国際交流・留学にすぐには役立ちそうにない教養講座58
ー世界に「日本が存在していてよかった」と思ってもらえる日本に…
国際交流・留学にすぐには役立ちそうにない教養講座
No. 58 人間四月是仙郷の「孫文のいた頃」
薫風吹緑晩花香 深院沈沈晝酒長
太古之山少年日 人間四月是仙郷
磐渓學人景
薫風緑ニ吹キ晩花香ル 深院沈沈トシテ晝酒長シ
太古ノ山、少年ノ日 人間四月是仙郷
磐渓學人景(うつ)ス
【大槻盤渓・おおつきばんけい・享和元年・1801‐明治11年・1878】日本の幕末から明治初頭にかけて活躍した仙台藩士、養賢堂(仙台藩藩校)学頭、儒者、漢学者。父は大槻玄沢(1757‐1827・蘭学者)。息子に大槻文彦(1847‐1928・国語学者・辞書『言海』の編者)。この三人を「大槻三賢人」と称す。
【大意】初夏の薫風が草木を緑に吹きなびかせ、咲き残っている遅い花(桃・杏子・李?)はよい香りがする。奥深い屋敷はひっそりと静まり返り、私はそこで昼酒をのんびりといつまでも呑んでいる。まるで太古の山にいるようで、心は少年の日々がよぎる。この四月(新暦だと6月くらい・初夏)は、まさに仙境である。
【語註】「晩花」:遅咲きの花、仙郷とあるから、桃源郷のイメージで桃?「景」:「影」の略字・本物に似せて作ったもの・模写・まねてうつすこと。また、そのうつしとったもの。
この詩は実は「掛軸」で見かけたものです。美しい詩だと感動して引用しました。署名「磐渓學人」の箇所下にあった「景」という文字の意味がわからず調べると上記のように「写した」ということがわかりました。つまり大槻磐渓が誰かの詩を書いて掛軸に仕立てたもののようです。調べてみましたが、作者はわかりませんでした。ただ友人の中国出身の国文学者の李國寧氏に尋ねると、おそらくこの詩の「本歌」であろう詩を教えてくれました。こちらも美しいと思います。
《酔眠》 唐庚
山靜似太古 日長如小年
余花猶可醉 好鳥不妨眠
世味門常掩 時光簟已便
夢中頻得句 拈筆又忘筌
《酔イテ眠ル》 唐庚(とうこう)
山静カニ太古ニ似テ、日長ク小年ノ如シ。
余花(よか)ナオ酔フベク、好鳥(こうちょう)眠ルヲ妨(さまた)ゲズ。
世味(せみ)ニ門常ニ掩(おお)ヒ、時光(じこう)ハ簟(たかむしろ)スデニ便アリ。
夢中シキリニ句ヲ得レド、筆ヲ拈(ひね)レバマタ筌(せん)ヲ忘ル。
【唐庚】とうこう・1070‐1120。北宋の官吏、詩人。梅州市(現在の四川省梅山市)の出身。
【大意】《酔って眠る》山は悠久・太古を思い起こさせ、そして1日は長く、まるで1年のようにゆったりと流れる。
時節の終わりの桃の花に、さらに酒は美味く、鳥の声まで眠りをさそう。俗世は相手にせず門を閉ざし、気付けばもう夏装の竹むしろが気持ちいい。居眠りをしていれば、イイ感じの詩句(ここでは真意・世界の本質)が色々と浮かぶけど、醒めていざ筆を取れば、詩句(ここでは手段・筌・言葉)をまた忘れてしまう。
【語註】「太古」:はるか昔。原初の時代。「小年:1年間」。「余花」:散り残った花。「世味」:世俗、世情、俗世の煩わしさ、処世の感覚。「簟」(たかむしろ):竹のむしろ、夏の寝具。「筌」(せん):魚を捕るための道具(うけ・仕掛け)。
言語哲学的な意味深い詩です。最後の「忘筌」は『荘子』・(外篇)の一節を意識したものでしょう。
筌者所以在魚 得魚而忘筌 筌は魚に在る所以にして、魚を得て筌を忘る。
蹄者所以在兔 得兔而忘蹄 蹄(てい)は兔(うさぎ)に在る所以にして、兔を得て蹄を忘る。
言者所以在意 得意而忘言 言は意に在る所以にして、意を得て言を忘る。
吾安得夫忘言之人而與之言哉 吾、安(いづ)くにか夫(か)の言を忘るるの人を得て、之(これ)と與(とも)に言はんや。
【荘子】そうし・BC 369年頃 – BC 286年頃・中国戦国時代の思想家・『荘子』(そうじ)の著者。道教の始祖の一人。
