国際交流・留学にすぐには役立ちそうにない教養講座56
ー世界に「日本が存在していてよかった」と思ってもらえる日本に…
国際交流・留学にすぐには役立ちそうにない教養講座
No. 56 千里鶯啼緑映紅の「孫文のいた頃」
江南春 杜牧
千里鶯啼緑映紅 水村山郭酒旗風
南朝四百八十寺 多少楼台煙雨中
《江南ノ春》
千里鶯啼イテ緑紅ニ映ズ 水村山郭酒旗ノ風
南朝四百八十寺 多少ノ楼台煙雨ノ中
【杜牧・とぼく】803-853晩唐の詩人。杜陵県(現在の陝西省西安市雁塔区三兆邑西北)の人。杜甫(712-770)の「老杜・大杜」に対し「小杜」と呼ばれる。
【大意】「見晴るかす広い田園地帯にウグイスがさえずり、遠くの、水辺の村や山の村も見え隠れして、そこには「居酒屋の酒あり〼の旗」も見える。それにしてもかつてここは南朝が栄えた場所で多くの寺があったが、今は多少の楼台が、春の霧雨の中にあるのか、それは南朝を懐旧する私の涙なのか…」
【語註】「江南」:長江(揚子江)中流・下流の南岸地域。「緑映紅」:新緑が紅の花に映える。「水村」:水辺の村。「山郭」:山沿いの町村(郭は町村の囲い)。「酒旗」:酒屋を知らせる標旗。「南朝」:漢民族4王朝の総称。宋(420-479)・斉(479-502)・梁(502-557)・陳(557-589)建康(今の江蘇省南京市)に都を置いた。同じく建康(建業)に都をおいた三国時代の呉、東晋と南朝の4つの王朝をあわせて六朝(りくちょう)と呼び、この時代、三国時代から南北朝時代までを六朝時代とも呼ぶ。南朝では政治的な混乱とは対照的に文学や仏教が隆盛をきわめ、六朝文化と呼ばれる貴族文化が栄えて、陶淵明や王羲之などが活躍した。
【遊び】七五調訳・井伏鱒二の『厄除け詩集』に倣って:
「アタリハ一面、春景色。ウグイス啼クシ、花ザカリ。水辺ヤ山ノ村々ニ、酒屋ノ旗モヒルガエル。ダガココハ、ムカシノ金陵、夢ノアト、寺モタクサン栄ヘタソウナ。タショウノ楼台霞ムノハ、ワタシノナミダカ、ハルサメカ。」
この詩に初めて出会ったのは、おそらく高校2年生の漢文の授業だったかと思います。或いは先生から詩の背景等についての説明もあったのかもしれませんが、そのあたりは全く覚えていません。当時はただ、勝手に中国大陸の「揚子江」(この名前だけでもワクワクしていました…)の南側流域の広大な田園風景と一方、その中に点景のようにポツンと、春風に揺れる「酒あり〼」の旗を、勿論当時、お酒などわかるはずもないのですが、想像して、何と美しくも雄大かつ繊細な詩なんだろう…と感動し、それ以来、この時期、春になると、折に触れては、当時から暗誦していたこの詩を思い出し、その江南の春の風景と翩翻と翻る「酒旗」がよみがえり、そして結果、どんなお酒を呑んで100倍美味しくなるという恩恵を、身勝手に受けてきたのでした。
しかしながら…この詩が、ただ美しい春の田園風景を詠んだものではないということを知ったのは、大人になってだいぶ経ち…司馬遼太郎の下記の文章を読んでからでした。
「のち、唐の詩人杜牧(803-531)は江南の春にあそび、雨にけむる寺々を遠望して南朝(六朝)をしのぶのである。《千里鶯啼イテ、緑紅二映ズ。水村山郭、酒旗ノ風》という。江南の春の水田風景を詠んで、これ以上の詞華があるだろうか。
さらに、《南朝四百八十寺、多少ノ楼台、煙雨ノ中》、とむすぶのは、叙景よりも六朝のはかなさを悼んでいるのである。儚さは春の雨に似ている。作者をわすれたが《三月ノ雨ハ六朝ノ涙ニ似タリ》という六朝回顧の詩句もあって、どうやら唐代では六朝は頼りなく、ものがなしいとされていたらしい。
ところが古代日本にまっさきに入ってきた “中国文明” は、のちの隋・唐よりも、六朝文化だった。これは後世への文化遺伝の因子として決定的だったのではないか。」
司馬遼太郎『この国のかたち』第1巻-20「六朝の余風」(文春文庫・1993年)
そうなると…やはり…もう一篇、春の六朝懐旧の詩。
金陵圖 韋荘
江雨霏霏江草齊 六朝如夢鳥空啼
無情最是臺城柳 依舊煙籠十里堤
金陵ノ図
江雨霏霏(ひひ)トシテ江草齊(ひと)シ 六朝夢ノ如ク鳥空シク啼ク
無情ハ最モ是レ台城ノ柳 旧ニ依ッテ煙ハ籠ム十里ノ堤
【韋荘・いそう】836-910。晩唐の詩人。京兆杜陵(けいちょうとりょう・現陝西省西安市東南)の人。韋応物の子孫。
【語註】「金陵図」:金陵の風景画、それを見て詠んだ詩。金陵は今の江蘇省南京市の古称。六朝時代は建康、南朝歴代王朝の都。「江雨」:長江(揚子江)に降る雨。「霏霏・ひひ」:雨や雪などが絶え間なく降りしきる様子。「江草」:川辺の草。「斉・ひとし」:一面に茂っている様子。「台城」:六朝時代の天子の御所。玄武湖畔の建康宮を指す。「依旧」:昔のままに。「煙籠」:緑のしだれ柳が芽吹いて、春雨にけぶって見える様。「十里堤」:玄武湖畔の長い堤。
【大意】長江に春雨が降りしきり、川辺には草が一面に茂っているが、かつての六朝の都、金陵は夢のように消え去ってしまい、鳥だけが虚しく啼いている。最も無情(無常)を感じるのは、建康宮殿跡の柳の木々、それら草木は昔と同じように10里の堤を春雨の中に緑色にけぶらせている。
司馬遼太郎は、この「六朝文化」が「百済」経由で日本に入り、その後の日本に与えた影響についてさらに語ります。6世紀前半のことです。
「百済は、中国文明を受容するにあたって高句麗がはばむ北の陸路をとらず、ごくろうにも海路をとった。はるかな長江下流まで航海して、その流域の六朝の文化を吸収しつづけたのである。
仏教の輸入に熱心だったのは、百済の聖王(在位523-54)のときであった。
百済の聖王は六朝のうちの梁という小王朝に毛詩(詩経のこと)の博士や涅槃経(ねはんぎょう)の註釈書、さらには工匠および画師を送ってほしいと請うて容れられた。541年のことで、おもしろいことに、右から左にわたすように(欽明天皇13年)、この王は日本に仏教や経論を送ってきている。
つまりは六朝文化が、百済を通じて日本へ洩れつづけたといっていい。当時の日本は、長江の中下流にある六朝のことを、〈呉・くれ〉とよんでいた。
六朝の中国語-建康(南京)のことばーを “呉音” とよび、漢籍も仏典もすべて呉音で音じた。
いまなお、ふるい時代に日本語のなかに入った漢字表記のことばは、呉音つまり六朝語で音ずるのである。
上代日本は、六朝がほろんでから、遣隋・遣唐使を派遣するようになり、使節団が長安に入って音が異なることにおどろき、当惑した。あらたに導入した長安音は “漢音” とよばれ、いまなお呉漢両様が併用されている。
呉音という六朝の音は日本語のなかに豊富にのこっているが、数詞が呉音であることは暗示的である。
つまり、イチ・ニ・サンと呉音でよんで、漢音であるイツ・ジ・サンとはいわないのである。暦もそうである。正月元日は漢音ならセイゲツ・ゲンジツだが、呉音でなければ日本語にならない。
奈良・平安朝はすでに中国では唐の時代だし、遣唐使も派遣していたが、しかし六朝の遺風は消えず、貴族制は厳守され、とくに平安貴族の文化を特徴づける風流韻事は “清談” こそなけれ、六朝の風がそのままつづいた。要するに、公家はたっぷりと六朝ふうだった。
