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国際交流・留学にすぐには役立ちそうにない教養講座⑦

ー世界に「日本が存在していてよかった」と思ってもらえる日本に…

 

 

No.7 またまた「孫文のいた頃」

 

さて、このコラムも7回目を迎えました。これまでの流れを少し整理してみます。

 

当初、このコラムを書き始めたきっかけは、私が20年程、仕事をしてるこのJYDA/HSKオフィスのある神楽坂周辺は、偶然にも(つまりは必然的に…)、今から120年程前、現在の中華人民共和国の建国に多大な影響を与えた、魯迅や孫文をはじめとする多くの英雄達…即ち、革命家・政治家・政治亡命者・当時まだ無名の清国留学生等…に大変「縁」のある場所であった…という事実にエラク感動したことにありました。

譚璐美著「革命未だ成らず・上」を基にして

 

そんな、「土地神・土地のパワー」の導き、ご縁で書き始めたのがこのコラムでした。(日本に、いや中国にも、近代日本と中国の歴史に影響を与えた人物がこれだけ密集している「パワーエリア」は他に無いのではないでしょうか?)

 

そして勿論、ひとつには、中国文化を酷愛する私としては今、20221月現在において、「日中関係の山積した問題」を深く憂慮しつつ、学生時代からの漠然とした疑問であった「つい120年程前のその頃、何故当時の多くの日本人が孫文を支援したのだろう?」という点をもう少し掘り下げて考えてみたくなりました。勿論、孫文の明るい人柄、魅力は自明な一因でしょうが、そして、このコラムは勿論、学術論文ではなく、私の思いをただ綴っているもので、何かを立証するものないのですが、私なりに考えていると、1つの見方が浮かび上がりNo.6でも書きましたが、まとめると下記の様になるかと思います。

 

大久保利通と西郷隆盛に象徴されるように、明治維新による新国家の建国において、明治政府内でも大きな対立がありました。

 

そもそも、欧米列強との不平等条約下、必死で植民地となることを回避し、独立国たらんとして湧きあがった大きな一つの潮流が明治維新でした。そして、ともかく新政権が立ち上がり、その日本という新国家建設の方法は、勿論、富国強兵、殖産興業と欧米に倣いましたが、しかし、欧米列強に伍して1国家を樹てる根本理念(日本とは何を目指しているのか?)は、さまざまな経済事情、国際事情により、やむを得ず…時の明治政府は「おざなり」にせざるを得ない状況でもあったのかもしれません。

 

即ち、ともかく国としての体裁を整えることが急務と考える大久保利通と、それ以前に「どんな国にするのか?」、「どんな理念をもった国にするのか?」という西郷隆盛、江藤新平等との対立が「佐賀の乱・1874年」、「西南戦争・1877年」であったかと思います。

 

No.6で引用した、司馬遼太郎の小説「翔ぶが如く」からですが、明治維新を通して西郷は、薩摩の侍が持っていた道徳・倫理観(敢えて、司馬遼太郎は一言も「武士道」という言葉は使わず、「民族がもつ颯爽とした士魂」と表現していますが)を国家建設の基本原理として建国するはずであったものが、当時、日本の置かれた諸事情により、結果、幼馴染でもあり、理解し合っていたはずの大久保利通と激突して…そして、西郷は下野し西南の役に巻き込まれ、西郷の「国家建国理念」は時の明治政府にあっては葬られます。そして一方、その明治政府は、残念ながら「国家建国理念」どころか、藩閥政治の権力闘争、利権争いの様相も呈していたわけです…

 

しかし、民間には、その新日本・明治政府により否定逆賊の汚名を着せられたはずの西郷が掲げた「新日本建国理念」に対して、共感する多くの日本人(犬養毅、頭山満、宮崎滔天等)が、同じ感覚、革命・新国家建設理念を護持していると感じた、実に、良い意味でも悪い意味でも、理想主義者の孫文を共感・応援・支援したではないか、と思いました。

 

しかし、その後の日本はどうなっていったのか?大久保利通の(建国理念をおざなりにした)急務としての欧米模倣とは帝国主義模倣であり、(勿論それも致し方なかったという面もあるかもしれませんが、)理念無き日本国の「対華21ヶ条要求」、「青島併合」と繋がっていったのではないかと思います。

 

ナショナリストの私としてはとても残念なところです。

 

さらに戯言を重ねれば、現在の「資本主義」も、つまり、世界の他の国々も日本も中国も、かつての「領土帝国主義」が「経済帝国主義」になってしまっただけのような気もします。

 

アメリカがヨーロッパによって文明国とよばれるようになったのは、1898年(明治31年)の米西戦争に勝ち、スペイン領だったフィリピン、グアム、プエルトリコを獲得した時のことだった。なお、アメリカはその年、ハワイの併合もおこなっている。

