次回日程

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  • 東京のみ

国際交流・留学にすぐには役立ちそうにない教養講座57


ー世界に「日本が存在していてよかった」と思ってもらえる日本に…


国際交流・留学にすぐには役立ちそうにない教養講座

 

No. 57 淸明時節雨紛紛の「孫文のいた頃」

淸明   杜牧

淸明時節雨紛紛 路上行人欲斷魂

借問酒家何處有 牧童遙指杏花村

《清明》

淸明ノ時節雨紛紛(ふんぷん)、路上ノ行人魂ヲ斷タント欲ス。

借問ス酒家ハ何レノ處ニカ有ル、牧童遙カニ指サス杏花村。

【杜牧・とぼく803-853晩唐の詩人。杜陵県(現在の陝西省西安市雁塔区三兆邑西北)の人。杜甫(712-770)の「老杜・大杜」に対し「小杜」と呼ばれる。

【大意】「清明のころ、雨がザーザーと降りしきっていて、旅する私はやりきれない思いで、魂も消えいりそうだった。(酒を呑んで心を晴らそうと思い)通りあわせた牛飼いの少年に、酒屋はどこかと尋ねたら、遥か彼方の杏(あんず)の咲く村を指さした。」

【語註】「清明」:24節気の1つ。今年2026年は4月4日-4月19日。4字熟語、清浄明潔(せいじょうめいけつ)の略。すべてのものが清らかで生き生きとしている、の意。「紛紛」:ここではザーザー、或いは物事が入り交じり乱れる様。用例:王維《辛夷塢》木末芙蓉花/山中發紅萼/澗戶寂無人/紛紛開且落。木末芙蓉ノ花、山中紅萼ヲ發ク。澗戶寂トシテ人無く、紛紛トシテ開キ且落ツ。「行人」:旅人・作者自身。「断魂」:心が折れる。「借問」:ちょっと尋ねる。

【遊び】七五調訳・井伏鱒二の『厄除け詩集』に倣って:

「清明ジブンニ雨ザーァザーァ、旅ノ拙者ハ超メゲル。牛引ク子供ニ酒屋ヲ問へバ、指差ス彼方杏子花咲ク村見エタ。」

 

さて、恒例の「和漢朗詠集」風に倣って、この『清明』に合う和朝の詩歌を探したのですが、まだ思い付きません…見つかりません。そもそもこの詩の鑑賞としては、1句目(起)、2句目(承)はまあ、そのままですね。次いで3句目(転)で、まあ転句ですから当然ではありますが、「酒が呑めるところ」を尋ねます。酒好きの私としては嬉しい句です。そして4句目の結句で、尋ねた相手が「牧童」素朴な牛を曳いた小さな男の子で、その答えが、「遥か遠くの杏子の花が咲き誇っている村を指さして教えた。」この結句で一気に「この詩の世界」が、「ザーザー降りの雨」から、「素朴なイメージの男の子」と「遥か遠くに見える美しい杏花咲く村」のへと移ります。もしかすると旅人(自分)の行く方向とは関係のないところに見える、或いは、遠く、歩いて行くにはかなり距離のある大変な場所、でもそこには美しい杏子の花が咲いているのが見えて…。旅人はそこに向かったのでしょうか?それとも見ただけだったのでしょうか?一変して「世界」が変わる、この詩における「別世界への飛び方」がこの詩の魅力かと思います。そんな日本の詩歌があってもよさそうなのですが見つかりません。

ふと、連想する詩は賈島(かとう・779843)の詩です。杜牧(803-853)が生れた時に賈島は21歳で没する時は、杜牧は40歳ですから同時代人です。

 

尋隱者不遇   賈島

松下問童子 言師採薬去

只在此山中 雲深不知處

《隱者ヲ尋ネテ遇ハズ》

松下、童子ニ問フニ、言フ、師ハ薬ヲ採リニ去ルト。

只此ノ山中ニ在ラン、雲深クシテ処ヲ知ラズ。

【賈島・かとう779-843中唐の詩人。幽州范陽県(現在の河北省保定市・涿州市辺り)の出身。韓愈(かんゆ・768-824)の弟子、「推敲」の逸話で有名。

【大意】「隠者を尋ねたが会えなかった:松の木の下で、召使の少年に来意を伝えた。しかし少年の言うには先生・隠者は薬草を採りに出かけていて不在。この山の中にはいるはずだが、雲・霧も深くてどこにいるのかわかりません。」

