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国際交流・留学にすぐには役立ちそうにない教養講座㉗


ー世界に「日本が存在していてよかった」と思ってもらえる日本に…

 

No.27 菊 咲くころも「孫文のいた頃」

 

前回は漢字の音読みについて考えてみました。そして下記が前回の末尾です。今回は漢字の「訓読み」について考えてみたいと思います。

 

「国語の最も大きな特色は、漢語である中国の文献を、国語に直して読み下すという訓読法によって、漢籍のすべてを国語化することに成功したことにあると思うのです。」

白川静『白川静先生にお伺いいたします』(インタビュアー:石川九楊)

2002年5・6月「墨」第156号(芸術新聞社)

 

そして、2008年に文化勲章も受賞した米国出身の日本文学者・日本学者ドナルド・キーン(1922-2019)も同じことを言っています。

 

「日本人はオリジナルの表音文字(ひらがな)をもったのです。そして、これによって「漢字仮名まじり文」という発明をしでかした。まるで英文の中に漢字や仮名をまぜたような文章をつくりだしたのです。まことに大胆で、かつ繊細なジャパン・フィルターが作動したものです。できあがった仮名文字は真仮名に対して「平仮名」とも呼ばれます。晩年に日本 国籍をとったドナルド・キーンは「仮名の出現が日本文化の確立を促した 最大の事件だ」と述べました。」

松岡正剛『日本文化の核心「ジャパン・スタイル」を読み解く』

(2020年3月講談社現代新書)

No.25 秋分間近でも「孫文のいた頃」

 

さて、両碩学が日本語、日本文化の最大の特色、事件であると述べている「訓読み」です。

 

確かに「音読み」については「享受・受容の仕方」≒「受け身」だから、それほど緊張感が無くてもなんとかなるような気はしますが、「訓読み」は「能動」だから意識が全く違います…「訓読みの発明」については「音読み」も面白かったけど、更に、ドキドキ、ワクワクします。1500年前のご先祖様のDNAがどこかに残っているのかもしれません。

 

「漢字」の「訓読み」

またまた、小学生の授業のようなタイトルですが、現在、我々があまりに当然に身につけてしまっているこの「訓読み」について、少し歴史的に振り返ってみたいと思います。因みにこの「訓」という漢字の「訓読み・意味」は「おしえる、みちびく、よむ、すすむ、さとる、いましめる、したがう、したう」(『字統』・『字通』)とあります。

 

字訓と訓読法: ここでいう字訓とは、その国のことばで漢字を訓(よ)むことであり、わが国では和訓という。しかしこのような漢字の用法は、わが国の他には殆どその例をみないものであり、また漢字がその音訓を通じてすでに国字であることからいえば、字訓とは即ち国訓である。」

白川静『字訓の編集について』2002年「字書を作る」より(平凡社)

 

「訓」がそもそも「読む」という意味を持っており、つまり我々が日常使用している「訓読み」ですが、正式には「和訓(よ)み」(和式・風に読む)の省略形であるようです。上記の場合「漢字」は「外国文字」のことです。確かに「外国文字」をそのまま日本語読みにするという行為はかなり不思議なことであるでしょう。

 

そして「漢字」は朝鮮半島を経由して伝わったにもかかわらず「当時の朝鮮半島の国々・高句麗、百済、新羅」ではそれ(訓読み)がおこらなかったわけです。朝鮮半島の国々では「助詞」みたいなものを補ってそのまま中国読みしていたということです。

 

「国語の最も大きな特色は、漢語である中国の文献を、国語に直して読み下すという訓読法によって、漢籍のすべてを国語化することに成功したことにあると思うのです。(朝鮮)半島では、漢籍は音読であった。「學而時習之不亦説乎である」のように、原文は句やイディオムのまま音読し、その句切りに、「」「である」に相当する語を、音仮名で小さく加える。いわば宣命書きのような形式です。それで連語は語彙化されるが、字訓の用法は生まれない。しかしわが国では、その文を「學んで時にこれを習ふ、亦(ま)た説(よろこ)ばしからずや」と、完全に国語化してよむのです。」

