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国際交流・留学にすぐには役立ちそうにない教養講座59


ー世界に「日本が存在していてよかった」と思ってもらえる日本に…


国際交流・留学にすぐには役立ちそうにない教養講座

 

No. 59 第一驕人六月天の「孫文のいた頃」

 

銷夏詩   袁枚

不著衣冠不半年 水雲深處抱花眠

平生自想無官樂 第一驕人六月天

銷夏ノ詩》

衣冠ヲ著(つ)ケザルコト半年、水雲深キ處、花ヲ抱イテ眠ル。

平生、自ラ想フ無官ノ樂シミ 第一、人ニ驕(おご)ル六月ノ天。

【袁枚・えんばい1716‐1798 清朝期の文人、官僚。杭州府銭塘県(現・杭州市)出身。乾隆年間、22歳で進士、県令の任につくが、地方・田舎まわりの生活に嫌気がさしたのか32歳の時に官を辞し、そののちは生涯職に就かず、江寧(金陵=現・南京附近)小倉山の『隨園』(邸宅・24の建物から成っていたという。)に隠棲、82歳の長寿を全うする。

【大意】『夏の暑さをしのぐ詩』官服・冠をつけた役人生活を辞し半年が過ぎたが、大自然の別邸で花に囲まれて眠る今の悠々自適の生活。在職時から、この引退後の楽しみを想ってきたが、今それが実現した。まず、第一に、未だ役人を続けている人に、この炎天下の6月に、自分は涼しく暮らしていることを自慢したい。

【語註】「鎖夏・しょうか」:夏の暑さをしのぐ。「銷」〔せう;xiao1〕=「消」〔せう;xiao1〕。「無官」:官職に就いていない。「驕人」:他人に対して不遜なこと。自慢する。おごりたかぶる。

【備考1】袁枚は詩論として「性霊説」(性情の自由な流露と自然な表現を尊重)を主張、「格調説」(伝統的な格式と音調のもとに、詩が造化・施政・倫理との関係を尊ぶ)と対立した。(「コトバンク」より)

【備考2】「頼山陽(1780-1832)の『浙西六家詩評』(頼山陽が清朝の『浙西六家詩鈔』より詩を選んで寸評を加えたもの)には、袁枚の詩も数十首が選ばれている。この頼山陽の袁枚評はすこぶる辛いものであるが、当書に冠せられた篠崎弼(儒者・1781-1851)の序文によると、山陽は袁枚を否定したわけではなく、袁枚の才子ぶりを十分に認めながらも、その甚だ傲慢な点を戒め、袁枚が日本の芸林を席巻するのを阻もうとしたためだという。さらに篠崎弼によれば、頼山陽その人も〈近世日本の袁枚〉だという。」アーサー・ウェイリー(Arthur Waley)著『袁枚』加島祥造、古田島洋介訳(平凡社・東洋文庫・1999年)解説より

 

イギリス人、アーサー・ウェイリー(1889‐1966)は『源氏物語』の英訳で有名です。日本古典と中国古典を理解し、しかも独学、しかも生涯、中国も日本も訪れたことがなかったという…まあそんな天才もいたのでしょう。袁枚は学校教科書にはとりあげられていないので、ご存知ない方も多いかと思います。私がいつどこでこの詩に遭遇したのか覚えていませんが、毎年、今頃、暑くなってくると思い出します。6月とはありますが、当然旧暦だから7‐8月の時節をさしているとは思いますが…。「無官を喜んでいる」「その生活を自慢している」というより、それらを題材にして、洒脱・滑稽ぶりを遊んでいる「諧謔の詩」でしょう。袁枚より200年前、袁中郎(1561-1610)の下記の詩も「諧謔の詩」です。

 

荅君御諸作  袁中郎

溪鳥溪花盡寄聲 花源無路只空行

陶潛老被漁翁悞 枉把靑山累後生

君御ノ諸作ニ答フ

溪ノ鳥、溪ノ花、尽ク声ヲ寄ス 花源、路無ク、只空シク行ク

陶潛老イテ、漁翁(あやま)タリ、(むだ)ニ靑山(と)リテ後生(わずら)ワス。

【袁中郎・えんちゅうろう1568‐1610・明朝期の詩人、官僚。名は宏道、中郎は字。兄の袁宗道・弟の袁中道もともに詩人として高名であり、世に「三袁」と称される。No.36 追記「中華の君子」参照