【語註】「賈」:訓読みは、あきない・あたい・うる・かう。ここでは当然「漢姓」2020年の中華人民共和国の第7回全国人口調査に基づく姓氏統計によると中国で64番目に多い姓であり、474万人あまりが存在(Wikipedia)。ポピュラーな姓のようですが、私はこの賈島しか知りませんでした。

 

杜牧は高級官吏で、杜甫の詩と韓愈(768-824)の文を愛していたといいます。賈島は下級官吏ですが韓愈の弟子です。ここで勝手な想像ですが、2人の交流があったかどうかはともかく、杜牧は賈島の『尋隠者不遇』を知っていたのではないかと思います。そして、杜牧の「牧童遙指杏花村」と賈島の「只在此山中 雲深不知處」が共に、少年に尋ねていることもあり、「本歌取り」まではいかなくても、杜牧の「諧謔的・詩的遊び」のように思えます。尋ね求めたのが「隠者」ではなく「酒」であるのも私好みで、比較すれば『清明』の方が好きですが、みなさんはどうでしょか?

 

◆これまでの流れと復習

そもそもの発端は、No.39「孫文のいた頃」で取り上げた「国や文化によって異なる時間の概念」を知りたかったのでした。そして、勿論その背後には「日本とは何か?」という大テーマがあり、その一環として「日本の時間観」を探りたいと考えたのでした。当初、加藤周一(大正8年・1919-平成20年・2008)の『日本文化における時間と空間』岩波書店・2007年を参考に、古代ギリシア、ユダヤ・キリスト教、古代中国の「時間概念」「歴史観」を比較検討してきました。

 

その途中で遭遇したのが大難関「仏教の時間観」でした。「仏教時間観=無常観」くらいの認識の私でしたが、「仏教の時間観」とは即ち「華厳・唯識哲学の時間論・存在論」で、「曼荼羅」にまで飛び火して、「時間=存在=非連続」という大変な「哲学」を学習することになったのでした。202411月、No.41「孫文のいた頃」からNo.55「孫文のいた頃」まで、1年以上(14回)をかけて、井筒俊彦の著書『コスモスとアンチコスモスー東洋哲学のために』(1989年・岩波書店)の「読解勉強」という形式で考えました。その「仏教の時間観」の正体とは井筒俊彦曰く「道元の時間哲学に窮極する(と私の考える)大乗仏教の時間論的思想」でした。そして最終的に道元の『正法眼蔵』の《有時》の章をともかく、おそらく私の理解度6~7割?で読了したのでした。そもそも、加藤周一は「仏教は時間をどう考えてきたか。その問題を体系的に論じることは、本書の領域をはるかに越える。」と、忠告してくれていたのですが…。そして前回、No.56「孫文のいた頃」で、日本の時間観として『古事記』における時間観(歴史観)について、ユダヤ・キリスト教の時間観・『旧約聖書』と対比しながら考えたのでした。同時にそれは「神」の概念の違いでもありました。人間主義的な『旧約聖書』の「創世期・天地創造」に現れる始めと終わりがある、「線分的時間観」と、『古事記』の冒頭に理由なく無意味に登場して消える「天之御中主神・あめのみなかぬしのかみ」に象徴される「始まりも終わりもない「直線的時間・歴史観」の対比は極めて対照的でした。

 

そして前回、最後に下記の考察に達したのでした。

▶「それぞれの事件の現在」=「〈今〉の継起」こそが〈時間〉に他ならない。

無限の直線としての時間は、分割して構造化することができない。すべての事件は、神話の神々と同じように、時間直線上で、〈次々に〉生れる。それぞれの事件の現在=〈今〉の継起が時間に他ならない。すでに過ぎ去った事件の全体が当面の〈今〉の意味を決定するのではなく、また来るべき事件の全体が〈今〉の目標になるのではない。時間の無限の流れは捉え難く、捉え得るのは〈今〉だけであるから、それぞれの〈今〉が、時間の軸における現実の中心になるだろう。そこでは人が〈今〉に生きる。」(加藤周一『日本文化における時間と空間』岩波書店・2007年)No.56「孫文のいた頃」

 

さて、今回はこの続きからです。『古事記』における直線的時間観は、下記のようにもう少し補足されます。

 

