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国際交流・留学にすぐには役立ちそうにない教養講座⑱


ー世界に「日本が存在していてよかった」と思ってもらえる日本に…

 

 

No.18 明けても「孫文のいた頃」

 

前回は、若き仏教哲学者であり浄土真宗の僧侶である清沢満之が、「東本願寺維新」と私が勝手に名付けたその東本願寺の組織体制改革が失敗した、ところで終わりました。

 

「それ以降、教団との惨憺たる格闘がある。およそ非政治的な清沢が、強烈な志士的情熱を燃やしたのは、幕末から明治中期にかけての時代相の影響というほかない。彼は法主の君側の奸を払い、教法を親鸞の昔にかえし、運営を近代化することをめざしたが、彼が仰望する法主自身が女出入りの噂の絶えぬ醜聞の製造者であった。」

司馬遼太郎「清沢満之と明治の知識人・『中央公論1965年4月号』」

 

上記状況の中、ともかく清沢満之は、本願寺の役職から去って、京都の洛東白川村に居を移し同志6名とともかく「東本願寺維新」を起こします。彼らは「白川党」呼ばれ、明治29年(1896)10月、雑誌『教界時言』を発刊「大谷派の有志者に檄す」と題して全国の門徒に発信しますが、結論から言えば、明治31年(1898)『教界時言』は廃刊、この維新は失敗に終わります。この辺りの事情は、理崎 啓(りさき けい)の小説「六花飜々(りっかほんぽん)―清澤満之と近代仏教」(哲山堂・2011年)に詳しいので関心ある方は参照下さい。」

No.17さてさて「孫文のいた頃」

 

少し当時の雰囲気を想像するために上記「教界時言」から清沢の書いた一節を引用しておきます。

 

「試みに問う。(浄土真宗)大谷派なる宗門は何れの処に存するか。京都六条の天に聳える巍巍たる両堂と全国各地に散在せる一万の堂宇とは以て大谷派となすべきか。いわく否。これらは火をもって燬くべきなり、水をもって流すべきなり。なんぞ以て大谷派とするに足らんや。宗門なるものは水火をもって滅すべきものにあらざるなり。しからばかの三万の僧侶と百万の門徒とはもって大谷派となすべきか。いわく否。・・・・大谷派なる宗門は大谷派なる宗教的精神の存する処にあり。あに人員の多寡を問はんや、あに堂宇の有無を問はんや、將たあにその頭を円にしてその袍を方にすると否とを問はんや。いやしくもこの精神に存する処はすなわち大谷派なる宗門の存する処なり。」

『教界時言・「大谷派宗務革新の方針如何」明治30年(1897)9月29日発行』

「清沢満之 生涯と思想」教学研究所(共著)東本願寺出版部より

 

大意は「浄土真宗の本質とは、東本願寺の立派なお堂や、全国1万の浄土真宗系の寺、3万人の僧侶、100万人の檀家・信者ではなく、また頭を丸めて袈裟を着ていよういまいと、浄土真宗の宗教的精神こそ大切である」ということになります。この時、清沢満之は35歳、年齢、学歴に比して非常に純粋であることに驚かされます。ただ、彼の終生の座右の書は意外にも「義士銘々伝」であったといいます。「義士銘々伝」とは元禄時代の「赤穂浪士の討ち入り」を題材にして、「武士の倫理観」を中心テーマにして創作された痛快感動ストーリーで、敢えて大雑把に例えればアニメの「ONE PIECE」に近いものです。東京帝国大学哲学科を優秀な成績で卒業し、さらに大学院に進学し哲学を研究をする理知的、緻密な頭を持ちながら、一方。少年のような純粋な心を持ち、武士の子弟であるという自負・矜持を持ち続けていた人だったのでしょう。

 

さて、以下がこの「東本願寺維新」失敗についての清沢満之の談話です。

 