【語註】「荅」:主に相手の言葉に対して返答すること。答える、応じる、むくいる。音は(トウ)訓は(あずき・小豆)の意も。「君御」:龍君御の諸詩作への返答詩。彼から袁中郎の地元の〈桃花源〉を尋ねたか?との詩に答えた詩。「溪鳥溪花」:谷川の鳥、谷川の花。自然界のもの。「花源」:桃源郷、陶淵明『桃花源記』を踏まえる。「陶潜」(365-427)名は潜、淵明は字。「漁翁」:桃花源記で桃源郷を発見する漁師。「悞」:誤る、迷わせる。「枉」:音は(オウ)、訓は(まげる)意味は(無理にまげる、事実をまげる、無駄)。「枉把」…をことさらにまげて。「靑山」:山林、隠遁の象徴。「後生」:後の世の人、後輩。「累」:重なる、つながる、わずらわす、苦しめる、迷わせる。(HP「詩詞世界(碇豐長の詩詞)」参考)

【大意】「龍君御さんの詩に答える」渓谷の鳥も花も、みな何か語りかけてくる。しかし桃源郷へ至る道などなく、ただ空しく歩きまわるだけ。陶淵明の爺さんはもうろくして、あの漁師の話にまんまと惑わされ、無駄に「桃源郷・青山の隠遁」などを持ち出して、我々、後世の人間を悩ませたのだ。

 

このコラムにもしばしば登場する陶淵明(365-427)は袁中郎より更に1200年程前の文人です。その陶淵明を「漁師に騙されたジイさん」というジョークで滑稽化し、しかし袁中郎も、当然のことながら、理念としての「桃源郷」の意味や、それへの憧れを、おそらく当時の文人の誰よりも、しっかり保持している…というこの「諧謔」が何ともカッコイイと感じてしまいます。ここで私の云う「諧謔」は、単なる可笑しみではなく、知的、機知的、洗練された滑稽さ、洒脱さ、颯爽さ…というような意味です。袁枚は詩論上「性霊派」に分類され、その源流へ遡ると袁中郎の「公安派」に行き着くようです。もちろん私は両者共、わずかな詩篇を知るのみで、ここでその両派、その対立派の比較等にまで、議論を広げられるわけもありませんが。ただ、少なくとも、私が感動するのは、200年の隔たりを越えてこの2つの「詩」に共通する「諧謔性」です。

 

さて、恒例で、コラム冒頭は『和漢朗詠集』を意識していますが、これに対応する和詩を考えてみて、この俳句を連想しました。

 

月に柄を さしたらばよき 團扇哉  山崎宗鑑

【山崎宗鑑・やまざきそうかん1465?-1553?室町時代後期、戦後時代の連歌師、俳諧作者。

【大意】そのままですが、空に浮かんで風に吹かれている涼しげな月に〈柄〉を付けたら、イイ感じのうちわになるな…。

【参考】最初連歌師を志し宗祇・宗長等と交わったが、滑稽機智を主眼とし天性の洒落気を持つ宗鑑には貴族的で伝統を重んじる連歌の世界は肌に合わず、より自由な俳諧の世界へと足を踏み入れた。当時俳諧は未だ連歌から完全に独立したものではなく、連歌の余興として扱われていた。保守的な連歌師は宗鑑の作風と俳諧を卑属・滑稽と嗤ったが、宗鑑は「かしましや 此の里過ぎよ 時鳥 都のうつけ 如何に聞くらむ」と逆に哄笑し、より民衆的な色彩の中に自己の行く道を見出し、座興として捨てられていた俳諧を丹念に記録・整理して俳諧撰集の草分けである「新撰犬筑波集」を編み、俳諧を独立した芸術として世間に公表した。俳諧撰集「犬筑波集」の自由奔放で滑稽味のあるその句風は、江戸時代初期の談林俳諧に影響を与え、荒木田守武(1473-1549・伊勢神宮祠官・連歌師)とともに、俳諧の祖と称される。(Wikipedia)

 