「『古事記』は、次々にあらわれる神の名を列挙する。先ずアメノミナカヌシノカミ、次に、タカミムスビノカミ、次に、カムムスヒノカミ、次に、…という具合に進む。〈次に、次に〉という叙述の方法は『日本書紀』においても大差がない。先の神が後の神を、必ずしも生むのではない。両者の間には、しばしば、何らの因果関係もなく、時間的先後関係だけがあって、それぞれ独立に出現するのである。(同上)

 

実際のところ、「日本的時間・歴史観」としては以上が結論になります。『古事記』にみられる、「時間観」というより、始まりも終わりもない「直線的時間・歴史観」が基本にあり、そこから特別な〈今〉が表れてきます。〈今〉については下記のように分析していきます。

 

▶「瞬間の〈今〉」と「長い持続の〈今〉」とその用例

上記にあるように加藤周一によれば、無限の直線としての時間は、分割して構造化することができない。すべての事件は、神話の神々と同じように、時間直線上で、〈次々に〉生れる。それぞれの事件の現在=〈今〉の継起が時間に他ならない。わけです。

そして「今」とは…「しかし〈今〉は瞬間ではない。時間直線上の一点ではなく、状況に応じて、ある場合には短く、ある場合に長い持続が、〈今〉として意識される。」(同上)

 

この例証として加藤周一は2首の和歌と『平家物語』、「俳句」をあげます。

ながらへば 又此のごろや しのばれん うしとみしよぞ は恋しき

藤原清輔朝臣(1104-1177)『新古今和歌集』(小倉百人一首)

【大意】「永らへば またこの頃や しのばれん 憂しと見し世ぞ 今は恋しき」この先もっと生きながらえていたら、(今つらいと感じている)この頃の世の中も懐かしく思い出されてくるのだろうか。つらいと思っていた昔の日々も、最近は恋しく思い出されるのだから。

「この歌の〈〉は〈此のごろ〉と等価であり、おそらく数年を意味するだろう。」(同上)

 

   たちわかれ いなばの山の 峯におふる まつとしきかば帰りこむ

在原行平朝臣(818-893)『古今和歌集』(小倉百人一首)

【大意】「立ち別れ 因幡の山の 峰に生ふる 松とし聞かば 今帰り来む」私は発って別れて因幡の国に行くが、因幡山の峰に生えている松ではないが、人が私を待つと聞いたならすぐにでも帰って来よう。

「《松(待つ)としきかばかへりこむ》の〈今〉(今すぐ)は、(上記の)それよりも短い。

そしてこう結論づけます。

「どれほどの長さの持続を《今》とするか、一般的な定義を考えることはできない。《今》はゴムのひものように伸縮する。さしあたりは、近い過去と近い未来を含み、その中では考察の対象の大枠が変らず、したがって外挿(extrapolation)の適用が可能と考えられる範囲、と定義しておくことにしよう。一時代の世の中は、憂しとみえたり、恋しく思われたりする。そういう変化のおこらぬ範囲が一時代であり、《今》の時代である。《今》が収縮すれば、〈今かへりこむ・今すぐさま帰ろう・現在〉となり、〈いまはかうとおもはれければ・もはや・近い未来『平家物語(能登殿最期)』となり、遂には俳句の一瞬となる。」(同上)

【語註】「外挿(extrapolation)」:〈データの外側まで延長して推定する値〉、〈範囲外への推測・延長予測〉(初めて見た用語でした…)

「能登殿」:平 能登守 教経(たいらののとのかみのりつね・1164-1184)平家随一の豪傑武将。壇ノ浦の戦いで義経を追い回す「八艘飛び」は有名。

『平家物語(巻第11・能登殿最期)』:「判官かなはじとや思はれけん、長刀脇にかいはさみ、みかたの舟の二丈ばかりのいたりけるに、ゆらりととび乗り給ひぬ。能登殿は、はやわざやおとられたりけん、やがてつぐいてもとび給はず。いまはかうと思はれければ、太刀長刀海へなげ入れ、甲も脱いで捨てられけり。鎧の草ずりかなぐり捨て、胴ばかり着て、おほ童になり、おほ手をひろげて立たれたり。凡あたりをはらッてぞ見えたりける。おそろしなッどもおろか也。能登殿、大音声をあげて、〈われと思はん物どもは、よって教経にくんでいけどりにせよ。鎌倉へくだって、頼朝にあうて、物ひと詞言はんと思ふぞ。よれや、よれ〉との給へ共、よるもの一人もなかりけり。」