その文化的後裔として、冒頭の足利義政(1436-1490)を考えてもいい。
義政には武家的要素よりも平安以来の公家文化の影響が濃く、ただ禅を好んだ点では、武家一般と共通している。おなじ禅でも、義政の禅は六朝の貴族たちが初期の禅を形而上的な遊びとして好んだように、きわめて美学的なものだった。かれもまた六朝人といえなくもない。
私は、日本は明治維新以後、日本の為政者はようやく六朝風を脱したというふうに、本気で考えている。そのことの得失はべつである。」(同上)
大変興味深い文化考察であると思います。因みに以下は「音読みの種類」の復習で、No.26「孫文のいた頃」からの引用です。
◆音読みの種類「呉音」、「漢音」と「唐宋音」
さて、ちょっとここで3種類ある「音読み」について整理しておきましょう。
・呉音(六朝語)-中国大陸の南方系(長江・揚子江下流地域)の発音(仏教等を中心に5~6世紀に倭国に入る)
・漢音-中国大陸の北方系(黄河中流域・長安)の発音(遣唐使等を中心に7~9世紀に日本に入る)
・唐宋音-中国大陸の浙江地域(杭州市辺り)の発音(禅僧、交易を中心に10世紀以降日本に入る)
以下、それぞれ発音の例です。
【註】:No.26「孫文のいた頃」の表に少し手を加えました。「ピンイン」表記はせず、あえて普通一般の日本人の耳で捉えられる、日本語音(当然、かなりの誤差はあります…)での「漢語発音」の表記です。(呉・漢・唐宋音についてはWikipediaから)

先ほど、私の数字の読みの錯覚の話をしましたが、つい我々が日常的に使っている「イチ、ニ、サン、シ」ですが、あまりに身近なため、これも訓読みと勘違いしてしまうということです。勿論、言われれば「ヒ、フ、ミ、ヨ」が訓読みであることは当然知っているのですが。
古代日本(倭国)での数字の発音は「呉音」がそのまま使われていたようです。勿論、「漢字」を読むこと自体、当時ごく少数のエリートに限られていたわけですが。」
それにしても、1500年も前の中国大陸の発音を、現在日本で全く普通に使用されているということ、しかもそれは「百済」を経由して伝わったことは、あらためて、或る意味驚きでもあります。学校教育でもこのレベル位は教えるべきであると思いますが、現状はどうなのでしょうか?
さて冒頭は最近「和漢朗詠集」に倣っているので、和朝の詩を一首あげておきます。西行(1118-1190)の歌です。多少、上記「六朝文化」にこじつければ、すぐに散ってしまう桜の、その儚さと美しさを西行は愛し、それはそのまま「六朝の花」のようでもあります。
ここで優劣を論じるわけではないのですが、ふと「六朝の花」から連想したことを2つ。
・韓国は国花として「ムグンファ・無窮花」をあげています。日本語では「木槿・むくげ」(中国語・ムーチンから)です。美しい、華やかな花です。ただ「花自体」は1日程で萎みますが、「その木」に咲く花としては、次々に咲き…7~10月くらいまで…長く咲き続けます。だから「無窮花」なのでしょう…国花制定はいつなのか?歴史的・伝統的ものなのか、最近なのか…そこまで手が回りませんが、気になります…。
・大阪の「造幣局の桜通り抜け」。20年程前に行ったことがあります。基本、八重桜です。まあ、通り一遍的な表現ですが、武士はほぼ存在せず、「商人の町」でした。だからなのか造幣局だからだったのか…極めて豪華な八重桜です。
今、ポピュラーなのは「ソメイヨシノ」、江戸期での品種改良ですね。西行当時は当然、素朴な「ヤマザクラ」であったはずです。
さて、ここまで前置き…下記は、私が西行「桜歌」の中で一番好きな歌です。
花を待つ 心こそなほ 昔なれ 春には疎く なりにしものを 西行
【西行・さいぎょう】1118-1190・北面の武士、僧侶、歌人。俗名は佐藤義清(さとうのりきよ)
【大意】桜の花が待ち遠しい気持ちだけは昔と全く変わらない…春とか、暖かくなるとかは、どうでもよくなってきているが…

左:西行墳墓(桜の花びらが散り敷いています) 右:その墳墓がある西行終焉の地:弘川寺(ひろかわでら)大阪府南河内郡河南町弘川・真言宗醍醐派準別格本山
写真・図は槇野尚一『西行を歩く』(1997年・PHP研究所)より
倣 和漢朗詠集
ホントは以上が《コラム》というものなのかもしれませんね…ここ1~2年やってきた作業は…実はホントでなくても…一体何なんでしょう…?つまり以下から延々と始まる…考察のことです。
◆これまでの流れと復習
そもそもの発端は、No.39「孫文のいた頃」で取り上げた「国や文化によって異なる時間の概念」を知りたかったのでした。そして、勿論その背後には「日本とは何か?」という大テーマがあり、その一環として「日本の時間観」を探りたいと考えたのでした。当初、加藤周一(大正8年・1919-平成20年・2008)の『日本文化における時間と空間』岩波書店・2007年を参考に、古代ギリシア、キリスト教、古代中国の「時間概念」「歴史観」を比較検討してきました。
そこで遭遇した難関が「仏教の時間観」でした。「仏教時間観=無常観」くらいの認識の私でしたが、「仏教の時間観」とは即ち「華厳・唯識哲学の時間論・存在論」で、即ち「時間=存在=非連続」という大変な「哲学」でした。これについて2024年11月、No.41「孫文のいた頃」から前回のNo.55「孫文のいた頃」まで、1年以上(14回)をかけて、井筒俊彦の著書『コスモスとアンチコスモスー東洋哲学のために』(1989年・岩波書店)の読解勉強という形式で考えました。その「仏教の時間観」の正体とは井筒俊彦曰く「道元の時間哲学に窮極する(と私の考える)大乗仏教の時間論的思想」でした。そして最終的に道元の『正法眼蔵』の《有時》をともかく、おそらく私の理解度6~7割で読了したのでした。
そもそも、加藤周一は「仏教は時間をどう考えてきたか。その問題を体系的に論じることは、本書の領域をはるかに越える。」と、忠告してくれてはいました。そして端的に、下記のようにまとめてくれていたのですが…。
「仏教にはまた時空間を〈空なるもの〉とする考え方もある。時間的および空間的距離は現実の一つの現れ方にすぎない。もう一つの現れ方は宇宙の一体性である。現実は距離〈差別〉としてみることもできるし、一体(唯一なるもの)としてみることもできる。万物は一であり、一は万物である。過去・現在・未来は永遠の今であり、永遠の今は過去・現在・未来である。この考え方は、歴史的時間の概念の一つの類型ではなく、時間そのものの超越である。」
加藤周一『日本文化における時間と空間』岩波書店・2007年
なるほど、1年以上をかけて学習してきた「華厳の存在時間論」から考えれば、上記「時間そのものの超越」を、今ならある程度は理解できますが、当時はよくわかりませんでした。さて、これから、日本における「歴史的時間の概念」にもどりたいと思います。
◆日本文化にはどういう時間概念があったか、あるいはどういう時間意識が日本文化の中に生きていたか?