この句に遭遇したのは大学生の頃に読んだ石川淳(1899-1987)の下記文章でした。ただ読みはしましたが、当時は「俳諧」の意味もよく理解できず、そんなものか…という印象でした。しかしその後、様々な本を渡り、このコラムにもしばしば登場する西脇順三郎(1894-1982)には夢中になり…そして今、袁枚の『鎖夏』、袁中郎の『荅君御諸作』を見ていたら、ふと宗鑑のこの句を思い出して、ようやく今になって「俳諧」「滑稽」が何であるかということが、おそらく、少しは理解できたような気がしました。

 

「月に柄をさしたらばよき團扇哉   宗鑑

 

最初に掲げるものとして悪例かも知れない。おそらく今人はふんといつてこの句を顧みないで あらう。宗鑑(1465-1553)以來すでに數世紀、文學が發展し人間がなまいきになつて來た證據である。たしかにこの句は幼稚には相違ない。今人の什(ジュウ・詩編、10編でひとまとまりの詩歌)がこれよりも氣がきいてゐるのは當然で、そんなことは自慢にならぬ。だが、もしこれを俗句として見くだすひとがあつたとすれば、俗情はそのひとの心に巣くつてゐる。さういふ心こそもつとも俳諧から遠い。一見こしらへ物のやうなこの句がじつは吟詠の自然だといふこと、後世を誤まらしめるやうなこの有害な表現が依然として俳諧の場にとどまるといふことを、ひとはまづ自分で會得すべきである。最初に掲げるものとしては適例かも知れない。

 俳諧の性格の一つに、滑稽があげられる。古今集の俳諧歌の例を引くまでもなく、元來このことばには滑稽の意がふくまれてゐた。けだし、堂上派の歌學の規定を破つて一生面を開くためには、俳諧は發生的に機智諧謔の形式を取るほかなかつたのであらう。宗鑑の幼稚な句にも、解放された精神がひそんでゐたはずである。かういふ形式に於て、民衆は自分の歌を回復した。ずつと古く、萬葉集の中で、滑稽歌が決して一段低い別席に落されてはゐないやうに、俳諧では、民衆の歌がなにかに媚びたわけでもなく、自分で卑下したわけでもなく、おのづから寛闊な笑に流露して行つたけしきである。後世の江戸市井の雑俳が駄洒落の中に氣持を固定させたのとは、まったく事情がちがふ。歴史的には、宗鑑の後に貞徳が出て、これは再び舊圖形に摸して一派を作つたが、やがて宗因、西鶴の檀林派がおこるに及んで、貞徳派に對抗しつつ俳諧の自由の旗を立てることになる。《さればここに 檀林の花あり 梅の花》とは、近代劈頭の民衆詩の宣言であつた。さしあたり俳諧史を說く必要がないので、右の條はかく大雑把にすませておく。しかし、大雑把にしろ、この二三行ぐらゐの沿革はたれでも小耳に挟んでおいたはうが便利であらう。といふのは、貞徳の弟子の季吟の弟子である芭蕉が檀林の季節の中に成長したからである。ちやうど兩派の綜合に當るやうな境を起點として、そこから芭蕉が立ち上つて、元祿の新風を興したからである。今日、俳諧といへば、芭蕉詩の世界とその延長よりほかにはない。そんな世界が今日のどこにあるのかと問ふのは、つまらぬ心配である。このみごとな假定の世界は、それを鵜呑にしてしまふやうな柔軟な心が存するかぎり、消え放しにはならない。」

石川淳『俳諧初心』(『文学大概』より・1942年・小学館)

 

この本論テーマ「滑稽・洒脱」からは外れますが、続きが気になる方もいらっしゃるかと思いオマケです。この後に石川淳はこの「今日、俳諧といへば、芭蕉詩の世界とその延長よりほかにはない。」を下記のように展開していきます。興味ある方は是非『俳諧初心』に直接あたってみてください。そして、この芭蕉の「俳諧」は別の形で加藤周一の「日本的時間観」にも登場します。

 

「芭蕉が出現したとき、芭蕉以前はすべて切斷されたけはひである。檀林派も、貞徳派も、正格の韻律も、破格の滑稽も、今やはるかに低い。世界が廣大になつて來たので、俳諧的手法もまた微妙をきはめ、もう諧謔の節まはしには乗りきらない。かつては自由な表現であつた滑稽の境をすでに精神が突破してゐて、後の趣向を滑稽に求めるものは俗情の藝に墮した。正風論にいはゆる《人に面白がらせんとて遠き道具を求め、心を巧み、言葉を莊(かざ)るは高慢の俗氣》に屬する。(ただし、安永・天明の交に至っておこつた江戸狂歌では、この高慢な俗氣がどうして俗物ばなれしてゐるのだが、これは別問題である。)」同上