現代語訳:「判官(義経)は敵わない…と思われたのか、長刀を脇に挟み、味方の舟が二丈(6m)ばかりの所に居たので、その船へヒラリと飛び移った。能登殿は早業は苦手であったのかすぐに続いてお飛びにならない。そこで、今はこれまでと思われ、太刀、長刀を海へ投げ入れ、甲も脱いで捨てられた。鎧の草摺りをかなぐり捨て、鎧胴だけを着けて、髻(もとどり)がはずれてざんばら髪になり、両手を左右に大きく広げて立たれた。周囲を威圧し近寄り難く、圧倒するようであった。恐ろしいなどというものではなかった。能登殿は大声を挙げて、〈我こそはと思う者共は、寄って教経と組んで生け捕りにせよ。鎌倉へ下って、頼朝に会うて、一言物申そうと思うぞ。かかって来いかかって来い〉と言われるが、近寄る者は一人もいなかった。」

 

後に加藤周一は「短歌」と「俳句」の「時間観」の比較をするのですが、ここで「遂には俳句の一瞬となる。」と予告していて気になるので彼の「一瞬」の例をあげておきます。

 

「芭蕉はまた一瞬の感覚を捉えるために、擬声語や畳語を利用し、言葉の超現実主義的な組み合せにまで到った。たとえば、

ほろほろと 山吹散るか 滝の音

あかあかと 日はつれなく も秋の風

閑さや 岩にしみ入る 蝉の声

そこでは時間が停まっている。過去なく、未来なく、〈今=ここ〉に、全世界が集約される。芭蕉はそこまで行った。俳人の誰もがそこまで行ったのではない。しかし誰もが〈今=ここ〉の印象に注意し、その時までのいきさつからは離れ、その後の成り行きも気にかけず、現在において自己完結的な印象の意味を、見定めようとしたのである。俳句は日本語の抒情詩の形式が歴史的に発展した最後の帰結である。今ではおそらく数十万の人々が俳句でその〈心〉を表現しようとしている。さればこそ数百万の発行部数をもつ大新聞にも読者の俳句の欄がある。そのことの背景は、おそらく彼らが、少なくともその心情の一面において、現在の瞬間に生きているということであろう。」(同上)

 

そして下記のように結論付けます。

▶〈今〉に繋がる日本的3つの時間観(正確には1つの時間・歴史観と2つの時間観)

以上のような日本(『古事記』)における始めも終わりもない歴史観(時間観)の基、加藤周一はもう2つの時間観をあげます。

 

「かくして日本文化のなかには、三つの異なる型の時間が共存していた。すなわち始めなく終りない直線=歴史的時間(古事記)始めなく終りない円周上の循環=日常的時間(四季)始めがあり終りがある人生の普遍的時間(盛者必衰)である。そしてその三つの時間のどれもが、〈今〉に生きることの強調へ向うのである。」(同上)

 

❶「直線的歴史・時間観」

『古事記』で考察しましたが、始め無く終わりも無い「直線的歴史・時間観」は《あくまで一応、日常感覚的な》「前後関係」はありますが、そこに意味を見出しはしません。(↔「線分的歴史・時間観=ユダヤ・キリスト教」)。

「始めなく終りない歴史的時間は、方向性をもつ直線である。この直線上の事件には先後関係があるが、直線全体の分節化はできない。円周上を循環する自然的時間の場合には、事件の先後関係ばかりでなく、分節をあきらかにすることができる。」(同上)

上記で《あくまで一応、日常感覚的な》と、敢えて付けたのは、実際1年以上も「華厳哲学」に接してきて、「前後関係」も「因果律」も存在はせず、ただ「重々無尽の関係律」により世界は構成されていることを学習したからです。まあ、一般的な感覚ではないかもしれませんが、「分節化・例えば論理化・言語化」できないという華厳的感覚は、私としては、何の論証もできませんが、東洋人?の本能のどこかには、あるような気もするのですが…。まあ「華厳哲学的ツッコミ」は置いて、この歴史的時間観の基に「円周上を循環する自然的時間」が登場します。

 

➋始めなく終りない円周上の循環=日常的時間(四季)