【大意】〈筌〉は魚を獲るための道具だから、魚を得たら〈筌〉のことは忘れてもよい。〈蹄〉はウサギを獲るための道具だから、ウサギを得た〈蹄〉のことは忘れてもよい。〈言葉〉は〈意〉を得るための道具だから、〈意〉を得たら言葉は忘れてもよい。私は、どうすれば、〈言葉〉を忘れた(とらわれない)人に出会い、そして、その人と語り合うことができるだろうか(いや、できないだろう)。
最後の句に、もう少し解釈を加えれば、「私はどうすれば、〈言葉〉にとらわれない)人に出会うことができて、そうしたら、その人と語り合いたい(言葉で…)ものだが、それはありえない…矛盾なのだから」、「言葉を超えた人と語り合いたいのに、結局こんなふうに言葉で語るしかないんだから、そんな人には出会えない」という逆説的な…矛盾ですね。
No.37「孫文のいた頃」の「追記・中華の隠者・隠逸」で延々と語った、私の好きな陶淵明(365‐427)の『飲酒』の最後の2句「此中有真意/欲弁已忘言(此の中に真意有り、弁ぜんと欲して已に言を忘る)」と同じ発想です。
そして、この詩『酔眠』が「本歌」であるとすれば、『酔眠』の5、6、7、8句の説明的煩瑣を避けて、また『睡眠』では否定している「世味」を、ある意味同義語である「人間・じんかん・世間」として肯定しています。最後に「太古之山少年日 人間四月是仙郷」と洒脱に結んだ、何ともカッコイイ詩であると思います。勿論、「本歌」があるからできる遊びではあります。
倣 和漢朗詠集
◆これまでの流れと復習
さて、そもそもの発端は、No.39「孫文のいた頃」で取り上げた「国や文化によって異なる時間の概念」を知りたかったのでした。そして、勿論その背後には「日本とは何か?」という大テーマがあり、その一環として「日本の時間観」を探りたいと考えたのでした。当初、加藤周一(大正8年・1919-平成20年・2008)の『日本文化における時間と空間』岩波書店・2007年を参考に、古代ギリシア、ユダヤ・キリスト教、古代中国の「時間概念」「歴史観」を比較検討してきました。
その過程で遭遇したのが大難関「仏教の時間観」でした。「仏教時間観=無常観」くらいの認識の私でしたが、「仏教の時間観」とは即ち「華厳・唯識哲学の時間論・存在論」で、「曼荼羅」にまで飛び火して、「時間=存在=非連続」という大変な「哲学」を学習することになったのでした。2024年11月、No.41「孫文のいた頃」からNo.55「孫文のいた頃」まで、1年以上(14回)をかけて、井筒俊彦(1914-1993)の著書『コスモスとアンチコスモスー東洋哲学のために』(1989年・岩波書店)の「読解勉強」という形式で考えました。その「仏教の時間観」の正体とは井筒俊彦曰く「道元の時間哲学に窮極する(と私の考える)大乗仏教の時間論的思想」でした。そして最終的に道元の『正法眼蔵』の《有時》の章をともかく、おそらく私の理解度6~7割?で読了したのでした。そもそも、加藤周一は「仏教は時間をどう考えてきたか。その問題を体系的に論じることは、本書の領域をはるかに越える。」と、忠告してくれていたのですが…。そして前々回、No.56「孫文のいた頃」で、日本の時間観として『古事記』における時間観(歴史観)について、ユダヤ・キリスト教の時間観・『旧約聖書』と対比しながら考えたのでした。同時にそれは「神」の概念の違いでもありました。人間主義的な『旧約聖書』の「創世期・天地創造」に現れる始めと終わりがある、「線分的時間観」と、『古事記』の冒頭に理由なく無意味に登場して消える「天之御中主神・あめのみなかぬしのかみ」に象徴される「始まりも終わりもない「直線的時間・歴史観」の対比は極めて対照的でした。
そして前々回の最後に、下記の考察に達したのでした。『〈今〉の継起』です。実は加藤周一の語る日本的時間の結論は「〈今〉の継起」でした。