白川静『白川静先生にお伺いいたします』

2002年5・6月「墨」第156号(芸術新聞社)

 

因みに「宣命書き(せんみょうがき)」について私は知りませんでした。調べるとこうありました。

 

宣命書き:「宣命・祝詞(のりと)などに用いた、漢字による国語の文章表記の形式の一つ。体言や用言の語幹などは大きく、助詞・助動詞・用言の活用語尾などは1字1音の万葉仮名で小さく記した。」―デジタル大辞泉

・宣命(せんみょう):天皇の命令を漢字だけの和文体で記した文書であり、漢文体の詔勅に対していう。

・祝詞(のりと):神道の祭祀において神に対して唱える言葉で、文体・措辞・書式などに固有の特徴を持つ。―Wikipedia

 

 なるほど、そう言えば仏教の「お経」は単純に「全て音読み」ですね。文字を見ず、それをただ聞いただけでは普通意味はわかりません。神道の「祝詞・のりと」にしても「お経」にしても呪文的要素が強かったのでしょうか…お経では節回しもついていたりしますね。ちょっと本旨から逸れますが、有名な「般若心経」の冒頭の例をあげておきます。

 

「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色」これを、普通、ただ音読みして「かんじーざいぼーさーぎょうじんはんにゃーはーらーみーたーじーしょうけんごーうんかいくーどーいっさいくーやくしゃーりーしーしきふーいーくうくうふーいーしきしきそくぜーくうくうそくぜーしき」としています。勿論オリジナルはサンスクリット語で表され、唐代の玄奘三蔵(げんじょうさんぞう602664)が中国語に翻訳したわけですが、まあ身近に色々な、すべて音読みする漢字文化までがありますね…。そして書き下しは「観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行ずる時、五蘊は皆な空なりと照見して一切の苦厄を度したまう。舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ち是れ空、空は即ち是れ色」です。

 

しかし、そうなれば少し気になるのは、何故?朝鮮半島では「宣命書き的な読み」が行われ、倭国(日本)では「訓読法」がとられたのか?ということです。 これ(両地域における「漢字の享受・利用方法」の違い)については様々な研究がなされているかとは思いますが、私はまだ調べられていません…ただ、有名な「白村江の敗戦」(663年)により、唐より侵略される危機意識と相まって倭国独立・統一機運の勃興がありますが、それが関係しているのでしょうか?すこしこの時代のことを復習します。

 

学校教育で学習するこの辺りの時代の日本史は、当然のことながら、歴史とは「ある視点から書かれたもの」ですから、ある程度整然と整理されてメインの出来事が並んでいます。しかし実情は当然、極めて複雑な状態であったようです。以下、「7世紀までの…」と始まる文章で、それは聖徳太子(574622)が活躍する時代ですが、さらに横道に入ることは避けますが、さまざまな研究により最近は聖徳太子の実在さえゆらいでいるのが現状ですから、和語・日本語が発明されていった古代倭国時代の姿を想像するのはなかなか難しいですね。

 

「つまり7世紀までの日本列島の実情は、倭人の聚落と、秦人、漢人、高句麗人、百済人、新羅人、加羅人など、雑多な系統の移民の聚落が飛び飛びに散在する、文化のモザイクのような地帯で、倭国といっても判然たる国境を持つ国家ではなく、倭王があちこちに所有する直轄地というか私領の総和が倭国なのである。つまり倭王というものが先にあってその支配下にある土地とか私領の総和が倭国なのである。倭国という国家があって、それを治めるものが倭王だというわけではない。こういう状態のまま、日本列島の住民たちは、663年の白村江の敗戦を迎えたのであった。」

岡田英弘『倭国』1977年・中公新書

 