「冬来りなば春遠からじ。日本列島の本島西部と九州―すなわち古代文化の中心であった地域では、四季の区別が明瞭で、規則的であり、その自然の循環する変化が、農耕社会の日常的な時間意識を決定したであろうことは、想像に難くない。日本文化の時間の表象の第二の型は、始めなく終りなく循環する時間である。循環するのは、ヘレニズムの場合のように天体の位置ではなく、季節であり、時間の円周は四季に分節化される。農耕は四季の循環に応じた種まきや草とりや収穫の労働なしには成 り立たない。日本の農業の自然的条件は、四季の交替が明瞭でなく一年を通じて高温高湿の東南アジアの条件とは異なるのである。」(同上)

【註】「四季」:四季の交替が明瞭なのは、日本の場合だけではない。たとえば西ヨーロッパの場合も同じ。その二つの地域の農耕文化のちがいは、自然的条件のちがいには還元されない。自然的ではない、どういう条件がそこに作用していたか、という問題には、ここで立ち入ることができない。(同上)

No.40「孫文のいた頃」参照

 

「始めなく終りなく循環する」時間観は、「四季」をはじめ「日出・日没」等々、我々の日常生活に接しているので、わかりやすいかと思います。風土的なものから影響される日本的時間観です。

 

「9世紀以後平安朝の宮廷文化は、季節に敏感な、というよりも敏感であらざるをえなかった生産者=農民の感受性を、全く非生産的な美的領域に移して、洗錬した。『枕草子』は有名な〈春はあけぼの〉、〈夏はよる〉、〈秋は夕暮〉〈冬はつとめて〉で始まる。同様に『古今和歌集』の最初の六巻は四季の歌である。他に恋歌五巻があり、春夏秋冬と恋を併せて全20巻の半分を超える。抒情詩の主題が恋に集中するのは、なにも平安朝の日本に限ったことではない。しかし四季に集中するのは、全く例外的であり、中国においてさえもこれほどではなかった。その傾向はすでに『万葉集』にもあらわれていて、それが『古今和歌集』において徹底したのである。しかも四季の変化に対する関心は、平安朝以後さらに強まり、俳諧師たちにとってはほとんど強迫観念となって、周知のように、制度化された《季語》を生むに到った。《季語》は唐天竺になく、おそらく欧州諸国にもない。」(同上)

 

加藤周一は、『万葉集』ですら、既に、季節重視の感覚が表れていて、それが『古今和歌集』でその《四季》が徹底したとします。またこうも表現しています。

 

「『万葉集』は、恋〈相聞〉と死〈挽歌〉を歌い、その他〈雑歌〉に祝賀、行事、旅、兵事などに触れ、数は少ないが貧困や重税や酒にも及ぶ。周知のように、同時代の中国の詩の圧倒的な主題は、兵事を含めての政治社会に係わり、また大いに飲酒に係わっていた。その影響は『万葉集』においてあきらかである。しかるに『古今和歌集』は、大陸の〈詩〉に対してまさに〈和歌 “やまとうた”〉を主張したのであり、政治と酒を歌の世界から追い出しても不思議ではない。それこそは〈やまとうた〉の消極的な自己主張であった。積極的には何を主張したか。春・夏・秋・冬それぞれの季節の歌を集め、恋の歌とともに、主題別分類を主要な範疇とした。紀淑望(きのよしもち)の『古今和歌集序』(いわゆる「真名序」は『詩経』の「大序」を引用し、紀貫之等の「仮名序」は和文でそれを踏襲するが)、その『詩経』が春・夏・秋・冬に詩を分けるということはなかった。『詩経』のみならず、その後の中国でも、ヨー口ッパでも、詩の分類に《四季》を基準とすることは少ない。しかるに日本では、『古今和歌集』が20巻1千余首のおよそ3分の1を恋歌とし、3分の1を《四季》の歌として、それ以後の詞華集の多くはそれに準じたのである。抒情詩の主題として恋を重んじるのは、多くの文化に共通の傾向である。恋とならんで同じ程度に《四季》の移りゆきを重んじるのは、日本の文化において際立った傾向である。《四季》は循環する。そこで起こる事象は一回限りではない。〈逝く春〉はまた還って来るし、〈あまりに短かりしわれらが夏〉は再びきらめくだろう。《四季》の時間は、直線的に前進するのではなく、円周を巡るのであり、円周には始めもなく終りもない。円周上のあたえられた一点、すなわち現在の時点において、人は過ぎ去ろうとする季節を惜しみ、来ようとする季節に期待するのである。」(同上)

 