「実はこれだけの事をすれば、その後には何もかも立派に思うことができると思ってやったのだけれども、しかし一つ見落としあった。それは小部分の者がいかに急いでもあがいても駄目だ。よし帝国大学や真宗大学を出た人が多少ありても、この一派-天下七千ヶ所の末寺-のものが、以前の通りであったら、せっかくの改革も何の役にもたたぬ。初めにこのことがわかっておらなんだ。それでこれからは一切改革のことを放棄して、信念の確立に尽力しようと思う。」

『清沢満之全集(法蔵館版)5巻・P622』

「清沢満之 生涯と思想」2004年 教学研究所(共著)東本願寺出版部より

 

「明治維新」にしても「辛亥革命」にしても、「東本願寺維新」にしても、常にあらゆる『改革』につきまとう「いかに多くの人々に『その理念』を理解させ、覚醒させ、導くか?」という政治論的、組織論的、難しい問題ですね。

 

さて時間系列から追う、その後の清沢です。「東本願寺維新」失敗後、明治30年(189712月末から明治32年(18996月、東京に赴くまでの1年半ほどを自分の寺である西方寺(現・愛知県碧南市浜寺町)で、本来、浄土真宗とは密接な関係のない原始仏教の経典である「阿含経」に立ち返り、本来、小乗仏教(個人・自分の救済を目的)であるはずの原始仏教に大乗仏教(あるゆるものの救済を目的)の精神を見出したといいます。文字通り「一切改革のことを放棄して、信念の確立に尽力」したのでしょう。

 

「西方寺」とその裏にある「清沢満之の書斎の窓から」 202212月・筆者撮影

 

そして上記、明治32年(18996月の東京行きは、諸事情により当時東京にいた、東本願寺の新法主、大谷光演・おおたにこうえん(1875-1943)の強い依頼(浄土真宗の布教と法主の教育)により、病(結核)をおして東京に出向きます。法主が東京にいること自体、東本願寺には様々な事情があったのでしょう。清沢満之37歳でした。

 

「その41歳で他界する清沢の最後の3年間が、かれの宗教家としてもっとも充実した時期であった。この最後の3年間がなければ、清沢はただの本願寺内部の人間としてしか、その存在を記憶されなかったであろう。『浩々堂』は本郷東片町で彼が借りた2階建ての借家で、彼の弟子であり親鸞のいう御同朋・御同行(おんどうぼう・おんどうぎょう)であった暁烏敏(あけがらす はや・1877-1954)、多田鼎(ただ かなえ・1875-1937)、佐々木月樵(ささき げっしょう・1875-1926)、常盤大定(ときわ だいじょう・1870-1945)らと共に住み、かれらの発見した教団臭を持たぬ親鸞を仰望しつつ親鸞的生活を送り、門をすべての聞法者にひらいた。」

司馬遼太郎「清沢満之と明治の知識人・『中央公論1965年4月号』」

 

『浩々堂』での「かれらの発見した教団臭を持たぬ親鸞」とは、すなわち下記で、真宗の「他力」の意味を再吟味し、その新発見した『親鸞』を一般に発信していったわけです。

 

「その教団に適合した宗学に頼らなかった清沢は、親鸞そのものを白紙で思索しようとした。その結果、かれが驚くべき発見をしたのは、親鸞もまた直覚的な見神者といったようなものではなく、清沢のごとく哲学的思弁を重ね上げたあげく、法然的世界を知って宗教へ跳踏した人であった、ということであった。さらに教団的俗信を排除しつつ親鸞に肉薄するにつれて、親鸞こそむしろかれ以上に近代哲学の濃厚な受洗者であるがごとく思われきた。在来、教団が第二義的にみて軽視してきた『歎異抄』をかれとその門人の暁烏敏は初めて重視し、重要なことを知った。この『歎異抄』のなかで窺うことのできる親鸞の宗教的気迫と思想的気息は、どうみてもスペンサー、ヘーゲルを通過してきた人のごとくであり、哲学的思弁の及ぶかぎりにおいて人間と絶対を追求し、最後の一点において宗教へ質的転換をしている。清沢はヘーゲルから理性における無限を学び、仏教の安心(あんじん)は単なる宗門的伝承ではなく、真理や理性に基づかねばならないと考えた。(吉田久一氏著「清沢満之」)。そういう自分こそ、宗学者などよりむしろ親鸞をいっそう知ることができる有資格者であることを知った。したがって清沢は、真宗の唯一絶対の本尊である阿弥陀如来を、宗学的救済主と見ず、宇宙の一大理法であると理解した。」