以下はNo.40「孫文のいた頃」からの引用です。
▶ユダヤ・キリスト教的時間観:宗教観に由来する、始めあり終わりある「線分的時間観」
▶古代ギリシアの時間観:天体の観測に由来する「円周上の循環時間観」
▶古代中国の時間観:栄枯盛衰の観察による「循環時間観」と、人生の無常観に由来する始めも終わりも無い「無限直線的時間観」の複合
▶仏教における時間観:「輪廻」、「因果論」、「末法思想」そして時間概念の超越「過去も現在も未来も常に永遠の現在」の複合
▶日本文化の3つの時間観:『古事記』に見られる、始めも終わりも無い「無限直線的時間観」と四季の交替に由来する、また盛者必衰の「(中国からの影響による)円周上の循環時間観」と諸行無常観に由来する、始めあり終わりある「線分的時間観」
上記、結論を先にあげて、上から順番に考察しましたが、「仏教における時間観」で1年以上を費やし、ようやく「日本文化の3つの時間観」考察に入ります。
▶『古事記』の時間観
『古事記』における時間観を考えてみましょう。先ず『古事記』とは何かを簡潔に。
「日本の神話の最古の系統的記述は、『古事記』にみられる。3巻から成り、上巻がいわゆる『神代記』で、神々の系譜と挿話を述べ、中・下巻が大和朝の伝説的および歴史的な王(天皇)の系譜を年代順記録する。編纂は朝廷の命令により、8世紀初である(〈序〉は712年完成という。現存する最古の写本は14世紀)。
加藤周一『日本文化における時間と空間』
『古事記』の冒頭は下記のように始まります。
「天地初めて発(ひら)くる時に、高天原に成りませる神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。次に高御産巣日神(たかみむすひのかみ)。次に神産巣日神(かむむすひのかみ)。此の三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)と成り坐して、身を隠したまひき。」
【語註】「天地初めて発くる時」:渾沌の世界が天と地に初めて分かれる時点から『古事記』神話はスタートする。「高天原」:たかあまのはら・単なる天ではなく、神々のいる天上世界。「天之御中主神」:天の中央神。「高御産巣日神」:中国の道教神話の司令=上帝・天帝に発想を持つ最高神。神産巣日の神を加えて造化三神ともいう。「独神」:まだ一対の男女に揃うに至らない単独の神。
中村啓伸(なかむらひろとし・1929-)訳注『古事記』角川ソフィア文庫・2009年
この「三神」の後に「二神」が出現しますが、やはり「独神」、それから更に「十神」が次々に出現し、その最後の2神が有名な「伊耶那岐命・いざなぎのみこと」、「伊耶那美命・いざなみのみこと」で、海から島々を出現させ、この2柱が結婚して子孫を残していくことになります。
「(古事記冒頭の)《神代記》は〈天地初めて発けし時〉の一句で始まる。古事記《序》は〈乾坤初分・乾坤=天地初めて分かれ〉とあり、〈発けし時〉は天地の分れた時を意味するだろう。その時、天上に天之御中主神をはじめとして三神が〈成った〉という。その後も次々に〈成れる神の名〉を列挙する。これは〈旧約聖書〉の〈創世記〉とは著しくちがう。天地の分れる状況は、全く語られていない。しかも天地は〈分れた〉ので、誰かが〈分けた〉のではない。天地はそこで創造されたのではなく、一体化していたものが分離したのである。同時に最初の三神が成った。しかしその性質は人の目に見えない〈身を隠したまひき〉ということの他に何もない。その行動も記述されない。現にその次に出現した神々も彼らが生んだのではなく、彼らとは独立に成ったのである。かくして一度成ったアメノミナカヌシは、再び〈古事記〉の記述にあらわれることがない。《神代記》の冒頭を天地創造の神話とみなすことはできず、そこに時間の出発点を見出すこともできないだろう。そこに反映しているのは、歴史的時間の始まりという意識ではなく、単に無限の時間をさかのぼっての遠い昔という考えにすぎない。大和の王朝は、自らを正統化し、権威づけるために、その起源を遠い昔にさかのぼらなければならないという考えを、大陸から学んだのであろう。かくして次々に神々が成り、遂にイザナギ、イザナミの男女の神が成る。イザナギとイザナミは交接して、次々に島を生み、〈大八島国・おほやしまぐに〉(日本列島)を生みだす。これが国土の起源である。」
加藤周一『日本文化における時間と空間』
【語註】「旧約聖書の創世記」の冒頭:
1.はじめに神は天と地とを創造された。
2.地は形なく、虚しく、闇が淵の表にあり、神の霊が水の表を覆っていた。
3.神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
4.神はその光を見て、良しとされた。神はその光と闇とを分けられた。
5.神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第1日目である。
6.神はまた言われた、「水の間に大空があって、水と水とを分けよ」。
7.そのようになった。神は大空を造って、大空の下の水と大空の上の水とを分けられた。
8.神はそのおおぞらを天と名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である。
9.神はまた言われた、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」。そのようになった。
10.神はそのかわいた地を陸と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、良しとされた。
1.In the beginning God created the heavens and the earth.