 

倣 和漢朗詠集

◆これまでの流れと復習

さて、そもそもの発端は、No.39「孫文のいた頃」で取り上げた「国や文化によって異なる時間の概念」を知りたかったのでした。そして、勿論その背後には「日本とは何か?」という大テーマがあり、その一環として「日本の時間観」を探りたいと考えたのでした。当初、加藤周一(大正8年・1919-平成20年・2008)の『日本文化における時間と空間』岩波書店・2007年を参考に、古代ギリシア、ユダヤ・キリスト教、古代中国の「時間概念」「歴史観」を比較検討、そして最難関であった「華厳哲学・道元の時間論」等は、ともかく何割かは理解し得たように思います。

 

そして、ここ数回にわたる加藤周一の「日本の時間観」の結論としては、「かくして日本文化のなかには、三つの異なる型の時間が共存していた。すなわち❶始めなく終りない直線=歴史的時間(古事記)➋始めなく終りない円周上の循環=日常的時間(四季)❸始めがあり終りがある人生の普遍的時間(諸行無常)である。そしてその三つの時間のどれもが、〈今〉に生きることの強調へ向うのである。」(No.58「孫文のいた頃」)であり、その根拠は無限の直線としての時間は、分割して構造化することができない。すべての事件は、神話の神々と同じように、時間直線上で、〈次々に〉生れる。それぞれの事件の現在=〈今〉の継起が時間に他ならない。すでに過ぎ去った事件の全体が当面の〈今〉の意味を決定するのではなく、また来るべき事件の全体が〈今〉の目標になるのではない。時間の無限の流れは捉え難く、捉え得るのは〈今〉だけであるから、それぞれの〈今〉が、時間の軸における現実の中心になるだろう。そこでは人が〈今〉に生きる。」(No.56「孫文のいた頃」ということであり、この〈今〉の継起が時間に他ならない。即ち、これこそは、果たして、道元の云う途切れ途切れの、独立した(前後際断)時間単位、刹那、の連鎖こそ時間の真相である(井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス-東洋哲学のために』)と同じであったと気付かされたのでした。

 

この後の展開として加藤周一は、「時間の様々な表現」と題して日本を始め各文化の言葉(文法)、詩歌、随筆、舞踊、絵画に現れる「時間の特徴」について考えていきます。例によって「読書会的」に考えていきたいと思います。

 

◆文法・日本語特徴 ― 語順

加藤周一はこの「時間の様々な表現」の章の冒頭、先ず「中国語や近代ヨーロッパ語とくらべて、日本語の特徴の一つは、文の語順である。日本語では動詞(または形容動詞が)原則として文末に来る。」と始めます。さてさて、語順(主語・述語・動詞等)をはじめ、人称代名詞、時制…等々、以前から「近代日本語文法」については、百家争鳴、議論百出のテーマです。振り返れば、例えば、有名な「象は鼻が長い」(三上章・みかみあきら・1903-1971)は、国語学者達に様々な議論を巻き起こしました。たしか、私が大学生くらいだったので…50年程も前になるかな…、当時の「騒ぎ」をよく覚えています。そして結論だけ先に述べておけば、三上章は「欧米文法概念」を基礎とした「日本語文法構築」の否定(日本語には英語のような《主語》はない。《は》は主語を示すものではない。)だと思いますが、私の印象では未だに、この議論は続いているようです。これについては後でもうすこし詳しく考えたいと思っていますが、ここで、この議論の歴史を少しだけ振り返ってみます。

 

今調べてみるとこの『象は鼻が長い-日本文法入門』(くろしお出版)は1960年の上梓です。その当時は、一般にはそれほど評判になったわけでもなかったようですが、197090年代の「日本語論・日本文化論ブーム」で大きくとりあげられるようになりました。

 