同上

 

今では『歎異抄』は高校の「公民」、「倫理」等でも学習する有名な「哲学書」になっているので、ここでは『歎異抄』に触れません。

 

さて、この清沢満之の私塾である「浩々堂」は清沢の死後も引き継がれ(大正6年・1917に閉洞)、上記4名以外にも、曽我量深(そが りょうじん・1875-1971)、金子大栄(かねこ だいえい・1881-1976)等、私が大学生の頃まで活躍していた学者も含めて、数多くの優秀な人材を輩出します。

 

「浩々堂発祥之地」記念碑・文京区本郷6丁目・2022年7月・筆者撮影

 

そして明治34年(1901115日に、「浩々堂」から雑誌「精神界」が創刊されます。

 

「1900年9月に、暁烏、佐々木、多田の3人が入洞します。その時すでに雑誌発刊を計画し、満之の承諾も得ていました。その時の事情を暁烏は次のように記しています。

 清沢先生が東京におられるから、私達が今度卒業(真宗大学・現大谷大学)したらお側に行って、先生を中心として、あまり述語を用いないで、一般人に仏教の真意を伝えるような雑誌を拵えてみたいというたら、同君(関根仁応 せきね にんのう・1863-1943 )は至極賛成して…この暁烏の願いに佐々木、多田が共感したのでした。雑誌発刊の費用については関根仁応が東本願寺教学部と相談しました。

 『精神界』という雑誌の名称については、同人たちの投票により、佐々木の案が採用されました。発行に関しては高浜虚子から指導を受け、表紙絵とカットは中村不折(なかむら ふせつ・1866-1943)、表紙の体裁は当時発行されていた三宅雪嶺の『日本人』にならったものでした。

 ―創刊号は1000部印刷したといいます。この『精神界』は満之が亡くなったあとも続けられ、大正7年(1918)にいたるまで17年間発行されます。

「清沢満之 生涯と思想」2004年 教学研究所(共著)東本願寺出版部

 

『精神界』で清沢は下記のような思想表明をしています。

 

「吾人の世に在るや、必ず一の完全なる立脚地なかるべからず。…然らば、吾人は如何にして処世の完全なる立脚地を獲得すべきや、蓋し絶対無限者によるの外はある能はざるべし。」(清沢満之・『精神界』創刊号巻頭・明治34年(1901)1月)

初期には「無限」と言われていたのが、ここでは「絶対無限者」と「絶対」という形容を被せられる。ここで注目されるのは、『宗教哲学骸骨』のように一般化した論述でないにもかかわらず、『精神界』所収の論文では、ほとんど弥陀という特定化した呼び方をせず、「絶対無限者」という一般化、抽象化して表現を貫いていることである。清沢は常に宗門内の問題を扱いながら、宗門を超えた普遍性を持つものとして、その思想を展開しているのである。」

「明治思想家論」末木文美士(すえき ふみひこ)(2004年・トランスビュー社)

 

そしてこの肝心の「絶対無限者」ですが、考え方としては、「相対的有限である我々」の哲学的思弁、論理、理性の果てに「他力」として現れてくるもののようです。

 