2.The earth was without form, and void; and darkness was on the face of the deep. And the Spirit of God was hovering over the face of the waters.
3.Then God said, “Let there be light”; and there was light.
4.And God saw the light, that it was good; and God divided the light from the darkness.
5.God called the light Day, and the darkness He called Night. So the evening and the morning were the first day.
6.Then God said, “Let there be a firmament* in the midst of the waters, and let it divide the waters from the waters.”
7.Thus God made the firmament, and divided the waters which were under the firmament from the waters which were above the firmament; and it was so.
8.And God called the firmament Heaven. So the evening and the morning were the second day.
9.Then God said, “Let the waters under the heavens be gathered together into one place, and let the dry land appear”; and it was so.
10.And God called the dry land Earth, and the gathering together of the waters He called Seas. And God saw that it was good.
【註】firmament*:大空・天空

システィーナ礼拝堂(15世紀後半・バチカン市国)の天井画 ミケランジェロ(1475-1564)作(1508-1512)
左から、『創世記』より「光と闇の分離」、「太陽、月、植物の創造」、「地と水の分離」、「アダムの創造」
敢えて、英文をあげたのは、この古代ヘブライ語で記されたという『創世期』ですが、それが子供でも理解できる、あまりにもわかりやすい英文になっていたからです。もっとも日本語訳にしても、それを訳しているわけですから、極めて平易な言葉で表現されていますが…。そして、勿論、この『旧約聖書』冒頭の《創世記》を知らなかったわけではありませんでしたが、『古事記』と並べて、改めて読んでみると、なるほど、加藤周一の言うように「これは〈旧約聖書〉の〈創世記〉とは著しくちがう」ことがよくわかります。
因みに『旧約聖書』の成立は前5世紀頃といわれています。そして念のため蛇足的説明。基本「ユダヤ教」の聖典がこの『旧約聖書』であり「ユダヤ教」にとっては、聖典とはこの『旧約聖書』のことであり、『新約聖書』を認めず、逆に「キリスト教」にとって『旧約聖書』は『新約聖書』の前提的存在になります。
そして『古事記』では、この「伊耶那岐命・いざなぎのみこと」から、太陽神と月神である「天照大御神・あまてらすおおみかみ」と「月読命・つくよみのみこと」が生れ、その子孫が初代天皇である「神武天皇」になり、天皇の系譜につながり、王朝の歴史が33代「推古天皇・554-628」まで語られていきます。
「たしかに『古事記』は国土と王朝の起源を語るが、時間の起源を語るのではない。同じ『古事記』のなかに国土と王朝以前の出来事が記述されているからである。『古事記』の時間には始めがない。王朝の系譜の最後は推古天皇(7世紀初)であるが、それが王朝の終りを意味しないことはいうまでもない。いわんや時間の終り、すなわち終末論を示唆するものは全くない。古代の日本文化が意識した歴史的時間は、始めなく終りない時間直線である。その後の日本文化に圧倒的な影響をあたえた外来の世界観は、仏教も、儒教も、このような始めなく終りない時間の概念に根本的な変更を迫るものではなかった。仏教に天地開關の説が全くなかったわけではない。しかし仏教の要点がーそれをどう解釈するにしてもー、シャ カ以前の時間の起点にではなく、シャカ以後の歴史にあったことは、あきらかであろう。またその天地開闢説が日本の文化に広くかつ深い影響をあたえたことはない。」
加藤周一『日本文化における時間と空間』
▶『古事記』と『旧約聖書・ユダヤ・キリスト教』2つの異なる「世界観」について
「時間観」テーマから多少ずれますが、このように「古事記的考え方」と「ユダヤ・キリスト教的考え方」を対比してみると、顕かになってくるものがあるように思います。
『古事記』において、加藤周一も言及していますが(一度成ったアメノミナカヌシは、再び〈古事記〉の記述にあらわれることがない。)、最初に登場する「天之御中主神・あめのみなかぬし」はその後、一切登場しません。そして他の二神も、とりあえずここでは「身を隠したまひき」となります。
さて、私が気になったのは、この文章を「冒頭」においた、つまり、何故このように書き始められているのかという理由です。私見では、素朴な言い方ですが「人間にはわからない」ということを表現するためのように思いました。以下、AIの力も借りてこのことについて少し考えてみました。
そもそも『古事記』は天皇の系譜へと続く国家神話です。この後に、様々な「物語」が登場するわけですが、この「天之御中主神」は、物語的な神ではありません。戦わない、結婚しない、子をなさない、命令もしない。つまり「行為する神」ではありません。名前を分解すれば、天之(天の)、御中(まんなか)、主(ぬし)「天の中心の主」。これは人格神的名前がついていますが、「世界の中心的原理・根源」の象徴のようなものではないでしょうか。物語が始まる前に「世界観・世界の構造」をまず説明しているように思います。
そして、しかも、その「天之御中主神」は「身を隠します」。つまり、存在するが、「人間にはわからない」、更に言えば「世界の根源は語りえない。」という「世界観」です。それと同時に、冒頭をこう始めることで、天皇(政治的)の権威の奥に、神話的、文字通り、象徴的なのものを配置したのかと思います。(大和の王朝は、自らを正統化し、権威づけるために、その起源を遠い昔にさかのぼらなければならないという考えを、大陸から学んだのであろう。)(同上)
『古事記』的な1つの考え方として…「天地・自然自体」(「天地は〈分れた〉ので、誰かが〈分けた〉のではない。天地はそこで創造されたのではなく、一体化していたものが分離したのである。」)「語りえない」という存在、その「自然」を「天之御中主神」と名付けたのでしょう。