さて、ここで、話をNo.30~36「孫文のいた頃」辺りに戻します。万葉仮名から平仮名の誕生を考えていた頃です。下記の図はNo.36「孫文のいた頃」で使用したものに少し手を加えたものです。

『万葉集』の成立は759780くらい、それから100年程で『★新撰万葉集・893年』(真仮名・万葉仮名表記)が編纂、その後「万葉仮名」から抜け出て「平仮名」の誕生へと劇的に変化、わずか12年後に勅撰和歌集である『★古今和歌集・905年』が漢字、平仮名交じりで表現されます。それと同時に《四季》の感覚も日本において「国風」として発達していきました。

 

ただし『新撰万葉集』が万葉仮名表記和歌と漢詩で構成されていながら、初めて「春・夏・秋・冬・恋」の分類分けがされました。以下、No.35「孫文のいた頃」からです。

 

「そもそも『新撰万葉集』はあまりなじみがないですが、菅原道真が編んだという私撰詩集で真仮名・万葉仮名で表記した《和歌》それに対応する漢詩(七言絶句)が添えられています。そして、日本初、その後の範となる「春・夏・秋・冬・恋」の分類分けがされています。(因みに勅撰漢詩集での分類方法は『文選』を参考にした、遊覧・宴集・餞別・贈答、等でした。)」

 

ただ、『万葉集』においても「季節分け」こそありませんが、「季節≒植物」だらけではありました。以下、No.30「孫文のいた頃」「追記」から。

「『万葉集』に多くの植物が出てくることはしばしば言及されています。4500余首の中に植物を詠んだ歌は1700首程、詠まれた植物の種類は150余種類、全体の40%近くの歌に植物が詠まれているわけです。最多は〈萩〉141首、次いで〈梅〉129首、〈橘〉68首、〈桜〉42首、〈べに花〉29首、〈藤〉27首、〈なでしこ〉26首、〈卯の花〉24首です。また150余種類の植物のうち、鑑賞的な花は50種類程で、その他は、食用(アワ、イネ、ヒエ等)、建材(ヒノキ、ケヤキ等)、薬用(クズ等)、衣料用(アサ等)、染料用(アカネ、ハゼ等)の植物だということです。」

 

ならば自然に、『古今和歌集』(全1100首)においても、登場する植物の種類、その数等、比較したくなります。ただ調べてみましたが、残念ながら植物の種類は75種類程のようですが、そのいちいちの詠まれた歌の数はわかりませんでした。まあ、そんな研究もあるのだろうと思いますが、発見できませんでした…。

 

さて、この《季節》を中心とした「循環する時間観」の次に❸として「始めがあり終りがある人生の普遍的時間(盛者必衰)」が登場するのですが、そこからは次回にしましょう。

 

以上

2026年3

 

追記 日本文化としての《四季》の誕生と一立斎歌川広重の『名所江戸百景』

 

日本文化としての《四季》の誕生

当然のことながら気象現象としての四季は欧米諸国をはじめ多くの国に存在し、それを表す言葉もあり、ある意味、普遍的なものです。しかしながら、日本における《四季》は上記で学習してきたように、単に《季節》という枠を越えて、他文化のそれとは異なる大きな意味を持っているようです。自然に思い出されるのが、かの有名な和辻哲郎(明治22年・1889-昭和35年・1960)の『風土』です。

 

「我々はすべていずれかの土地に住んでいる。従ってその土地の自然環境が、我々の欲すると否とにかかわらず、我々を〈取り巻いて〉いる。この事実は常識的にはきわめて確実である。そこで人は通例この自然環境をそれぞれの種類の自然現象として考察し、引いてはそれの「我々」に及ぼす影響をも問題とする。ある場合には生物学的、生理学的な対象としての我々に、他の場合には国家を形成するというごとき実践的な活動をするものとしての我々に。それらはおのおの専門的研究を必要とするほど複雑な関係を含んでいる。しかし我々にとって問題となるのは日常直接の事実としての風土が果たしてそのまま自然現象と見られてよいかということである。自然科学がそれらを自然現象として取り扱うことはそれぞれの立場において当然のことであるが、しかし現象そのものが根源的に自然科学的対象であるか否かは別問題である。

和辻哲郎『風土』昭和23年・1948発表(岩波文庫・1979年)

 