「私も以前には、有限である、不完全であると云ひながら、其有限不完全なる人智を以て、完全なる標準や、無限なる實在を研究せんとする迷妄を脱却し難いことであつた。私も以前には、眞理の標準や善惡の標準が分らなくなつては、天地も崩れ社會も治まらぬ樣に思うたることであるが、今は眞理の標準や善惡の標準が、人智で定まる筈がないと決着して居りまする。」

清沢満之「我が信念」・明治36年(1903)5月30日執筆・6月10日発行『精神界』掲載

 

これは清沢の死の7日前に書かれた絶筆です。そして正しく、浄土真宗の「他力」と「絶対無限者」がわかりやすく表現されていると思います。紙の表と裏のように「相対・有限」と「絶対・無限」が存在するのでしょう。それを繋ぐものが「信」ということなのでしょう。

 

学生時代に少し勉強したヴィットゲンシュタイン(1889-1951)の「論理哲学論考(Tractatus Logico-Phirosophicus)大正7年・1918」の一部が連想されます。哲学的思弁、論理で考えて、その先に「わからないこと」がある。それは「神秘」であるとし、哲学者である彼の立場からは「神秘」について語っても意味がないとします。

 

「・世界は成立していうことがらの総体である。

 ・世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。

 ・世界がいかにあるかは、より高い次元からすれば完全にどうでもよいことでしかない。神は世界のうちには姿を現しはしない。

 ・事実はただ問題を導くだけであり、解決を導きはしない。

 ・神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。

 ・だがもちろん言い表しえぬものは存在する。それは示される。それは神秘である。

 ・語りえぬものについては、沈黙しなければならない。」

「論理哲学論考」1918年・野矢茂樹 訳 岩波文庫2003年

 

「紙の表面」を論理的に考えると「その裏面」が見えてくるような気はするのですが。そしてこの論理(相対・有限・人間)の一面を突き詰めていくと究極の問題が立ち塞がります。つまり裏の一面です。仏教にしても科学にしても、その『理性・論理の先・彼方』が、『ぼんやりと出現』してきます。

 

それを『絶対』と言ったり『無限』と名付けたり『神秘』、『仏』、『神』或いは『阿弥陀如来』と呼んでみたりするわけですが、それは『理性・論理』からの一つの『飛・跳躍』です。

 

この紙の「表面」から「裏面」に『飛・跳躍』することを「信仰」というのだと思いますが、まあ、これはあくまでも私の印象です。この場で、ヴィットゲンシュタインと清沢満之をきちんと比較したり、その哲学を掘り下げて考えることは私の能力を超えているので、以下の引用をもってこの話題は終わりにします。

 

「(清沢の)晩年においても『仏とか如来とか云うものはどんな者であるかと云う研究は、無用であると云うこと、よしや研究しようとしても、仏とか如来とか云うものを智力的に解決することは出来ないと云うこと』(信仰問答)を主張する。『全体不可思議なものは、不可思議とも云うことが出来ぬ筈であるのを、絶対無限だとか、不可思議だとか、仏だとか、如来だとか、阿弥陀仏だとか、大日如来だとか、種々様々に名づけて』(同)いるのであるから、『之を推し進めて云うときは、牛が仏だとか、蛇が如来だとか、鰯の頭が絶対無限者であるとか』」(同)ということさえできるのである。― こうして、絶対無限者そのものではなく、絶対無限者といかに関わるかが問題になる。」

「明治思想家論」末木文美士(すえき ふみひこ)(2004年・トランスビュー社)

 

「絶対無限者」との関わりを「宗教、信仰」というのでしょう。

 

さて、先に雑誌『精神界』の発刊で高浜虚子(たかはま きょし・1874-1954)と中村不折(なかむら ふせつ・1866-1943)と三宅雪嶺(みやけ せつれい・1860-1945)が登場しました。

 

