一般に〈客観的な時間概念〉と〈主観的な時間〉の対照として分析しているが、一時代の一文化のなかに共存し得るのではないか、ということである。その二つの問題は、一般に文化の時間に対する態度に係わっている。また最後に、与えられた一文化の時間概念と文法上の時制との関係はどうなのかということがある。たしかに一方は他方を反映するだろう。しかしよりくわしくその関係を見定めることは困難である。いわんやどちらが原因で、どちらが結果か、をいうことはできない。」

加藤周一『日本文化における時間と空間』

 

やれやれ、考えるべきことは果てしないですね。AIを上手に利用すれば可能なのでしょうか?まあ、ここでは、ともかく「古代日本語」の助詞について、上記をわかりやすくするために、この《『岩波古語辞典』基本助動詞解説》の詳細展開を基に、これを「表展開」してみました。

 

◆日本の時間観の表現

助動詞【き・けり】と助動詞【つ・ぬ・り・たり】

【き・けり】:「記憶・認識」の自分との「距離感」を表現、即ち〈身近・常態〉は〈回想〉として捉え、〈遠い・忘れかけている〉は〈ふと思い出した発見〉と捉える。

【つ・ぬ・り・たり】:「記憶・認識」の「状態」を表現、即ち〈存続・完了〉

 

No.60「孫文のいた頃」で示した、フランス語の時制表を再度あげておきます。あらためて比較してみてください。動詞そのものが変化し、しかも人称によっても変化するフランス語と日本語がいかに異なるかがわかります。

 

 

◆日本語と近代ヨーロッパ語の「時間観の表現」についての現在での結論

この類の問題にはAI等が有効のような気はします。それが機能するかどうか私にはわかりませんが。かなりの難問であるでしょう。加藤周一はこう結論づけます。

 

「さしあたり何を結論できるだろうか。第一に、ヨーロッパ語とくらべて現代日本語のもつ特徴 ー 殊に時制の特徴は、少なくとも〈万葉集・7~8世紀〉の時代からつづいて今日に及んだものであるということ、またおそらくヨーロッパ語の場合にも、時制の発達に関するかぎり ー たとえばラテン語の時制、ただし古代ラテン語の語順は現代ヨーロッパ語のそれと著しくちがう ー 古代語から連続して発達してきたということ、第二に、このような日本語の特徴は、日本文化のなかでのある傾向、すなわち客観的時間よりも主観的時間を強調し、過去・現在・未来を鋭く区別するよりも、現在に過去および未来を収斂させる傾向を示唆する、ということである。」(同上)

 

いやはや、つくづくとしみじみと思わざるをえません。「世界は言語(分析)によらなければわからない。しかし、世界は言語(分析)だけではわからないのである。」に回帰します。

宜なるかな…私が「詩」を好むにおいておや。

 

次回は明治以降、西欧文法の影響を受けすぎた日本語文法について、少し掘り下げてから、具体的に文学作品等にあらわれている「日本の時間観」について考えて行きたいと思います。

 

以上

2026年7

 

 

No.60 牧童騎黃牛の「孫文のいた頃」をみるlist-type-white