ここで六朝時代の陶淵明の詩『飲酒』を思い出します。自然が「神≒真意」(此中有真意*)であるとするなら、茫洋として始めも終わりもない…その世界観は、極めて「あいまい」(欲弁已忘言*)にしか「世界」を捉えることしかしかできでません。(≒ 感性)
【語註】六朝時代の詩人、陶淵明(365-427)の『飲酒』「結盧在人境/而無車馬喧/問君何能爾/心遠地自偏/采菊東籬下/悠然見南山/山気日夕佳/飛鳥相与還/此中有真意/欲弁已忘言」より、最後の2行「此の中に真意有り、弁ぜんと欲して已に言を忘る。」勿論、『古事記』編纂者の太 安万侶(おおのやすまろ・?-723)がこの詩を意識したかどうかはわかりませんが…司馬遼太郎の「六朝文化」見解に鑑みれば、影響を受けていたような気はするのですが…。
これに対して「ユダヤ・キリスト教」的な世界観は、その『創世記』において「神」が「人間」のように働きます。「天と地」を創り、「光」を創り「闇」と「光」を分け…。即ち、これは、根源においても「素朴な人間的感覚中心的」な「神」であり、であるなら、当然、我々の「人生」からの発想であれば、…表面上、明らかに「始めと終わり・生死」がある…その世界観は、明解で、従って最もパワーを持つ…この「唯一神」というより、「人に分かり易い」宗教は、「人間主義的発想」であったのかと思います。(≒ 理性・感情)
この、2つの世界観の違いは、それは、世界をどこから眺めるかという「視点」の違いであるかと思います。「ユダヤ・キリスト教」の世界では、神が、一人称で語ります。旧約聖書『出エジプト記』において、神はモーゼに向かい「わたしはあるという者である」と名乗る。ここで決定的なのは、人間のように「わたし」があります。そして「物語・歴史」があります。世界を人間の理性から「物語」として理解しているように思えます。
これに対して、『古事記』の「冒頭部分の特別な天つ神」は神々の系譜的羅列があるだけです。神道的?東アジア的世界観の視点はまったく異なります。ここでは、世界・自然は、創造されたり、説明されたりする対象ではありません。
以下は先ほど引用した『古事記』冒頭に続く部分です。
「次に国稚(わか)く、浮ける脂の如くしてくらげなすただよへる時に、葦牙(あしかび)の如く萌え騰(あが)る物に因りて成りませる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)。次に天之常立神(あめのとこたちのかみ)。此の二柱の神も、みな独神と成り坐(ま)して、身を隠したまふ。上の件、五柱(冒頭の3柱〈造化の3神〉と合わせて)の神は別天つ神(ことあまつかみ)。
次に成りませる神の名は、国之常立神(くにのとこたちのかみ)。次に豊雲野神(とよくものかみ)。此の二柱の神も、独神と成り坐(ま)して、身を隠したまふ。」
【語註】「くらげなすただよへる」:くらげのように漂う。「葦牙(あしかび)」:〈牙〉は〈芽〉に通じ、〈かび〉はイネ科の植物の穂先。〈芽〉のこと。「うまし」:美称。「ひこ」:男性を表す。「天之常立神」:天の定立を神格化した神。「別天つ神」:特別な天神。「国之常立神」:国土の定立の神格化した神。「豊雲野神」:〈豊〉は美称、〈雲〉は虚空の象徴、〈野〉は大地形成の象徴を神格化。
中村啓伸(なかむらひろとし・1929-)訳注『古事記』
「世界・自然」は理由無く出現し、その後、人格神的な物語が展開されていくのですが、「世界の始まり」はこのように表現され、特別な「5柱の神々・別天つ神」は「身を隠したまふ」…なんの行動もしません。『古事記』的、東洋的?世界観は、理由なく「そうである」から始まります。「物語」には始めがあり終わりがあり、視点があります。しかし、ここでは始めもなく終わりもなく(わからないので…)時間は「線分」ではなく「直線」。茫洋とした移り行く流れのようなものになったのでしょう。
そして、そうであるなら捉えられるのは「今」だけになります。
▶「それぞれの事件の現在」=「〈今〉の継起」こそが〈時間〉に他ならない。
「無限の直線としての時間は、分割して構造化することができない。すべての事件は、神話の神々と同じように、時間直線上で、〈次々に〉生れる。それぞれの事件の現在=〈今〉の継起が時間に他ならない。すでに過ぎ去った事件の全体が当面の〈今〉の意味を決定するのではなく、また来るべき事件の全体が〈今〉の目標になるのではない。時間の無限の流れは捉え難く、捉え得るのは〈今〉だけであるから、それぞれの〈今〉が、時間の軸における現実の中心になるだろう。そこでは人が〈今〉に生きる。」(同上)
そしてここから、道元の「而今」にも通じるものがあるのか、ないのか…この古事記的・日本的「今」の考察が始まるのですが、それはまた次回に。
以上
2026年2月
追記 西行や定家、後鳥羽院、実朝のいた頃
▶『宮河歌合』
本論で、西行(1118-1190)の桜を詠った歌の中で、私が一番好きな歌(限定は難しいですがともかく…)として下記をあげました。
花を待つ 心こそなほ 昔なれ 春には疎く なりにしものを 西行
これは『宮河歌合(みやがわうたあわせ)』(1189年)に登場する一首です。
【語註】歌合:歌人を左右二組に分け、その詠んだ歌を一番ごとに、比べて優劣を争う遊び・歌批評会。審判役を判者(はんざ)、判定を加判、判定の批評を判詞(はんし・はんのことば)。宮河(宮川・みやがわ):伊勢神宮付近を流れる一級河川。豊受大神宮(とようけだいじんぐう〈外宮・げくう〉)の禊川(みそぎがわ)であったことに由来。「五十鈴川」は宮川の支流。
【補足説明】宮川は古くは、「大川」や「度会の河」「五十鈴の河」など、さまざまな名前で呼ばれていました。豊受大神宮(外宮)の禊川(みそぎかわ)であったことから、かつては豊宮川といわれ、「豊」の字を略して「宮川」の名がついたとされています。宮川は、伊勢神宮がご鎮座する「聖地」伊勢と俗界の境界でした。時の権力者の力も伊勢までは及ばず、豊臣秀吉も伊勢では「太閤検地」を行いませんでした。伊勢を訪れる旅人は宮川で禊をしてケガレを祓ってから、神宮へ参拝する習わしだったということです。(伊勢市HPより)
左:伊勢神宮概略地図:「神宮の森」は伊勢市の4分の1を占める(世田谷区とほぼ同等面積)正式名称は「神宮」(伊勢神宮HPより)
右:内宮前の五十鈴川(いすずがわ)筆者撮影2013年11月
ただ『宮河歌合』と言っても、「歌合せ形式の編纂」で西行の歌のみで成立しています。その概要は下記です。
「西行が年来詠みためていた歌を中心に自詠72首を選び、三十六番の歌合に結番、文治3年(1877)70歳ごろ、26歳の藤原定家(俊成の次男)に加判を依頼、文治5年(1189)成立し、伊勢神宮の外宮に奉納される。その間、あまりに加判が遅いので、文治5年ごろ、病臥していた西行は慈円を介して俊成に催促の文を送ったほどだった。」
久保田淳・吉野朋美 校注『西行全歌集』岩波文庫・2013年