▶「それぞれの事件の現在」=「〈今〉の継起」こそが〈時間〉に他ならない。
「無限の直線としての時間は、分割して構造化することができない。すべての事件は、神話の神々と同じように、時間直線上で、〈次々に〉生れる。それぞれの事件の現在=〈今〉の継起が時間に他ならない。すでに過ぎ去った事件の全体が当面の〈今〉の意味を決定するのではなく、また来るべき事件の全体が〈今〉の目標になるのではない。時間の無限の流れは捉え難く、捉え得るのは〈今〉だけであるから、それぞれの〈今〉が、時間の軸における現実の中心になるだろう。そこでは人が〈今〉に生きる。」(加藤周一『日本文化における時間と空間』岩波書店・2007年)No.56「孫文のいた頃」
そしてこれは即ち、「華厳哲学」、「道元の時間論」と同じ結論(時間・存在の不連続)でした。ただ華厳哲学の方向からではなく、加藤周一は「今・現在」が時間の正体であることを、「時間の無限の流れは捉え難く、捉え得るのは〈今〉だけであるから、それぞれの〈今〉が、時間の軸における現実の中心になるだろう。」という論理から、「時間の正体」をきれいにまとめています。ただ、この著作『日本文化における時間と空間』においては、表題にもあるように「空間」も扱うのですが、分けて扱っており、後に「空間・存在」への考察が登場します。
ここで、さらに復習になりますが、「No.52孫文のいた頃」から、「華厳哲学」によって説明した、井筒俊彦の「時間論」をあげておきます。下記が多少複雑なのは「時間=存在」なので、時間と存在を同時に(しかもイスラム思想との共通性も踏まえて)語っているからです。しかし、下記で語る「刹那の連鎖」こそ時間であるとして、加藤周一と同様のことを語っています。
▶途切れ途切れの、独立した(前後際断)時間単位、〈刹那・今〉の連鎖こそ時間の真相
「・時間の直線的連続性の否定(刹那の連鎖)
「時々刻々の新創造。この表現は、それ自体のうちに、時間論と存在論との二側面を合わせもっている。〈時々刻々〉が、その時間論的側面であることは明瞭であろう。その点だけは明瞭だが、しかし、それが哲学的に含意するところは必ずしも明らかではない。先ず、時々刻々とは、時の念々起滅を意味するということに注目する必要がある。すなわち、これは時間の直線的連続性の否定なのである。外界の事物、いわゆる外的世界、とは本性的にはなんの関わりもなく、一様に流れる〈絶対時間〉(二ュートン)、どこにも途切れのない恒常的連続体としての時間を否定して、途切れ途切れの、独立した(前後際断*)時間単位、刹那、の連鎖こそ時間の真相であると、この考え方は主張する。要するに、時間は、その真相において、ひとつ一つが前後から切り離されて独立した無数の瞬間の断続、つまり非連続の連続である、というのだ。」
【語註】「前後際断」:「道元は言うのだ。薪が燃えて灰になる。いったん、灰になってからは、また元にもどって薪になることは不可能だ(と、普通の人間の常識は考えている)。だが、このような(誤った)経験的認識の事実に基づいて、灰は後、薪は先、というふうに見てはならない。事の真相は、むしろ次のようである(〈しるべし〉)。薪は、薪であるかぎりは、あくまで薪なのであって(〈薪の法位に住して〉薪という存在論的位置に止まって)、独立無伴、その前後から切り離されている(〈前後際断〉)。前の何かから薪となり、またその薪が後の何かになる、というのではない。」「No.47 孫文のいた頃」
・時間=存在
「しかし、それだけではない。この種の哲学的思惟元型においては、時は有(存在)と密接不離の関係にあり、窮極的には時は有と完全に同定される ー 道元のいわゆる〈有時・うじ〉存在・即・時間。従って、時の念々起滅は、同時に、有の念々起滅でもある。」
・時々刻々と世界が現れる、終わる(〈現在〉と定義された時間だけが常にある?)