まあ、日本列島は上記のような感じであったのでしょう…。そうであるなら、当然、2023年の今日でさえ、少し地域が違うだけで、依然「方言」が残っているわけですから、当時の話し言葉は極めて雑多なものであったはずです。

 

因みに、この岡田英弘(おかだひでひろ、昭和6年・1931‐平成29年・2017年)は東洋史学者で、私はもちろん、学者ではないので東洋史の学術書全体を知るわけもないのですが、かなり個性的な学者のようで、下記にも出てきますが、3世紀末に漢民族は、ほぼ全滅してたという説を立て、学会では異端とみなされている向きもあるようですが、たまたま私はこの本を手にしてわかりやすかったのでご紹介しています。

 

「白村江の戦いの意義は、今日では想像できないほど大きなものだった。第一に、これは国際関係のルールがすっかり変わったことの象徴である。3世紀末(三国時代末)に中国の人口が10分の1に激減してから、長い長いあいだ中国は分裂状態(五胡十六国・南北朝時代…)が続き、周囲の諸民族に対して影響を及ぼすほどの政治力、軍事力をもたなかった。それが唐朝の初期の7世紀半ばには、中国統一の回復と戦乱の終結のおかげで、人口は3世紀の水準にほぼ近い、5,000万人弱まで増加して、再び中国は周囲の諸民族に対して圧倒的な優位に立つこととなった。しかし今や中国は、五胡十六国の乱以来、流れこんだ騎馬民族の血のおかげで再生し、唐という巨大な帝国となって東アジアの頭上にのしかかってきた。百済と高句麗はひとたまりもなく粉砕され、生き残った新羅と倭国は、もはやこれまでのようなルースな組織のままでは存続できないことを悟らなければならなかった。その答えは新しい民族国家を作ることである。つまりはっきりした国境を持ち、その内側に住む人々をすべて組み込む単一の政治組織である。

同上

 

そして、上記への対策としてとられたのが、高校の日本史でも習う、天智天皇(中大兄皇子・626-672)が打ち出してた様々な国防策です。防人(さきもり)の制度、水城(みずき・大宰府に作られた防御のための土塁)、都であった飛鳥京(あすかきょう・現、奈良県高市郡明日香村)から、近江大津宮(おうみおおつのみや・現、滋賀県大津市)への遷都(667年)等です。

 

ただこの辺りの『日本書紀』(養老4年・720)の記述は、当然、当時の権力・編纂者の意図により書かれており、また後の権力者の改竄説まであるようですから、真偽が定まらない部分も多くあるということです。

 

「こうして、倭国から日本国への変貌のための必死の努力がはじまるのだが、『日本書紀』はこの史実を極端に歪曲している。(日本書紀の)『天智天皇紀』は、対馬、壱岐、筑紫、長門、讃岐、大和に築城して、唐軍の侵攻に対する防禦を固めたことを記すだけで、国内態勢の立て直しの努力については一切ふれるところがない。『近江令』の制定さえ黙殺し、日本の国号の採用にも言及していない。」

同上

 

これもまた大変興味深い分野ですが、この辺りで歴史の復習はおしまい。海外(唐)からの脅威が「独立国家建設」を促したということを確認しました…。まあ、何やら、「明治維新」時の状況も重なりますが、ある程度予想通りでもありました。

 

さて「訓読み」にもどります。

 

「とにかく『日本書紀』によって、日本は最初から単一の国家の領土であり、そこに住むものはすべて日本人であるという観念が作り出された。これと同時に進められたのが、日本語という新しい共通語を作り出そうとする努力である。

同上

 

つまり、「海外(唐)からの侵略脅威」に対して、それに対抗するべく、それまで、様々な「文化・言葉」が入り乱れていた、「集落のゆるい集まりである倭国」から、今で言う、統一独立国家「日本国」の建国へと向い、そして、その一環として「言葉・共通語=国語」(和語・日本語)が作り出されたということになります。ただ文字としては漢字が流布・使用されていて、そして、その利用・活用方法として、「訓読み」や、そもそも漢語(外国語)を和語・日本語として「書き下し(翻訳)」て読んでしまう方法が工夫されたことで、朝鮮半島とは別の発展形態をもって書き言葉としての「和語・日本語」が作られてきた、ということなのでしょう。そしてその「訓読みという工夫・発明」は自然の流れでそうなったわけではなく、岡田英弘によれば、意図的になされた、ということです。