清沢の弟子の暁烏敏は毀誉褒貶の激しい人ですが、一方、真宗大学の学生時代から句作、歌作をしていて、高浜虚子の弟子として、また虚子の先生である正岡子規(根岸短歌会、ホトトギス)等ともいろいろ交流があったようです。中村不折は洋・日本画家であり書家ですが、子規の親友でした。また三宅雪嶺は清沢の東大時代の雑誌「哲学会雑誌」のメンバーでした。(No.17 さてさて「孫文のいた頃」参照)

 

このあたりの明治の文人、知識人達の交流は比較的有名ですが、子規と漱石は親友同士で、漱石に「吾輩は猫である」(明治38年(19051月~「ホトトギス」で発表、連載)を書くように勧めるのは虚子で、その「吾輩は猫である」の単行本初版(明治38年(190510月)の挿絵を描くのが不折です。

 

ただ、漱石はちょうど明治33年(1900910日~明治36年(1903120日がイギリス留学で、雑誌「精神界」の世に出ていった時期と重なっています。

 

清沢と子規、漱石は直接の面識はなかったようですが、ともかく暁烏の関係もあり「浩々堂・精神界」と「ホトトギス」がかなり近い関係にはあったようです。

 

そして何より、夏目漱石は東大の学生時代に、清沢満之、井上円了、三宅雪嶺達が創刊した「哲学会雑誌・明治20年(1887)」(No.17 さてさて「孫文のいた頃」参照)の編集委員でした。漱石が東大英文科に入学するのは明治23年(1890)ですから、数年ですれ違ってはいますが、清沢のことは当然知っていたはずです。また、漱石の蔵書の中には、「浩々堂」の門人である安藤州一が清沢の死の翌年に出版した『清沢先生信仰座談』(明治37年・1904)がありました。

 

そして今回、大変興味深い発見をしました。

 

漱石の『こころ』(大正3年・1914)に登場する「先生」の友人として登場する「K」は清沢がモデルになっている…と見る仏教学者もいるということです。『こころ』と言えば、私が高校2年、夏休みの国語の宿題感想文の課題図書で、当時クーラーもない暑い部屋で、あの重々しい、ドロドロした人間関係の本を読み、何でこんなものを高校生に読ませるのか…とあまり感動もせずともかく読み徹し、通り一遍の感想文を書いた記憶があります。しかし今回、清沢満之をそれなりに学習して、66歳になった今、「K=清沢」説は大変興味をそそられました。早速『こころ』を50年ぶりに読み返し、次回は夏目漱石と『こころ』を通して、孫文がいた頃、明治時代を考えてみたいと思います。

中村不折の装丁による「精神界」(明治34年・1901ー大正7年・1918)表紙(大谷大学蔵)
「清沢満之 生涯と思想」2004年 教学研究所(共著)東本願寺出版部

 

以上 

2022年12

 

追記:▶山川異域・風月同天―❸『天平の甍』と鑑真大和上之研究

 

前回、井上 靖(いのうえ やすし・1907-1991)の小説『天平の甍』(てんぴょうのいらか・1957)と美術史家、鑑真の研究者、安藤更生(あんどう こうせい・1900-1990)の『鑑真大和上之研究』(平凡社・1960)を挙げました。『天平の甍』は文化庁の「第8回芸術選奨・1958年」を受け、また映画化もされ、有名ですが、奇しくも、今年50周年の「日中国交正常化」が一役買って当時難しかった中国ロケができたようですね。

 

「1980年1月26日に公開された。製作は芸苑社、配給は東宝。

熊井啓監督が1957年の小説連載開始から映画化を企画していたおり、ねばり強い中国ロケ折衝が実り、非常に困難だった中国ロケの日中国交正常化一番乗りを勝ち取った。最初に1979年6月下旬から8月まで、蘇州を中心に、桂林、北京の故宮などで中国側から全面協力を得てロケをスムーズに行い、同年10月から再び中国ロケを行った。結果的に壮大な中国の観光映画になった。」