この「日本語論・日本文化論ブーム」の背景には、当時の日本の高度経済成長(戦後わずか23年でGDP世界2位・1968年)により世界が「日本」に注目、「なぜ日本は成功したのか?」という問いが生まれます。経済学だけでは説明しきれず、そこで、「日本人の集団性」「企業文化」「村社会的伝統」等々、そして「日本語の特性」が注目され始めます。「経済の成功理由の探索」がきっかけで「日本文化・日本語の探索」にまで話が発展していきました。

 

例えば、その理由を探った、アメリカの社会学者のエズラ・ヴォーゲル(Ezra Vogel1930‐2020)著『ジャパンアズナンバワン・Japan as Number One: Lessons for America1979』が翻訳本で70万部のベストセラーとなります。まあ、アメリカの

ハーバード大学の社会学者が「日本に学べ」と語っている…と嬉しかった面(↔戦後コンプレックス)もあったのでしょう。

 

さて、日本語・日本文化論です。例えば鈴木孝夫(1926-2011)の『言葉と文化』(1973・岩波新書)、丸谷才一(1925-2012)の『日本語のために』(1974年・新潮社)や大野晋(19192008)の『日本語の文法を考える』(1978・岩波新書)、そしてこれは小説ですが高田宏(1937-2015)の『言葉の海へ』等々、一般向けの「日本語論」、「日本文化論」が続出、ちょうど学生であった私も、いろいろと読みましたが、上記にあげた本は、今読んでも非常に興味深いもので、お薦めです。

 

そして、かく言う加藤周一も日本文化論として『日本文化の雑種性』(「思想」19556月・岩波書店)を発表していましたが、この一連の「日本文化論ブーム」の中で1974年に講談社文庫から『雑種文化-日本の小さな希望』と題して出版、その文庫版の「あとがき」にこうあります。

 

「思えば20年の昔、1950年代の半ばに、私は旅から帰って、『日本文化の雑種性』その他の文章を書き、それを集めて、小冊子を刊行した。今講談社の文庫に収めるにあたり、作文のもっとも拙なるもの3篇を削って、60年代の初めに書いた『日本人の外国観』と『日本人の世界像』の2篇を加える。けだし《雑種文化》の歴史的な背景を説明して、旧版の議論を補うものと考えられるからである。私がここで言おうとしたのは、現代日本の文化の雑種性に積極的な意味を認めようではないか、ということと、対外的には、排他的でもなく、外国崇拝でもなく、国際社会のなかでの日本国の立場を、現実に即して、認識しようではないか、ということであった。その考えは今も変らない。1974年8月 ニュー・ヨークの客舎にて 著者」

 

余談ですが、私はこの文庫版の発売時に読んだので、当時、私は19歳でした。そして今読み進んでいる、この『日本文化における時間と空間』上梓が20073月、加藤周一が88歳、彼の逝去は200812月ですから、最晩年の作品です。それを70歳の私が読んで、皆さんに紹介しているのも、何か不思議な縁を感じます。加藤周一はそもそも東京大学医学部出身の医者でもあり、考える範囲は多岐に渡りますが、この「文化の違い・比較文化・Comparative Cultural Studie」(正確には「日本とは何か?」)は彼のメインテーマの1つでした。以下は今読んでいる『日本文化における時間と空間』の「あとがき」冒頭です。

 

「なぜ私はこの本を書いたか。

1950年代前半に、私はパリで暮らしていた。そして西欧の文化の基礎的な部分が日本のそれとは対称的に異なるのを感じ、帰国してから日本の近代文化の生々しい《雑種性》を指摘するとともに、その積極的な意味を強調した。

1960年代にはカナダの大学に職を得て、日本文学史を講じ、文学をとおして、日本精神史(または思想史)の本質的な特徴を見きわめようとした。その私なりの成果が『日本文学史序説』(1975-1980)筑摩書房である。外来思想と土着思想を二つのベクトルと考え、外来思想の〈日本化〉をベクトル合成の結果とする。土着思想の基本には〈此岸性〉と〈集団指向性〉を考えた。

1970‐80年代にはしきりに職場を変えて、私は日本・中国・メキシコと北米および西欧各地に放浪した。放浪にはある程度の生活の不安定を伴ったが、愉しみはそれよりもはるかに大きかった。その愉しみの一つが、文化的環境がちがえば異なる時間や空間の概念を経験し、観察することができるということである。」

 