西行には、もう1つ歌合せ形式の『御裳濯川・みもすそがわ〈伊勢神宮の五十鈴川〉歌合』(1187年)がありこの「判者」は定家(1162-1241)の父、藤原俊成(1114-1204)です。この2つの「歌合せ」はそれぞれ伊勢の内宮、外宮に奉納されたということです。ならば伊勢神宮宝物殿(神宮徴古館・じんぐうちょうこかん)にオリジナルが保存されているのでしょうか…調べたけどわかりませんでした。西行にはおよそ2300首の歌が残っており、その中から西行自身が選んだ72首(36番x2首)ですから、西行なりにこだわりの歌であったかと思います。上にあげた歌は六番にあります。
六番
左 持
年を経て 待つも惜しむも 山桜 花に心を つくすなりけり
右
花を待つ 心こそ猶 昔なれ 春には疎く 成りにしものを
春にはうとくなど、哀には聞え侍(はべれ)ど、左も花を思へる心深く、詞やすらかに言ひ下されて侍れば、又同じ程の事にや。(定家の判詞)
【語註】持(じ):「持合い・勝負がつかない」の「持」、勝敗を「持ちこたえている」どちらも倒れない。
同上
定家は「左・右」を「持・引き分け」にしていますが、私は絶対に右が好きです。西行がこの歌を、実際いつ詠んだのかはわかりません。「歌合」編纂時で70歳くらい…当時としては大変な高齢です。少なくとも歌の内容からそれなりに老齢になってから詠まれたもの、と推察できます。まあ、さすがは「北面の武士・上皇の親衛隊」出身、身体は大変頑強であったのでしょう。しかし、いくら頑強でもその位の年になれば普通、まして当時のこととて、暑さ寒さは身体にこたえるはずです。そもそも誰にとっても「春」は待ち遠しく有難いものです。それを、身体が衰えてきたはずの今になって、サラッと、《春》を切り捨て《桜》と言い切って、《桜》への憧れ、美意識の焦点がより鮮明なものになっています。(或いは、昔は、桜綺麗だな、春は暖かくて嬉しいな…であったかもしれません…。)このある種「颯爽さ」が、実に春風に舞い散る桜の花びらのようで、何とも言えずカッコイイと感じてしまいます。皆さんはどうでしょうか…。
(ちなみにこの「左・右」は上座から見ての「左・右」。座席の名称であって、紙面上の「左・右」ではありません。縦書きですから「左」が先(右側)に登場し次(左)に「右」がきます。)
▶西行や定家、後鳥羽院、実朝のいた頃
さて西行や定家というとどうしても、万葉集から数えて7番目の勅撰和歌集『新古今和歌集・1205年』が思い浮かびます。その前の『千載和歌集・1188年』が平安時代最後、6番目の勅撰和歌集で、下命者は後白河法皇(1053-1129)、撰者は藤原俊成(1114-1204)でした。一方『新古今和歌集』の下命者は後鳥羽院(1180-1239)、撰者は定家が中心で数名いますが、実質、後鳥羽院(1180-1239)の親撰に近い性格の歌集でした。
西行や定家らがいたこの平安から鎌倉時代への12世紀末から13世紀初頭にかけては、たとえば道元(1200-1253)がいた時期とも重なります。政治的には貴族政権から武家政権へと移る大きな転換期でもあり、また文化の面でも大きな変化を遂げた時期でもありました。個々の出来事にいちいち言及していったら1つの図書館ができるほどの厖大な量になってしまいますが、とりあえず簡略的な「鳥瞰年表」をあげておきます。
個人的な話になりますが、私はこの年表をワクワクしながら作成しました。勿論、全ての人物・事象に詳しいわけでもなんでもありません。しかし、たとえば、平家滅亡の「壇ノ浦の戦い・1185」の時、親鸞(1173-1263)は12歳でした。勿論彼は僧侶ですが、一方この政治的な大転換期を肌身で感じて生きていたはずです。そして、その親鸞の死後600年の後、文字通り「孫文のいた頃」に清沢満之(1863‐1903)(漱石の『こころ』(大正3年・1914・4月20日~8月11日・朝日新聞連載)に登場する「先生」の「友人K」は清沢満之がモデル?!)が誕生し、「欧米列強の宗教・哲学」に対して、西洋哲学的観点から理論武装をして、親鸞の創始した「浄土真宗」を復活させます。(No.16‐19「孫文のいた頃」参照)華厳哲学的に言えば、当然のことながら、全ては「今」であり「全宇宙」であり、従って、親鸞も、西行も定家も後鳥羽院も実朝も「今」である…などと思いながら、作成したのでした。

鳥瞰年表【西行や定家、後鳥羽院、実朝のいた頃】(貴族政権から武家政権へ)
▶12世紀後半から13世紀にかけての「文章日本語」の発達
No.47「孫文のいた頃」でも、道元が哲学書『正法眼蔵』を漢字仮名交じり文(日本語)で著わした件について、下記引用の一部にふれましたが、司馬遼太郎は「文章日本語」の観点から、この時代について語っています。
「ここでいいたいのは、文章日本語にとって、十三世紀は偉大だったということである。
その前の平安時代四百年というのは、律令制という農地公有の建前をとりつつ、実態はそうであるような、ないような、いわばうそっぱちのじつにそらぞらしい制度のもとにあった。
その末期に、現実主義的な勢力が大きく勃興した。“武士”とよばれる開拓農民のことで、かれらは律令制のもとで屈従したり、抵抗したりした。
かれらの現実というのは、法的に不安定な所有権のもとで、父親がひらいた田地を一所として懸命に保持することだった。ついには流浪の下級官人である源頼朝(1147-1199)をかついで鎌倉幕府をおこすにいたる。これによってかれらの土地所有が安定し、現実化したばかりか、現実を現実としてみる精神も社会一般にひろがった。それが、十三世紀というものだった。
よくいわれるように、その力づよい写実主義は仏師運慶・湛慶の作品にあらわれているが、文章語の世界でも同様の変化がおこった。平安時代の宮廷の漢文は、文章博士(もんじょうはかせ)の掌握下にあって、すみずみまで形式をつくろい、中国人が読んでもおかしくないようにととのえられていたが、鎌倉幕府の世になると、幕府の公式記録である「吾妻鏡」でさえ、その文章は百姓の野良着のように機能的で、素朴で、意味が通じることにのみ主眼がおかれており、字面こそ漢文に似つつも、本性は日本語そのものだった。」
【語註】「吾妻鏡・あづまかがみ」:鎌倉幕府家人編纂の歴史書。52巻(巻45欠)。治承4年(1180)源頼政の挙兵から、文永3年(1266)までの87年間を変体漢文の日記体で記す。
司馬遼太郎『この国のかたち』第2巻-35「十三世紀の文章語」(文春文庫・1993)
▶「関係律」的観点からの時代考察
そもそも西行(1118-1190)と平清盛(1118-1181)は同年生まれで、共に、御所の親衛隊・「北面の武士」でした。西行はその後23歳で出家し…ご存知の通り、清盛は政権中央で「保元の乱・1156」「平治の乱・1159」…源平盛衰…。そしてついに「承久の乱・1221」へと激動の時期が続きます。
【語註】「保元の乱(ほうげんのらん)」:保元元年(1156)京都に起こった内乱。皇室では皇位継承に関して不満をもつ崇徳(すとく)上皇と後白河天皇とが、摂関家では藤原頼長と忠通とが対立し、崇徳・頼長側は源為義・平忠正の軍を招き、後白河・忠通側は源義朝・平清盛の軍を招いて交戦したが、崇徳側が敗れ、上皇は讃岐に流された。貴族の無力化と武士の実力を示した事件で、武士の政界進出を促した。
「平治の乱(へいじのらん)」:平治元年(1159)わずかその3年後、京都に起こった内乱。保元の乱後、藤原通憲と結んで勢力を伸ばした平清盛を打倒しようとして、源義朝が藤原信頼と結んで挙兵したもの。結局、義朝・信頼は殺され、平氏政権が出現した。