Wikipedia「天平の甍」より

 

この映画の監督、熊井 啓(くまい けい・1930-2007)は数々の国際映画賞を受賞した日本を代表する監督で、他には有名な作品として「黒部の太陽(1968)」、「サンダカン八番娼館 望郷(1974)」等があります。

 

さて、新潮文庫版『天平の甍』には評論家・山本健吉(1907-1988)のこんな解説がついています。今から60 年ほど前の美しい日中交流のエピソードです。

 

「『天平の甍』は、南都唐招提寺の開祖である唐僧鑑真の事蹟によって書かれている。

ところで、これは後日譚になるが、今年の秋、鑑真の1200年忌を記念する集会が、北京と揚州で開かれ、さらに鑑真にゆかりの深い揚州の大明寺には、鑑真記念館が建てられることになった。そのため井上氏は、鑑真研究の第一人者安藤更生氏等と中国に招かれ、それらの式典・集会に出席した。

 中国で鑑真の事蹟をこれほど顕彰する切掛けとなったのは、安藤氏の研究と井上氏の『天平の甍』の刺激によるのである。それまでは、まったく知られていなかった鑑真の存在を知り、しかも鑑真を日本へ導いた栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)という二人の日本の学僧を知り、栄叡が雄図半ばに果てた端州(たんしゅう)の龍興寺には、その碑さえ建てるに至ったという。このような鑑真熱は、まったく近々半歳における盛上りなのである。それは政治的な意味をも籠めて、中国の親日熱の高まりに一役果たしたのだった。」

山本健吉 昭和39年(1964)

 

さて安藤更生の『鑑真大和上之研究』はB5判、450ページの詳細・膨大な研究書です。安藤更生が、なぜこれほどまでに鑑真に興味を持ったのかが、私としては気になっていたのですが、この本の「序」に安藤更生の鑑真に対する情熱が語られていました。

 

「私は唐招提寺が好きである。底の深い紺碧の秋空に大棟の鴟尾(しび)が銀灰色に輝くまひる時、霜を置いたやうな満池の月の反射にくつきりと軒影の落ちる夏の宵、遠い大陸の野をしのんでゐるやうな菩薩たちの眸(まなざ)し、ほの暗い開山堂の灯かげに寂然と結跏する盲僧の姿、唐招提寺に残る美術作品への強い嗜好は、いつしかこの寺の創始者である鑑真和上その人に興味を惹かれることになった。

  私がこの僧の行實を知ったのは、早稲田中学の生徒だった時に読んだ和辻哲郎さんの『古寺巡礼』に始まる。本郷の森江書店で唐招提寺版の『東征伝』の古本を買い得た時は天にも上る心地であった。70銭であった事を今でも覚えている。」

「鑑真大和上之研究」序

 

上記、哲学者、和辻哲郎(1889-1960)の「古寺巡礼」は大正8年(1919)岩波書店から出ていますが、安藤が中学に入るのは明治45年(1915)くらいでしょう。そして、この時、早稲田中学に英語の先生として教鞭をとっていたのは、このコラムにも何度か登場している奈良を愛した歌人、美術史家、書家の会津八一です。その時から彼らは終生の師弟関係となります。当然、英語を習っただけではなく、奈良について、美術史について、大きく影響を受けたことと思います。この時期の会津八一と安藤更生の交流も興味深いですが、今、手元に資料がありません。ただ、実際この「鑑真大和上之研究」も会津八一に勧められて執筆を開始します。

 

「昭和17年、内地(日本)出張の要件あり東京に帰って来た。恩師会津八一博士は『お前の鑑真もそろそろ纏めたらどうだ』と云われた。(同上)だからこの本の扉には「恩師 文学博士 会津八一先生に献ず」とあります。

 