 日本がヨーロッパによって文明国とよばれるようになったのも、1904ー05年(明治37ー8年)の日露戦争に辛うじて勝ち、南樺太を獲得し、韓国の保護権や遼東半島の租借権を手に入れてからだった。たとえば、岡倉天心が1906年にニューヨークで出版した、英文「茶の本」には、こう書かれている。「彼ら(西洋人)は、日本が平和な文藝にふけっていたころは野蛮国とみなしていた。しかし、日本が満州の戦場に大殺戮行動を起こしてからは、文明国とよんでいる」、と。

松本健一「日本の失敗」(東洋経済新報社)

1996年5月~98年7月『論争 東洋経済』連載

 

1915年(大正4年)の「対支21ヶ条要求」から9年後の1924年(大正13年)1128日の孫文の神戸での日本人への最終メッセージともとれる演説「大アジア主義」について私は下記のように書きました。

 

「欧米列強とアジアが、極めて単純明解過ぎる二元論で定義されていますが、あくまでも「覇道」に傾きつつある日本への不満と軌道修正への願いを感じます。大雑把に言えば、「広くアジアの国は仁義道徳を尊ぶ国だ、日本よ!それを思い出してくれ!」ということで孫文の「大アジア主義」の趣旨はほとんど尽きていると思います。(やはり勝手な想像ですが、この演説前日に会ったという頭山満へ孫文はそのクレームをさんざん語ったのではないかと思います。何か結論めいた方策は出たのでしょうか…)」

―(No.5続々「孫文のいた頃」)

 

そしてこの「大アジア主義」講演の、その3日前、下記が頭山満の孫文への答えでした。

 

頭山の発言をわかりやすく書き直すと、次のようになる。― 中国4億の民が「外国の軽侮と侵害」を受けているような状態は、あなたがたナショナリストの許せないことであろう。そして、それは当然である。しかし、かつて日露戦争当時、「満蒙地方が露国の侵略を受け」たので、中国と相互に助け合う車の両輪のごとき関係であった日本が「貴国保全の為め」に戦って守った。その結果、満蒙において日本が特殊権益を得たのである。だから、中国がこんご「他国の侵害を受くる懸念」がなくなった暁には、これを中国に返すが、いまはそういう状態にない。日本国民の大多数は、その変換に同意しないであろう、と

 頭山の発言は、たしかに当時の日本国民の大多数の感情を代弁していた。青島の占領に拍手喝采をおくり、満蒙(東三省)の特殊権益や青島の租借を当然のことと考えた国民の多くは、五・四運動に象徴される中国の反帝国主義・抗日運動を、いわば「侮日」運動というふうに受けとっていたからである。

 孫文はこの頭山の発言をきいて、ナショナリストで中国革命の支援者でもあった頭山(犬養)までがそのように考えるなら、日本政府が「対支21ヶ条」という、中国側からみれば「不平等条約」を撤廃することはありえないだろう、とすぐに悟ったのである。それゆえ、、孫文は頭山にそれ以上、この件について話を持ち出さなかった。そうして三日後の「大アジア主義」の講演で、日本は「いったい西洋の覇道(帝国主義)の番犬となるか、東洋の王道の干城となるのか、あなたがた日本国民がよく考え、慎重に選ぶ」べきだ、とのべたのである。

松本健一「日本の失敗」

 

後世から過去を見る知識人(松本健一)はかなり整合性のあることを言いやすいわけですが、ただ、頭山満(大変な人物ですが、決して西郷ではありません…)も辛い立場ではあったと思います。この「対支21ヶ条」要求は当時、孫文等の革命を乗っ取るようにして大総統となり、その後、自身の皇帝即位運動まで起こす袁世凱に対して発せられ、そして、1916年の袁世凱の死後、軍閥が割拠し派遣を争う渾沌とした中で、孫文、個人への敬意は保ちつつも、どこまで孫文を中国の政権代表として支援し続けられるのか…、という思いも去就したのではないでしょうか‥‥

 

私の個人的な思いとしては、犬養毅なり、頭山満なりが、孫文に耳打ちし、孫文に欠けている実践的方策のための知恵を貸し、あくまで中国は彼の国なのだから、下品な袁世凱が、表向きの大総統であったとしても、適当な対応でかわし、孫文を応援することはできなかったのかな…などともふと、思ってしまいます。

 

いやはや、文字通り、中国大陸においては、司馬遼太郎の言う「その清朝が、一九一一年、ほとんど風倒木のようにたおれて以後、中国現代史の苦悩と混乱がはじまった。各地に軍閥が割拠し、たがいに古代の王侯のように私(し)を張りあった。」―(「この国のかたち」第2巻-13「孫文と日本」)という時代であり、一方、日本では1914年に第一次世界大戦参戦し70日の短期間にドイツが占拠していた山東省青島を陥落させ、狂喜する国民の勢いもあり、それを中国に返還するのではなく領有(領土経営)行うことが東洋の平和のためであるという考え方になり、当然であるという意見がまかり通るようになり、そして風潮となり、しかし、それが「対支21ヶ条」に繋がり、さらに1919年の抗日運動である五四運動に広がって行ってしまった…ということになります。