 

「人は不思議に思わないのだろうか。『日本書紀』や『古事記』の歌謡や『万葉集』、さらに下っては『古今和歌集』や『源氏物語』の言語には、ほとんどまったくと言ってよいほど、漢語の借用語が現れない。これはなんとも異常ではないか。

 今の日本語の基礎になったのは、7世紀の倭人の言語だと思われる。しかしそれは実際に土着の倭人たちが自分たちだけの間で日常話していた言葉と、どれくらい似ているのだろうか。

 7世紀の日本列島で話されていた言葉には、相互に通じないようなものが数多くあったはずである。倭人の言語を別にすれば、都市の市場や王宮の周辺の農園の言語には、古い辰韓系、弁辰系の華僑の中国語もあったろうし、新しい楽浪、帯方系の高句麗、百済人の言語もあったろう。それは慕容氏の中国語や南朝の中国語の影響の強いものだったろう。これが、秦人とか、漢人とか、新漢人とか呼ばれる人々の言語だったのだが、当然、千年にわたってこうした外国語の影響にさらされてきた倭人の言語には、非常に多量の借用語が含まれていなければならない。

同上

 

上記千年にわたってこうした外国語の影響にさらされてきた倭人の言語ですが、7世紀の1000年前はBC 3世紀頃になります。倭国では弥生時代の後期、朝鮮半島、大陸との行き来があり、大陸では、始皇帝(BC 247-210)の秦が滅び、劉邦(BC 247-195)が「漢」を建国(BC 206)する頃です。

 

遼西郡、遼東郡、楽浪郡、帯方郡、馬韓、辰韓、弁韓、等様々な小国が入り乱れており、右端の「倭」にも小国が割拠していました。

B.C.2世紀末~A.D.4世紀頃の朝鮮半島」『Wikipedia』より

 

そして岡田英弘は続けます。「ところが、『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』の、奈良朝期の日本語と称されるものは、語彙の面ではきわめて純粋で、中国語の影響は無に等しい。これは不自然である。奈良朝の日本語なるものは、7世紀以前の倭人の言語そのままではあり得ない。」つまり、我々の知っている『記紀』『万葉集』の「和語・日本語」は、下記のように作られたと説明しています。

 

「天智天皇の日本建国の当時、独自のアイデンティティを保つためには、中国語系の言語も採用できなければ、新羅と共通の要素の多い百済、任那系の言語も採用できなかった。残る選択は倭人の言語だが倭人はこれまで都市生活と縁が薄く、したがって文字の使用にも熟していなかった。新しい国語の創造を担当したのは、これまで倭国の政治、経済の実務にたずさわってきた華僑である。かれらの共通語は、朝鮮半島の土着民の中国語である。それが自分たちの言語を基礎として、単語を倭人の土語で置き換えて、日本語が作り出された。日本語の統辞法が韓国語に似ていながら、語彙の上でほとんどまったく共通なものがないのはこのためであり、また日本語に漢語が絶無に近いのもこれが原因である。日本語はこうして作られた、人口的な言語であった。倭人の言葉とは、おそらく非常に違っているのであろう。」

同上

 

さてここで「国家と言語」という問題と「国語創造」の過程が説明されています。「国家と言語」も極めて興味深いテーマですが、しかし深入りもできませんので少しだけ。

 