「さきに挙げた〈時々刻々の新創造〉という表現の最後の一語、〈新創造〉がそれの存在論的側面であることは言うまでもない。要するに、〈時々刻々の新創造〉とは、時々刻々の新しい世界現出ということ。つまり、時の念々起滅とともに有の念々起滅が現成し、刻々に新しい存在世界が、いつも、新しく始まる、始まっては終り、終ってはまた新しく始まっていく、というのである。」
・〈諸行無常・儚さ〉を感じるのか?〈本質・真理〉を感じるのか?
「時と有と(あるいは、時すなわち有)の、この念々起滅の実相に、我々一般の常識的人間は、たまたまそれに気付くことがあったとしても、せいぜい、人の世の儚さを感じるくらいのものである。時々刻々の〈新創造〉を、存在の無常、万物の流転遷流として、情的に感受するのだ。これに反して、東洋の哲人は、この同じ念々起滅の実相に、時と存在の限りない充実の姿を見る。刻々に移ってやまぬ時の流れの一瞬一瞬の熟成に全時間の重みを感得し、一瞬ごとに現成するひとつ一つのもののなかに、全存在世界の開花(本質・真理)を看取する。だが、この一見不可思議な事態の内部構造の、より分析的な理解のためには、後で、もっと多くの言葉が費やされなければならない。」
さて、ここまでは、「No.45、46 孫文のいた頃」の2回で、牽強付会のおそれがなくはありませんが、分子生物学者、福岡伸一(1959-)の「動的平衡」理論を援用して、ともかく理解したのでした。
▶時々刻々の〈新創造〉・〈今〉の継起
「肉体というものについて、私たちは自らの感覚として、外界と隔てられた個物としての実体があるように感じている。しかし、分子のレベルではその実感はまったく担保されていない。私たちの生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい〈淀み〉でしかない。しかも、それは高速で入れ替わっている。この流れ自体が〈生きている〉ということであり、常に分子を外部から与えないと、出ていく分子との収支が合わなくなる。」
福岡伸一『生物と無生物のあいだ』講談社現代新書・2007年」
▶「〈今〉の継起」という考え方を中心とした日本文化における3つの「時間観」
時間の正体は「〈今〉の継起」です。そして、この「〈今〉の継起」』という考え方を中心とした3つの時間観の❶「始めなく終わりない直線的時間・歴史観(古事記)」及び、他文化と比較すればかなり特殊に拘っている➋「四季を中心」とした「円周上の循環・日常的時間」について前回考察しました。
「かくして日本文化のなかには、三つの異なる型の時間が共存していた。すなわち❶始めなく終りない直線=歴史的時間(古事記)、➋始めなく終りない円周上の循環=日常的時間(四季)、❸始めがあり終りがある人生の普遍的時間(諸行無常)である。そしてその三つの時間のどれもが、〈今〉に生きることの強調へ向うのである。」(同上)
そして、今回はこの❸「始めがあり終りがある人生の普遍的時間(諸行無常)」から考えてみたいと思います。
▶「始めがあり終わりがある人生の普遍的時間観」(諸行無常・生者必滅)
これも「四季」の「円周上の循環」と同様、我々の日常生活感(諸行無常・生者必滅)に近いものがあり、比較的わかりやすいかと思います。