「承久の乱(じょうきゅうのらん)」:承久3年(1221)後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒の兵を挙げ、幕府(北条政子、その弟の北条義時)に鎮圧された事件。後鳥羽院(隠岐)その息子、土御門(土佐)・順徳(佐渡)の三上皇が配流。朝廷監視のため六波羅探題がおかれ、幕府の絶対的優位が確立。
さて、ここで私が思うのは、この辺りの時代が「歴史学」にとって難しい(たぶん…)のは、「政治・権力の動向」は基本ながら…「詩」と「哲学」が隆盛を極めてくる時期でもあり、どこまでを「歴史」と考えるかという問題もありますが、「政治・権力の動向」に注目しているだけでは、分かり難いのではと想像してしまいます。(まあ、実はいつの時代でも…そうではあるのですが…)
後鳥羽院について考えるには天才・後鳥羽院の「歌」への深い洞察がないと、また親鸞が何故「浄土宗」から「浄土真宗」を創始したのか…(先ほどの司馬遼太郎の解釈による時代背景を考えると、まあ、法然の唱える《念仏・行》〈形式〉→ 親鸞の《信》〈個的現実〉かなとは想像できますが)…考慮すべきことが、あまりにも多岐、ほぼ無限に渡っていくので厳しいものであるとは思います…。(そうでした…。華厳哲学的には「世界は〈因果律〉ではなく〈関係律〉で成立していて、その〈関係性〉は〈無限・宇宙〉に拡がります。」)結果「如何なる学問」でも、世界把握は難しいということになります…。)
ただ、ここで達観していてもしょうがないので話を進めます。司馬遼太郎(大正12年・1923‐1996)より2歳年少の作家(大正14年・1925-2012)が、この貴族政権から武家政権への転換点について「文学的観点」から分析した興味深い論評があります。
▶《貴族・宮廷文化》と《武家・現実文化》との衝突【承久の乱】
「源頼朝の死につづく鎌倉幕府のみじめな内訌(それは源実朝の暗殺によって頂点に達する)を見れば、彼(後鳥羽院)がいくばくかの勝算を思い描いたとしてもあながち笑うわけにはゆかないのである。承久の乱(1221)は実朝の凶変(1219)の二年後に起った。
そして、ちょうどいい折りだからここで言っておくけれども、後鳥羽院と実朝とはまさしく対をなす存在であった。藤原俊成の歌の弟子が、帝王でありながら〈早業水練にいたるまで淵源を極め〉北面の武士のほかに〈西面といふ事を始め〉『承久記』、さらには櫂を片手でかるがると打ち振ることにより、強盗、交野の八郎を慴伏させる(『古今著聞集』)のに対して、俊成の子、定家の弟子である征夷大将軍(実朝)は、〈当代ノ者。歌鞠ヲ以ッテ業ト為ス。武芸ハ廃スニ似タリ。〉『吾妻鏡』という状態で、しかも官位の昇進をむやみに願ったのである。これは都の文化と関東の風俗とのまことに奇妙な交易と言わなければならない。
宮廷文化の末期であり武家の勃興期である時代の、当然の要請かもしれないけれども、彼らは互いに他者にこがれたのである。承久の乱とは結局のところ、幕府創業当時の気風をとどめた保守的武人と鎌倉を風靡しようとする京風文化との闘争であったという原勝郎(明治4年1871‐大正13年1924)の説は、ただ関東にのみ視野を限った上でこのあたりの事情を衝いた、奇警犀利の好論で、さすがに凡庸の史家とは違うと敬服して差支えない。」
【語註】「承久記」(じょうきゅうき):承久3年・1221の後鳥羽上皇挙兵による承久の乱を記した公武の合戦記。後鳥羽院の〈王政復古〉をやや批判的に首尾一貫した姿勢で記している。
「古今著聞集」(ここんちょもんじゅう):1254年、伊賀守橘成季により編纂の世俗説話集。基本、事実に基づいた古今の説話。20巻30篇726話からなり、今昔物語集・宇治拾遺物語とともに日本三大説話集とされる。上記言及している箇所は、後鳥羽院が船の櫂を片手で扇のように軽々と振り回したという武勇伝。〈舟の櫂ははしたなくおもき物にて候ふを、扇などを持たせおはしまして候ふやうに、御片手にとらせおはしまして、やすやすととかく御おきて候ひつるをちと見まゐらせ候ひつるより運つきはて候ひて、力よわよわと覚え候ひて、いかにも逃るべくもおぼえ候はで、からめられ候ひぬるに候。〉
(中略)
「だが、言うまでもないことながら、承久の乱はじつにさまざまの成因の綜合として起った。後鳥羽院の心理だけに関しても、彼の流謫への思慕ということもあるし、刀に対する執着もあげなければならぬ。さらに、天皇の権威が名目だけのものであることに対して(実はそれこそ天皇の権威というものなのに)彼が激しい不満をいだき、名実二つながらの支配者でありたいと望んだことは、勅撰集の撰修に直接たずさわったことでも判るはずである。このまったく前例のない天皇親撰の勅撰集に成功(後鳥羽天皇25歳、院歌壇の歌人のほとんどが編纂に関わり、何十年にもわたって改訂が続いたという八代集の中でも稀有な存在。)したせいで自信を強め、文の次は武のほうもと考えた、と見ることもできるにちがいない。しかしわたしの見るところでは、多くの成因のうち最も重大なのは、後鳥羽院なりの流儀での、まことに深刻な政治と文学の問題であった。彼はいわば文学の場のために政治を改めようとしたのである。その点で承久の乱は、おそらく世界史におけるただ一つの文化的な反乱ではなかったろうか。しかしそれは落日を呼び戻すに等しい絶望的な願いであったと言うしかない。なぜなら、文学史の流れに逆らって、それを停止しようとする不逞な意志だったからである。」
丸谷才一『後鳥羽院‐日本の詩人選10』・「宮廷文化と政治と文学」1973年筑摩書房
さて、上記に登場する後鳥羽院と源実朝をすこし見ておきましょう。
▶後鳥羽院
後鳥羽院は私の好きな歌人です。丸谷才一の論評「後鳥羽院なりの流儀での、まことに深刻な政治と文学の問題であった。彼はいわば文学の場のために政治を改めようとしたのである。」を…つい「後鳥羽院は《美》のために《社会》を改めようとしたのである。」と、読んでしまいます。まあとんでもない人物です。「文武両道」、「武道百般」の熟語はありますが、今調べたら「文武百般」は見つかりませんでした。しかし後鳥羽院こそはこの「文武百般に通じる天才」でした。貴族のたしなみである、蹴鞠(けまり)や和歌、管弦、のみならず弓や馬術、また上記、『古今著聞集』交野盗賊退治での重い船の櫂を片手で扇のように取り廻した膂力、また、全国から優秀な刀匠を集め「御番鍛冶」(ごばんかじ)として、月替わりで日本刀を作らせ、自らも作刀し、一方、『新古今和歌集』を親撰してしまうような歌人でもありました。現在でも800首ほどが残されているようです。学校でも習う有名な歌はいくつかありますが、桜の繋がりもあり、私の好きな歌を一首あげます。
むかしたれ あれなん後の かたみとて 志賀の都に花を うゑけん
『後鳥羽院御集』詠五百首御歌
【語註】「かたみ」:昔を思い出す手がかり。「志賀・しがの都」:667年、飛鳥から遷都した近江大津宮(おうみおおつのみや)のこと。
【現代語訳】その昔の一体誰が、今はこんなに荒れ果ててしまった都だが、その形見として、この志賀の都に桜を植えたのだろうか?