それまでバラバラだった「複数の集落・共同体」が統一される時、その「複数の集落・共同体」には「共通の言語」が必要となります。今、どこに書いてあったか思い出せませんが、白川静は「日本に文字が誕生しなかったのは強力な権力による統一がなかったからだ。」という意味のことをどこかで語っていました。確かに秦の始皇帝も「度量衡の統一」、「文字の統一」を行い、「文字・漢字」は「小篆」書体に統一しました。確かに「言語・文字」も「度量衡」に似たような面がありますね。われわれは現在「標準日本語」を使用することが多いわけですが、自分の出生した故郷の言葉(方言)で自分自身の根底が形成されているのも事実でしょう。(ただ、共通語・外国語を学ぶことによって世界が広がるのも事実です…)「国家と言語」の関係を考えることは魅力的ですが、「国語創造」と「訓読み」にもどります。

 

つまり、日本(倭)における「国語創造」の方法とは「訓読み方法」という発明です。そして、もちろん、同時に起こる事象ですが「仮名」の発明です。「『仮名』という『訓読み』の表記方法」(次回のコラムで扱いたいと思います)が同時に必要になってきます。上記では、朝鮮半島土着民の中国語を基に、単語を倭人の土語に置き換えていった、と「訓読み」についてサラッと説明していますが、石川九楊はその「訓読みの発明」の過程を下記のように説明しています。

 

「第1に漢語、漢文、漢詩の宇宙が流入し、音とともにその概念が理解され、有文字知識層に広範囲に使用されるようになった段階がある。

 ここでは中国語(漢語)の音読がしきりになった。漢委奴国王の庭でも、卑弥呼の庭でも漢詩・漢文・漢語が乱れ飛んでいたのである。

 そこにどのような現地語(種々雑多な倭語)があったにせよ、いったん高水圧の漢字語圏に編入されるや、政治や宗教や思想にまつわる言葉は漢語に吸収され尽くした。

 それは大陸(中国)、半島(朝鮮)、南方(越南)も同様であった。大陸の各国(地方)語は基本的にこの言語に吸収され尽くして、いわゆる中国語圏として組織され、そこから逸脱することのなかった地方となる。

これに対して、その中から、片仮名、平仮名を生むことによって日本が、そしてハングル(発明は15世紀半頃)を生むことによって朝鮮が、また字喃(チュノム)(発明は10世紀頃)を生むことによって越南(ベトナム)が生れていったのである。

 日本も朝鮮も越南も(独自文字が)もともとあったのではなく、漢字以外の新しい文字とその文字言語域を開発し、その度合いに応じて大陸から独立の度合いを強めていったのである。

 その先頭を切ったのが、孤島・日本であった。おそらくは大陸と海を隔てていたゆえに、漢語脈への違和感はいち早く生じた。

 

次いでこの漢語の概念に地方語(倭語・方言)を衝突・短絡させて、その翻訳語(訓)を定立させ、使い込んでゆくことになった。ここでとても重大な事実を指摘しないわけにはいかない。

いわゆる「倭語(和語以前)」や「和語」は、漢語流入以前にあったというよりも、漢語を漢語の宇宙内にとどめておくのではなく、現地語脈の中まで引きずり込まんとして生まれた漢語の翻訳語として作られた新しい言語である。7世紀の半ば以降、この大陸からの文化的独立の過程を通して、中国語との関係に「倭語」や後の「和語」は、漢字の音読ならざる訓音の「訓語」として作られていったのである。」

石川九楊『万葉仮名で読む「万葉集」』2011年・岩波書店

石川九楊(いしかわ きゅうよう昭和20年・1945 – )書家・書道史家

ようやく「訓読みの発明」までたどりつきました。外国語として「山(サン、セン)」と発音、受け入れていたものを、同じ意味を持つ倭・和語で(ヤマ)という発音を当て、倭・和語に翻訳したわけです。

 

そして外国語である「漢語」には当然「倭・和語」に無い概念の言葉もあったわけで、それは「倭・和語」として作っていったのでしょう。(この辺りの作業も明治初期の外国語翻訳の作業に似ていますね…。)

 

「和訓」について白川静はその利点をこう解説しています。

 