この「外来思想と土着思想を二つのベクトルと考え、外来思想の〈日本化〉をベクトル合成の結果とする。」は一瞬わかりやすい気がしますが、「外来・土着」2つのベクトルの「方向」と「長さ」を探るのは大変な事です…もっともそれを考えるための執筆ではあると思いますが。とりあえず、下記のようなものでしょう…。

 

 

・外来思想と土着思想(此岸性・しがんせい)

加藤周一は56歳の頃、このキーワードである「外来思想(包括的体系)↔土着思想」と「此岸性↔超越・普遍性」について下記のように述べています。

 

「外来の世界観の代表的なものは、第1に大乗仏教とその哲学、第2に儒学、殊に朱子学、第3にキリスト教、第4にマルクス主義であった。この順序は、必ずしも厳密に、年代の順序ではない。仏教と儒教は、おそらく同時に、6世紀の中頃に輸入された。しかしそれぞれの世界観が日本文化に圧倒的な影響を及ぼした時期は、仏教の方が儒教の場合よりも早い。仏教は、7世紀から16世紀までの文化の背景として、重きをなした。儒教の影響は早くから現れて、14‐5世紀以降いよいよ強まったが、体系的な世界観としての宋学の影響が決定的になったのは、17世紀以後である。キリスト教は、16世紀後半と19世紀末・20世紀前半の、マルクス主義は両大戦間の知識層に、大きな影響をあたえた。

以上の他にも注意すべき外来思想として、先には老荘があり、後には西欧19世紀の科学思想があって、いずれも文学との関連において見すごすことができない。しかしそのいずれも、自然・人間・社会・歴史の全体を説明しようとする包括的な体系ではなかった。

外来の4つの世界観は、すべて包括的な体系である。抽象的な理論を備え、ある場合には彼岸的であり(仏教・キリスト教)、他の場合には此岸的である(儒教・マルクス主義)が、いずれも超越的な存在または原理との関連において普遍的な価値を定義しようとする。すなわち大乗仏教における仏性、キリスト教における神、儒教における天または理、マルクス主義における歴史である。そこでたとえば、仏性が超越的であるから、菩薩の慈悲が善悪の慣習的な基準を超えて、万人に及ぶということにもなる。神が絶対者であるから、万人はその前で平等であり、神に保証された正義は、特殊な歴史的文化を超えて妥当する。天が君主に超越するから、革命(の古典的な意味)が成りたち、理が普遍的であるから、理とされる規範は社会的状況に左右されない。歴史の法則が主観に超越するから、上部構造としての思想を進歩と反動の観点から説明することもできるのである。超越者が世界外的な存在であれば、体系は彼岸的であり、世界内在的な原理であれば、体系は此岸的である。中国の伝統的な世界観は、印度・西欧の場合と異なり、此岸的であった(老荘もその例に洩れず)。日本に印度の影響が及んだのは、中国文明を介してであり、西洋の影響が及んだのは、後の時代になってからの事である。したがって中国的世界観の此岸性は、日本の土着の文化の此岸性を保存するのに役立ったはずだろう。おそらく東アジアの文明の全体について、その思想的特徴は、中国の場合にも、日本の場合にも、共通の此岸的性格であるといえるのかもしれない。

『日本文学史序説』・日本文学の特徴について(19751980・筑摩書房)

 

さて、日本文化とは何か?という大元に話が飛んで?戻って?しまいました…。今回の本題に戻ります。加藤周一がこの一連の「象は鼻が長い」騒動に関心が無かったはずはありません。(或いは直接言及しているのかもしれませんが、私は知りません。)その加藤周一が「日本的時間観」の観点から、どのように「日本語の語順」を扱うのか見て行きましょう。

 

▶語順のちがいは、話し手・聞き手の、思考順序のちがいを反映するか?