左:勝林院(魚山大原寺勝林院):長和2年(1013)に寂源によって、声明を用いた天台宗の念仏修行の道場として創建。中:後鳥羽天皇陵「大原陵」(京都市左京区大原勝林院町)右:付近地図
2017年6月 筆者撮影
▶源実朝
実朝も私が好きな歌人です。概略としては、鎌倉幕府3代将軍。頼朝の次男。母は北条政子。実権は北条氏が握っていて、のち右大臣となり、鶴岡八幡宮で頼家の子公暁(くぎょう)に暗殺。一方、藤原定家に師事、万葉調の歌を詠み、私家集「金槐和歌集」があります。斉藤茂吉(明治15年・1882-昭和28年・1953)は正岡子規(慶応3年・1867‐明治35年・1902)を引用して、歌人としての実朝を下記のように評しています。
【語註】「金槐和歌集」:成立時期は、建暦3年(1213年)11月23日、藤原定家より相伝の『万葉集』を贈られ、定家所伝本の奥書がある同年12月18日(実朝22歳)までとする説が有力。全663首『金槐和歌集』の「金」とは鎌の偏を表し、「槐・えんじゅ」は槐門(大臣の唐名)を表す。別名『鎌倉右大臣家集』といわれている。ただし、実朝の大納言(亜槐)や大臣(内大臣、右大臣)叙任は建保6年(1218年)である。Wikipedia
「なお子規は、(実朝について)数首の和歌を詠じ、その中には、〈人丸の のちの歌よみは 誰かあらむ 征夷大将軍 みなもとの実朝〉、〈はたちあまり 八つの齢を 過ぎざりし 君を思へば 愧ぢ死ぬわれは〉の如きものがある。金槐集を読んで注意すべきは、やはり万葉調の歌にあるのであるが、本歌をさがせば随分多い。そこで、実朝はどういう万葉集の歌句を好んだかを吟味せば興味あることとおもう。
当時の諸家の集を読んだあとで、金槐集の歌に移ると、たとい初期の歌とおぼしきものであっても明快で、何か現実的なところがある。一言にしていえば金槐集は極めて特色のある歌集と謂うべきである。」
斉藤茂吉『斉藤茂吉校訂 金槐和歌集』の「解説」岩波文庫・1929年
里は荒れぬ 志賀の花園 そのかみの むかしの春や 戀しかるらむ
『金槐和歌集』
意味としては「この古い都はすっかり荒れ果ててしまった。志賀の花園も今はもう見る影もない。だが、この古都は昔の春を恋しく思っているのだろうか。」かと思います。先にあげた後鳥羽院の歌と、同様「志賀の都」について詠っていますが、古都・土地が主人公となって別の歌になっています。単純に考えると、後鳥羽院の歌は『詠五百首御歌』で隠岐に流されてからです。そうすると実朝の歌のほうが10年近く前です。丸谷才一はこの後鳥羽院の歌(むかしたれ あれなん後の かたみとて 志賀の都に花を うゑけん)について下記のように解説しています。
「《むかしたれ かかる桜の 種をうゑて よし野を春の 山となしけん》(九条良経)と同工異曲である。そこで、どちらが前かという問題が生ずるのだが、詠五百首御歌については桶口芳麻呂(1921-2011)の着実な考證があって、隠岐に流されてから、それも「隠岐においてかなりの年を経た後の詠」と推定されるゆえ、良経のほうがさきになる。彼は建永元年(1206)、すなわち承久の乱(1221)の遙か以前に世を去ったからである。良経は西行の、《岩戸あけし あまつみことの そのかみに 桜を誰か 植ゑ初めけん》を本歌としているのであろう。しかし上皇の一首を良経の詠の本歌どりと呼んだのでは当らないだろう。」
丸谷才一『後鳥羽院‐日本の詩人選10』・「歌人としての後鳥羽院」1973年筑摩書房
【語註】「九条良経(くじょうよしつね)1169‐1206」:公卿・歌人。関白・九条兼実の次男。和歌・書道・漢詩に優れた教養人。特に書道においては、その屈曲に激しく線に強みを加えた書風は、のちに「後京極流」と呼ばれた。
まあ、あまり意味のあることでもないかと思いますが、作成順では、西行、良経、実朝、後鳥羽院になります。ただ、この中では私は後鳥羽院の歌が一番好きです。
やれやれ、切りがないのでいい加減擱筆…。オマケ:先日、縁あって実朝の墓参りに行ってきました。

左:源実朝と実母・北条政子との墓のある寿福寺(壽福金剛禅寺)山門(鎌倉市扇ガ谷)
中:寿福寺境内
右:実朝の墓(寺の奥は岩の壁で「やぐら」と呼ばれる横穴の中に、五輪塔が安置されていました。鎌倉地域では、三方が山、一方が海で平地が少なかったためこの「やぐら」形式の墓が発達したということです。因みに北条政子の墓も実朝の並びに同形式でありました。
2026年3月 筆者撮影