「このように漢字をすべて訓に直してよむと、同訓の字がたくさん出てくる。たとえば国語の「おもふ」という語には、漢字では思・念・想・以・意・憶・懐・謂などがあり、みんな「おもふ」とよむ。それらの字の意味内容はそれぞれに違うが、訓としては「おもふ」とよむ。国語の「おもふ」は「面(おも)ふ」、心のうちが、表面に、顔に出るとい意味ですが、思・念以下を「おもふ」とよむことによって、国語の「おもふ」という語の意味領域が、思・念以下の漢字のもつ意味を、すべて吸収し包摂するのです。国語のはたらきが漢字を背景にもつことによって進化する。未開社会のことばと同じ次元のものであった古代の日本語は、漢字を訓読し国語化することによって、その表現力を高めることができた。語義の振幅が拡大され、語の内包はゆたかとなった。文字以前とそれは次元が異なるほどの相違であったであろうと思うのです。」

白川静『白川静先生にお伺いいたします』(インタビュアー:石川九楊)

2002年5・6月「墨」第156号(芸術新聞社)

 

訓読みの効果ですね。なるほど漢語で記された文章の中に登場する上記の漢字を訓では同じ「おもふ」と発音しても、何種類かの似たしかし違う「おもふ」という概念を外国である「漢語」を学習することによって使い分け、倭語の語義を豊にすることができたわです。

 

でも、それでは「統辞法、文法」はどうしたのでしょう?次回は「訓読み」に伴う「統辞法、文法」について考えてみたいと思います。「仮名の発明」まで…まだもう少しかかりそうです…。

以上

 

追記:白川静エピソード➋

前回を受けて、白川静の『孔子伝』について触れます。『孔子伝』を読んで、初めて知ってビックリした一節があります。『論語』、『孟子』等、「儒教」の中で、人として、最も大切な徳目の概念である「仁」(おもいやり・なさけぶかい・いつくしむ・あわれむ・めぐむ・したしむ・なごむ・)という「漢字」を孔子が初めて、上記訓読みのような用例で使用したというのです。

 

仁というのは、孔子が発明した語であるらしい。孔子以前の用例としては『詩経』に2例があるのみである。〈中略〉仁は、多くの徳目の名を用いている両周の金文にもなおみえない字である。

 孔子が、従来その意味に用いられたことのない仁の字を、最高の徳の名としたのは、「仁は人なり」(仁者人也・『中庸』)ともいわれるように、同音の関係によって、いわば全人間的なありかたを表現するにふさわしい語と考えたからであろう。そしてこれによって、伝統的なものと価値的なものとの、全体的な統一を成就しようとしたのであろう。克己復礼が仁であるというのは、社会的な合意としての礼の伝統を、その主体的な実践のなかで確かめるという意味と思われる。仁は単に情緒的なものではない。「あはれ」というような感情でなく、きびしい実践によって獲得されるものである。しかもその実践は、行為の規範としての礼の伝統によるものでなければならない。

 孔子の思想、従って儒教思想の中心をなすものは、仁であるといわれている。事実、『論語』の中には、仁を論じた章が甚だ多く、約400章のうち58章に及んでいる。そのうち直接に孔子の語として述べられているものは、55章であるが、孔子みずから仁を規定したものは1章もない。仁を規定することは、孔子においても不可能であったのであろう。あるいは、規定することは限定することに外ならないから、孔子はあえてそれを避けたのだろうと思われる。〈中略〉また「仁を為すは己に由る。人に由るならんや」(『論語・巻第6顔淵第12』)というのはもちろん行為の主体としての我をさしている。これがおそらく、孔子が仁に与えた唯一の規定ではないかと思う。もし伝統と価値との同時的な統一、すべてのものがここにおいてあるという場としてのそれが仁であるとすれば、それはまことにみごとな伝統の樹立のしかたであるといえよう。儒教はここに成立する。儒教が孔子の仁において成立するとされるのは、この意味に外ならない。」