安藤更生は昭和12年(1937)から終戦の昭和20年(1945)まで北京の日中合弁、半官半民の出版・印刷会社「新民印書館」に編集者として勤務します。この間に鑑真について実地調査もし写真を撮り、膨大な資料を集め、原稿を書き溜めるのですが、すべて終戦引き上げ時に破棄されてしまったということです。

 

「帰り来つて座した虚室には一巻の書もなかったが…私は慨然として再び稿を起こした。北京の僑宅(仮住まい)にあっては、手を延ばせば架上にあったような書が、この国では専門の大図書館へ行っても見当たらないのである。1行の文を引用しようとするのに300里の遠きを行かねばならないことも屡々であった。殊に残念なのは、私が各地の踏査に作成した遺跡実測図、測量ノート、撮影した1000枚を超える写真原版等の一切を帰国に際して勝利に酔いしれた官憲のために破棄されてしまったことである。」(同上)

 

「天平の甍」の中、「業行(ぎょうこう)」という在唐30年近いという僧が登場します。その間彼はほぼ人と会わず、いくつかの寺を訪れたことがあるだけで、ただ、日本に正しい最新の仏教・経典を伝えるために、30年間ひたすら経典を写し、膨大な経典を蓄えます。当然ですが、当時、経典を持ち帰るにはそれしか方法がなかったわけです。以下、前出の2名の学僧、栄叡と普照の会話です。

 

「いま、自分達のやるべきことは、業行の写した夥しい経巻を日本に持ち込むことと、しかるべき伝戒の師(彼らはこの時点でまだ鑑真に出会っていません。)をこんどは何人か日本へ送り込むことの二つだと思う。それ以外に何があるだろう。俺はこれからこの仕事に全力をつくそうと思う。」(天平の甍)

 

しかしながら悲惨なことに、結論から言えば、業行自身も、業行の書き写した膨大な経典も海に沈んでしまいます。その描写は大変感動的で悲しくせつないのですが省略します。

 

小説『天平の甍』の中で「鑑真渡日の決意」とこの「業行の人生の意味」を考えさせられる2か所がクライマックスです。実際、今、私の所有している新潮文庫版(平成15年11月15日・88刷)の表紙は平山郁夫(1930-2009)です…「天平の甍」に触発されて描いたと思われますが、さすがは平山郁夫であると感動します。生存率50%、「社会的使命感こそ人生の意味、失敗・挫折覚悟の『遣唐使』の特に『学僧』」の絵なのでしょう。当時の知識人・エリートは本当に大したものだとつくづく思います。そして、このような「仏像(経典)」が沈んだ海で今両国がもめているのはとても残念だと思わざるをえません…

 

 

安藤更生の戦争で破棄されてしまった原稿や資料の事から、この箇所を思い出しました。そして唐招提寺も鑑真も歴史上の事となっていますが、それらを支えた何人もの学僧達は歴史の中に消えてしまっています。改めて我々の「生きている意味、仕事の意味」を考えさせられるテーマはあります。

 

さて、12月に関西出張の折に20年振り?以上で唐招提寺を訪ねました。観光シーズンをはずれていたのでとても静かでした。寺の一番奥に「鑑真廟」があります。そしてその脇に「天平の甍」の碑がありました。

 

「鑑真廟」と「天平の甍」碑 202212月・筆者撮影

 

右の「天平の甍」裏にこんな碑文がありました。

 

千載の昔淡海三船元開撰述の

「唐代和上東征傳」あり

早稲田大学教授安藤更生博士

「鑑真大和上傳之研究」を著す

作家井上靖氏その啓示を得て

小説「天平の甍」を世に贈る

大和上の行實巷間に広まるに

両氏の功大なり。

 

一九九六年五月吉日

唐招提寺第八十二世長老 證圓

 

今回で「コラム追記」で3回に渡った「山川異域・風月同天」は終了します。

 

No.17 さてさて「孫文のいた頃」をみるlist-type-white

 

No.19 暮れても「孫文のいた頃」をみるlist-type-white