「たとえば〈私は日本人です〉〈私は米を食べる〉等。〈私は〉をA、〈日本人〉または〈米〉をB、動詞をVとすれば、日本語の語順は、A‐B‐V、同じ意味の中国語や近代ヨーロッパ語では、A‐V‐Bであるのと異なる。文末に動詞を置く語順は、もちろん日本語にのみ固有なものではない(たとえば朝鮮語)。」

加藤周一『日本文化における時間と空間』岩波書店・2007

 

ちょっと余談ですが、果たして、「象は鼻が長い」以来の議論を意識しているようですね。上記、「記号設定」で、学校文法風に〈食べる〉は《VVerb・動詞》としていますが、〈私は〉を《SSubject・主語》、〈米〉を《OObject・目的語》とはしないで、敢えてABの記号を使用しているのでしょう。

 

さて本題の「語順のちがいは思考順序のちがいを反映するか?」ですが、加藤周一は「私は米を食べる。・I eat rice.」は〈米を食べる〉でも〈食べる米を・eat rice〉でも、直観的に話し手や聞き手は理解するが、「文が複雑で、長くなると、語順と思考の順序との関係が、強く意識されるようになる。」として、下記のように説明します。

 

〈私は東京で生れて育った〉〈私は米を米屋で買う〉、〈私は米をほとんど毎日食べる〉

この三つの文の内容を、「A‐B‐V」それぞれの修飾語として、第1の文〈私は米を食べる〉に加えれば、次の複雑な文となる。

 

(東京で生れて育った)私は(米屋で買う)米を(ほとんど毎日)食べる

 

この文は、第1に、「私は米を食べる」以下4つの単純な命題(①私は米を食べる。②私は東京で生まれた。③私は東京で育った。④私は米屋で米を買う。)の内容すべてを含むばかりでなく、第2に、4つの命題相互の関係をも明示する。最初の命題がこの文全体の骨格で、それにつづく3つの命題は、最初の命題の要素A-B-Vそれぞれの細部(detail)である。そのことは4つの単純な文を並列しただけでは、あきらかでない。別の言葉で言えば、個別の四つの命題を総合する最後の文は、全体と部分(または細部)との関係を明示することで、対象を構造化するのである。

 

しかしこのような総合には限界があり、その限界は、日本語の語順に係わる。〈東京で生れて育った云々〉という文は、修飾句すなわち細部から始まる、- というよりも始まらざるをえない。それを読みながら、修飾句が何を修飾するのか、〈生れて育った〉の次には鬼が出るか蛇が出るか、読者にはわからない。鬼にあらず蛇にあらず、もっとおだやかな〈私〉が出ても、その私が何をする話か、笑ったのか泣いたのか、文末にあらわれる〈食べる〉まで行かなければわかりようがない。要するに修飾語句が被修飾語に先行し、文末に動詞を置かざるをえない語順の原則は、全体を知る前に細部を読むことを読者に強制する。それでも「東京で生れて育った云々」という文が容易に理解されるのは、第1に、A-B-Vのそれぞれの修飾語句が短いからであり、第2に、内容が日常ありふれた話で、それを理解するために高度の知的努力を必要としないからである。修飾句が長くなればなるほど、また話題が抽象的になり、議論の知的厳密さが必要になればなるほど、このような語順によって条件づけられた文の理解は、それだけ困難になるだろう。全体の骨格を前提としないで細部を理解するのは、むずかしくなるからである。現にたとえば近代ヨーロッパ語による理論的な文章を日本語に訳す場合の大きな困難の一つは、次のようなものである。ヨーロッパ語の長い文を短い日本語の文に分割して訳せば、わかり易くなるが、短い命題相互の構造的関係は - それこそ原著者が長い文によって明示しようと望んだものであろうが - 多かれ少なかれ犠牲にされる。そこで長い原文を分割せず、できるだけその語順を尊重し、どうしてもやむをえない場合にだけ語順を変えて訳せば、わかりにくくなる。その例を挙げれば際限がない。」(同上)

 

日本語「細部から全体へ」↔ヨーロッパ語「全体から細部へ」

ここから加藤周一はマックス・ウェーバー(1864-1920)の『古代ユダヤ教・Das antike Judentum』の和訳を例にして説明するのですが、あまりに煩瑣なので省略、英文等の和訳で苦労した経験のある方なら、想像はつくと思いますが、結論は下記です。

 

「単純で短い文において、語順は大きな問題ではない。複雑で長い文においては、語順が大きな問題になることがある。長い文は、いくつかの短い文の等価的な並列であるか、主文の要素に修飾語句、殊に長い従属句を加えて、構造化された全体であるか、どちらかである。前者の場合には、長い文の部分相互の関係は弱く、各部分がそれぞれ全体から独立して意味をもつ傾向が著しい。後者の場合には、関係代名詞をもつヨーロッパ語と、それをもたない日本語の語順は異なり、ヨーロッパ語では読者の注意が全体から細部へ向い、日本語では細部から全体ヘ向う。すなわち従属句の叙述する細部が、日本語では、文の全体から離れてそれ自身を主張するのである。