白川静『孔子伝』(1972年・中公文庫)

 

孔子より200年の後に孟子が現れます。高校生の時に習った下記の文章ですが、当時、2400年も前の文章なのに、なんと解りやすい比喩で、「勉強の目的」を定義して、それを、なんと颯爽(さっそう)としたスタイル・文体で表現しているんだろうと思ったものです。

 

「孟子曰、仁人心也、義人路也。舎其路而弗由、放其心而不知求。哀哉。人有鶏犬放、則知求之、有放心而不知求。学問之道無他、求其放心而已矣。

孟子曰く、仁は人の心なり、義は人の路なり。其の路を舍てて由らず、其の心を放ちて求むることを知らず。哀しいかな。人、雞犬の放つこと有れば、則ち之を求むるを知るも、放心有りて、求むることを知らず。学問の道は他無し、其の放心を求むるのみ、と。」

『孟子・告子章句上・十一』

 

『No.24 盛夏でも「孫文がいた頃」』で、「武士道の源」には「陽明学・(儒教)」があるのではないか?というところから、「儒教」『論語』、と遡り、遂に大陸文化の影響としての「漢字受入れ」にまで、さらに歴史を辿り、「漢字文化」の受容として「音読み」、「訓読み」へと展開してしまいました。脱線している部分もありますが、常に「孫文がいた頃」を意識しています。今、或いは未来を考えるために過去に遡っているわけですから…。

 

松下村塾で吉田松陰が、主に教えていたのは『孟子』です。200年の(も?)違いなのに『孟子』にはかなりの「革命思想」があります。そして颯爽としたダンディズムがあります。勿論『論語』にも、そんな面は感じますが、特に「颯爽」部分を孟子は受け継いだのでしょうか?これはかなり興味深いテーマですね。

 

『孟子』から「陽明学・武士道」は直ぐです。上記の「学問の道は他無し、其の放心を求むるのみ」…「勉強・努力・研鑽の意味・意義」は、決して「出世・お金儲け・評価される、有名になる、よりよい暮らしをする」とかではなく、「より色々な事を知って豊に生きる」とかでもなく、さらに、「人のために役立つこと」とかですらなく…菊を愛する隠者のような「自然同化」ですらなく…「人として誠実」であるための「克己復礼・修行・努力」が「学の意味」となるのかと思います。

 

そして、この「仁は人の心」「その心を求めることが勉強」ということを、小学生でもわかるように、わかりやすく説いた文章が下記です。

 

「人間は、助け合って生きているのである。

私は、人という文字を見るとき、しばしば感動する。ななめの画がたがい に支え合って、構成されているのである。

そのことでも分かるように、人間は、社会をつくって生きている。社会とは、支え合う仕組みということである。

原始時代の社会は小さかった。家族を中心とした社会だった。それがしだいに大きな社会になり、今は、国家と世界という社会をつくり、たがいに助け合いながら生きているのである。

自然物としての人間は、決して孤立して生きられるようにはつくられていない。

このため、助け合う、ということが、人間にとって、大きな道徳になっている。

助け合うという気持ちや行動のもとのもとは、いたわりという感情である。

他人の痛みを感じることと言ってもいい。

やさしさと言いかえてもいい。

「いたわり」

「他人の痛みを感じること」

「やさしさ」

みな似たような言葉である。

この三つの言葉は、もともと一つの根から出ているのである。

根といっても、本能ではない。だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばならないのである。

司馬遼太郎『二十一世紀に生きる君たちへ』(1989年・大阪書籍「小学国語・6年下」

 

孟子廟(孟廟・亞聖廟)山東省鄒城(すうじょう)市南関、孔子廟のある曲阜から30キロも離れていません。2018年8月 筆者撮影

 

 

No.26 秋分間近でも「孫文のいた頃」をみるlist-type-white

 

No.28 凩吹くころでも「孫文のいた頃」をみるlist-type-white