 

当時の複雑な事情に対して、私の勉強量と想像力ではとても及びませんが、それにしても、やはり、つらいものがありますね。しかしただ、日本にも当時この流れとは、当然ながら、意見を異にする人々もいました。例えば、北一輝、中野正剛、石橋湛山…等でした。

 

「ともかく、日本のアジア主義者が、欧米とは「別個の日本帝国主義」を主張しているとするなら、かれらが「対支21ヶ条」を撤廃することを認めるはずはない。

 中野正剛は孫文の「大アジア主義」を高く評価する一方で、帝国主義政策そのものである「対支21ヶ条の要求」を容認してしまった犬養毅らの日本の大アジア主義者たちを批判したのである。その中野と、「支那革命外史」-1916年(大正5年)を書いて大隈内閣の帝国主義政策を批判した北一輝とが、このあと昭和ファシズム=革命の担い手となってくるところに、昭和史の曰く言い難いイロニーがあるのだろう。

松本健一「日本の失敗」

 

松本健一は「アイロニー」と表現していますが、やはりこの動きもセツナイですね。日本という国全体が「帝国主義」に流れていく中、それに反対する言論人達は、それを変える手段としては、日本に対する「革命」という方向にならざるをえなかったということでしょうか。

 

ご存じのように、北一輝はその後 <2.26事件(1936年・昭和11年)> の理論的指導者であるとして事件の翌年、民間人でしたが、特殊軍法会議において死刑判決を受け刑死します。また、中野正剛はその後、政治家としても活躍しますが、1943年(昭和18年)衆議院議員として、時の内閣総理大臣、東條英機を批判、対立、結果、割腹自殺します。

 

戦後、首相にもなる石橋湛山ですが、あまり知られてはいないかもしれませんね…

延々と重い話ではありますが、石橋湛山には少し希望も見えるような気がします。次回、もう少しこの続きをお話しましょう。

以上

2022年1

 

追伸:

上記、中野正剛には非常にドラマチックな有名な1シーンがあります。

彼の割腹自殺前年19421110日、自身の母校である、早稲田大学大隈講堂において、「天下一人を以て興る」という演題で2時間半にわたり軍部独裁の批判とその全体主義の中心人物である東條英機を弾劾する大演説を行いました。

 

「『政治が面白くないから俺は黙って居ようと言ふのは、滔滔たる衆愚のことである。諸君は大学生ではないか。一念殉国の誠を尽くそうではないか。誠なれば通ずる。誠となれば明らかである。明らかなれば誠である。誠に明らかに、理を究め性を尽くし気を熾(さか)んならしめよ。理気一元の体当たりをやろうではないか。天下悉く眠って居るなら諸君起きようではないか。此の切迫せる世の中に、眠って居るのもうすら眠りであろう。諸君が起きて直ちに暁鐘を撞けば、皆覚めることは必定である。天下は迷はんとする。言論のみでは勢い生することは出来ぬ。誰か真剣に起ちあがると、天下はその一人に率ゐられる。諸君みな起てば諸君は日本の正気を分担するのである。私は全体主義の下に社会民主主義的量の支配、社会民主主義的愚物主義、便乗主義者、ユダヤ主義の跋扈を黙過することは出来ぬ。日本の巨船は怒涛の中に漂ってゐる。便乗主義者を満載して居ては危険である。諸君は自己に醒めよ。天下一人を以て興れ。これが私の親愛なる同学諸君に切望する所である。』熱狂した学生は、校歌「都の西北」の大合唱をもってこの3時間余にわたる講演に酬いた。」

―猪俣敬太郎「中野正剛の生涯」(黎明書房)

1964年10月

 

私はこの「天下一人を以て興る」の名台詞で、どうしても、名もない、いち清国留学生の魯迅を自然に対応した藤野厳九郎先生を思い出してしまいます。

このコラムのNo1でも言及しましたが、夢でも、おとぎ話でも、お花畑でもなく、国際交流は個人の体験です。皆さんが外国に行った時に出会った親切な、決して忘れられない人はいたはずです。そしてしかも、その「たった一人」に我々は誰でもがなれます。実は国際交流に限らず、別に外国人に親切にしましょう…というとだけではないのです。「人として ”誠実“ である」というだけのことです。

そして、そのためにこそ、我々は役にも立たない、勉強をしているのだと思うのですが…

 周囲がどうであれ、政治家でなくても、有名人でなくても、いち藤野先生の先生にはなれます。

 

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No.8 まだ「孫文のいた頃」を見るlist-type-white