細部と全体との関係を、時間の軸に投影すれば、細部を、時間の流れ全体のなかでの、それぞれの「今」と考えることができるだろう。文の全体から離れての細部(従属句)の強調は、前後の時間から離れての「今」の強調である。現在の出来事の意味は、自己完結的で、それを理解するために、必ずしも過去や未来の出来事を参照する必要はない。」(同上)

 

「日本語の語順」の話から、「象は鼻が長い」議論等の観点とは全く異なり、ついに「日本的時間観」である「今」が登場しました。私が言うのも僭越至極ですが、さすが88年を積み重ねた加藤周一、とても美しい論理展開だと思います。みなさんはどう感じられますか?さて次回は「日本的時間観」に直接的な「日本語の時制」を扱います。でも「象は鼻が長い」…にもどこかで触れたいと思っています。

 

以上

2026年5

 

追記 袁枚の七言詩の対幅

理屈っぽい話が続いたので、「追記」は書道鑑賞にしてみます。今回のコラム本編冒頭に引用した袁枚(えんばい)ですが、袁枚の対幅(書いたのは袁枚であること確かのように思います。そして私に確認する能力はありませんが、この聯の内容から想像すると袁枚の詩っぽく感じます…。)を紹介します。たまたまネットで見つけたもので、台湾の國立故宮博物院所蔵とありました。

 

 

奇書古墨不論價 幽夢清詩信有神

奇書古墨ハ価ヲ論ゼズ、幽夢清詩ハ信ニ神有リ。

【大意】『珍しい書物や古い書跡は、その値段で価値を測るものではない。奥深い夢と清らかな詩には、まことに神韻が宿る。」

【語註】「奇書」:珍しい書物。「古墨」:古人の墨蹟、古い名墨。「不論價」:値段は問題ではない。「幽夢」:奥深い夢想。「清詩」:清雅な詩。「信」:本当に。「神」:神韻、神秘的な雰囲気。

 

左の落款部分に「癸丑清明前二日隨園老人袁枚」とあります。袁枚(1716–1797)の生涯に当てはまる癸丑(きちゅう・みずのとうし)は、1733年(18歳)と1793年(78歳)の2つですが、署名が「隨園老人袁枚」(隨園は彼の邸宅の名前)ですから、18歳の袁枚ではありえません。したがって、「1793年(乾隆58年)清明の2日前」、清明節が44‐5日くらいだとすると、4月初め頃、袁枚は1797年に81歳で亡くなっていますから、この聯は亡くなる約4年前、78歳頃の作品ということになります。

 

因みに右は「朗巖仁兄雅鑒供」調べると「朗巖」人名、「仁兄」は同輩への敬称、「雅鑒」は「鑑賞ください」という定型句のようです。朗嚴さんにあげたものなのでしょう。

 

さて、以下は私の印象としての、この対幅(七言詩)の意図するところです。「奇書古墨」は具体的なもので通常、評価(値段を付ける)しやすいもの(骨董・お宝)でしょうが、それすらも、先ず金銭価値判断では無い…と通常の社会的価値評価を否定します。そして袁枚が言いたいのはここからです。「幽夢」(究極の捉えどころのないイメージ)そして「清詩」(実はその「幽夢」を言語に定着しようとして試みた成果)、即ち対句表現で《奇書↔幽夢》、《古墨↔清詩》…そして結論としてそこ清詩「神」…勿論 欧米文化の “God” ではなく、おそらく窮極の不可思議、言語表現できないもの(つまり森羅万象の正体)が現れる…?現れている…?ということでしょう。

 

そして、ここでは《古墨↔清詩》は対立概念として置かれていますが、その袁枚自身が《今》書いているその対幅が233年後の私(読者)にとって《今》「古墨」となり、「清詩」になっているわけですが、そこまで袁枚は意識したのでしょうか…。

 

…結局「理屈ッぽい!」

 

 

No.58 人間四月是仙郷の「孫文のいた頃」をみるlist-type-white