▶《四季》の誕生と時を同じくして「日本文字」の誕生

上記本編で加藤周一は「恋とならんで同じ程度に《四季》の移りゆきを重んじるのは、日本の文化において際立った傾向である。」と語りました。そして歴史的にも『古今和歌集・905年』に象徴されるように「平仮名」が普及します。No.36「孫文のいた頃」において、「いつ日本の文字が出来たのか?」を考えた際、石川九楊は下記のように断言したのでした。是非『白氏詩巻』の個所を参照してみてください。

 

〈和様漢字〉=〈日本文字〉が比類なく完璧に完成したのが1018年、藤原行成の『白氏詩巻』である。ちなみに『源氏物語』の成立が11世紀の初め、『和漢朗詠集』の成立が1013年であり、『白氏詩巻』はこれらとの表現の同時性を証している。〈日本文字〉(それは日本語の誕生をも意味する)の典型という意味において、書・『白氏詩巻』は物語・『源氏物語』、詩・『和漢朗詠集』に並ぶ表現である。また、『白氏詩巻』は、中国の書に喩えれば、中国の書の典型たる『九成宮醴泉銘』や『雁塔聖教序』に匹敵する、日本を代表する書である。日本、日本語、日本文化とは何かと問われれば、この白氏詩巻を示せばよい。その精髄は、すべてここに隠れている。」石川九楊『書の宇宙・11‐需要から変容へ(三蹟)』1997年・二玄社(No.36「孫文のいた頃」

『白氏詩巻・はくししかん・1018年』国宝 東京国立博物館 蔵 写真は「e国宝」より冒頭部分:藤原行成が47歳のときに、中国の詩人・白楽天の『白氏文集(はくしもんじゅう)』巻第六五から八篇の詩を揮毫したもの。「八月十五日夜同諸客翫月―月好共傳唯此夜。境閑皆道是東都。嵩山表裏千重雪。洛水高低兩顆珠。清景難逢宜愛惜。白頭相(勤強・欠落文字)歡娯。誠知亦有明(來・本来)年曾。保得清(晴・本来)明強健無」。

 

石川九楊は、このNo.36「孫文のいた頃」において、何故?この『白氏詩巻』をもって中国的漢字から日本的漢字になったかという説明は、その「漢字の書き方」において、詳細な説明をしています。そして、何故?その「日本的書き方」が出現したかについては、「遣唐使廃止・894年」があり、中国の影響を脱して日本が独自の文化を歩み始めたということ

にあり、また、ちょうど時期を同じくして《四季》の感覚がある意味「日本文化の核を成す部分」として浸透していったのも、「遣唐使廃止」が大きく影響していたのでしょう。思い返せば「遣唐使廃止」を進言し、日本で初めて《四季》分類で『新撰万葉集・893年』編纂した菅原道真の役割はまことに大きかったかと思います。

 

▶《四季》で分けた広重の『名所江戸百景』

さて、《四季》は「詩歌」ばかりではありませんでした。「絵画集」でも同様の手法がありました。葛飾北斎の『富嶽三十六景・ふがくさんじゅうろっけい』(厳密に分けているわけではないが…分類できます。)や、一立斎歌川広重(いちりゅうさいうたがわひろしげ1797-1858)の『名所江戸百景・めいしょえどひゃっけい』などはその例です。歌川広重の最晩年の作品(185658)で、江戸の名所を《四季》に分け(春・42枚、夏・30枚、秋・26枚、冬・20枚)全118枚で描いています。私は、北斎の『富嶽三十六景』よりも、『名所江戸百景』の方が好きなので、ここからいくつか例をあげておきます(画像は国立国会図書館からです)。大きさは全て大判錦絵。大判(約39 x 27cm)ですが、実際の大きさは36 x 25cmくらい。

 

左:《四季》別の目録・目次(但しこの目録は広重の没後に作成されたもので広重の意図がどこまで反映されているか不明ではあるそうですが…。)

中:春『霞が関』(現在の千代田区霞が関2丁目・霞が関坂)

右:春『広尾ふる川』(現在の港区白金1丁目と南麻布2丁目の間を流れる古川と四ノ橋。残念ながら現在はこの古川の上を首都高が走っています…。)

 

左:夏『水道橋・駿河台』(現在の千代田区三崎町3丁目と神田川をはさんで文京区後楽1丁目にかかる水道橋。「本郷台地から神田川に架かる水道橋越しに駿河台の町を見下ろしている。駿河台の名は、徳川家康とともに駿河より移住した家臣が居を構えたことに由来する。端午の節句の大きな鯉のぼりが手前にくの字に曲がって翻っている。奥に広がる武家屋敷の方々で吹き流しや幟旗、魔除けの鍾馗の幟が見られるが、これらは武家の習わしで、鯉のぼりを上げるのは町人の文化であった。」(東京富士美術館HPより)

中:夏『深川万年橋』(現在の江東区常盤橋1丁目・万年橋。亀は「放生会・購入し川に放すことを功徳とした仏教的行為」のための亀。ただ多少疑問なのが、旧暦815日に行われることが一般だったようですが、「夏」に分類されています…。)右:秋『市中繁栄七夕祭』(右手奥に見える江戸城から考えて現在の中央区日本橋付近の高みから)

 左:秋『月の岬』(現在の港区三田4丁目の「三田台公園」辺りの茶屋から芝浦・品川の海方面)当時この辺りは「月の名所」であったといいます。(港区高輪4丁目の「八ツ山」の茶屋説もあり。)

中:冬『目黒太鼓橋夕陽の岡』(現在の目黒区下目黒1丁目・行人坂下の目黒雅叙園辺り・目黒川にかかる太鼓橋)

右:冬『王子装束ゑの木大晦日の狐火』(現在の北区王子2丁目・装束稲荷神社)

「大榎・おおえのき」は失われその跡には祠が建てられ、装束稲荷社となっている。関八州稲荷の総領である王子稲荷の近くに大榎があったという。大晦日の夜、このもとに関八州の狐が集まり、高くこの木を飛び越えた者から順に官位を定めた後、命婦(宮中の高級女官)の装束に着替えて王子稲荷に赴いたので、「装束榎」と呼ばれた。この時狐は狐火を発したので、農民はその数により翌年の農作物の豊凶を占ったと伝わる。(『名所江戸百景・新今昔対照』浮世絵太田記念美術館・2003年より)

 

さて、この広重(1797-1858)と葛飾北斎(かつしかほくさい・1760-1849)は37歳北斎の方が年長です。北斎の『富嶽三十六景』は70歳(1831年頃)で、その影響を受けたとされる、広重の『東海道五十三次』は37歳(1833年頃)でした。直接交流はなかったといいます。以下は永井荷風の2人についての論評です。

 

▶広重と北斎の違い

「一立斎広重は北斎と相並んで西欧の鑑賞家より日本画家中恐らくは空前絶後の二大山水画家なるべしと称せらる。この両大家はいづれも西洋画遠近法と浮世絵在来の写生を基として幾度か同様の地点を描きたり。然れどもその画風の相同じからざるは一見して瞭然たるものあり。北斎は従来の浮世絵に南画の画風と西洋画とを加味したる処多かりしが、広重は専ら狩野の支派たる一蝶の筆致に倣ひたるが如し。北斎の画風は強く硬く広重は軟かく静なり。写生の点において広重の技巧はしばしば北斎より更に綿密なるにかかはらず一見して常に北斎の草画よりも更に清楚軽快の思いあらしむ。これを文学に譬へんか、北斎は美麗なる漢字の形容詞を多く用ひたる紀行文の如く、広重はこまごまとなだらかに書流したる戯作者の文章の如し。されば吾人は既に述べしが如く北斎がその円熟期における傑作品の往々にして日本らしからぬ思をなさしむるに反し、広重の作品に接すれば直に日本らしき純粋なる地方的感覚を与へらる。日本の風土を離れて広重の美術は存在せざるなり。余は広重の山水と光琳花卉とを以て日本風土の特色を知解せしむるに足るべき最も貴重なる美術なりとなす。

『浮世絵の山水画と江戸名所』・大正2年6月・1913永井荷風(1879-1959)『江戸芸術論』2000年岩波文庫収録

【語註】一蝶:英一蝶(はなぶさいっちょう・1652-1724)元禄期の画家。光琳:尾形光琳(1658-1716)。花卉(かき):観賞用の植物全般。「卉」音読み「き」、訓読み「くさ」或いは「さか(ん)」。

 

季節柄のオマケ。

 尾形光琳 国宝『燕子花図・かきつばたず』江戸時代・紙本金地着色・(各)縦150.9㎝ 横338.8㎝ 根津美術館蔵

 

 

 

No.56 千里鶯啼緑映紅の「孫文のいた頃」をみるlist-type-white