「『平家物語』はその冒頭(『祇園精舎』)に、〈諸行無常〉とならべて〈盛者必衰〉を言う。これはもちろん仏教的修辞である。しかし鎌倉時代に『平家物語』を聴いた人々は、仏教の影響があろうとなかろうと、〈盛者必衰〉の事例を思い出すのに苦労はしなかったろう。仏教のおかげでその程度の〈ことわり〉を悟ったのではなく、〈盛者必衰〉の現実を熟知していたから、仏教的修辞を理解したのにちがいない。春夏秋冬のように、歴史の流れは循環していた。しかも『平家物語』の本文は、その後に続けて、中国古代史のいくつかの事例を引用している。作者は、誰だかわからぬが、先に述べた中国の循環史観をおそらく知っていたかもしれない。」(同上)
『平家物語』冒頭の「祇園精舎」の章は有名ですが、念のため下記に引用しておきます。私は学校の授業で暗誦し、何となく理解しているつもりで、「祇園精舎≒お寺」くらいにしか考えていませんでしたが、語注を見て、なるほど「鐘の声」とはそういう意味であったかと、今更ながら気付いたのでした。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。
遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の周伊、唐の禄山、是等は皆旧主先皇の政にもしたがはず、楽みをきはめ、諫をも思ひいれず、天下の乱れむ事をさとらずして、民間の愁る所を知らざツしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。
近く本朝をうかがふに、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、此等はおごれる心もたけき事も、皆とりどりにこそありしかども、まぢかくは六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申しし人の有様、伝へ承るこそ、心も詞も及ばれね。」
【語註】「祇園」:〈祇樹給孤独園〉の略。中部インド、コーサラ国の皇子ジェーダの林苑を富豪スダッタが買収し、僧院を建てて釈尊に寄進したもの。
「精舎」:〈精進の堂舎〉の意。その西北隅に無常堂があり、収容された病僧が臨終を迎えると、その四隅の玻璃と白銀の八つの鐘が自然に鳴って諸行無常の偈を示しその苦を和らげたという。
「諸行無常」:『涅槃経・聖行品』に見える偈の一句。万物は生滅流転し、常住不変ではない、の意。
「娑羅・しゃら」:梵語サーラの音訳で、日陰をつくる大樹の意。クシナガラの郊外にあり、釈迦が入滅した時に白い花を咲かせたという。
「盛者必衰・じょうしゃひっすい」:威勢のある者も滅びてしまうものであるという道理を示している。仁王経・護国品に見える句。
「遠く異朝をとぶらへば」:以下、中国の叛臣を列挙。趙高は秦の宦官、王莽は西漢 の成帝の后の父、朱异(周伊)は梁の武帝の寵 、禄山は唐の玄宗の臣。いずれも国を乱したが誅せられた。
「近く本朝をうかがふに」:以下、日本の叛臣を列挙。承平の乱の平将門、同じ頃四国・九州で叛した藤原純友、康和年中に九州で乱を起こした源義親、平治の乱の藤原信頼。武力によって世を乱した人が挙げられる。
「六波羅」:現京都市東山区の六波羅蜜寺付近。
梶原正明(1927-1998)・山下弘明(1931-) 校注『平家物語・祇園精舎』岩波文庫・1999年(語註も)
『平家物語絵巻』「巻第十一 鶏合 壇浦合戦」辺り、作者・土佐佐助・江戸期(林原美術館蔵)
「平家一門の栄枯盛衰は、すでに中世において、絵巻や障屏画形式で描かれ、扇散し(おおぎちらし・扇を散らしたデザイン)、屏風としてもかなり好まれた画題であった。しかし源氏物語絵にくらべると遺品に乏しい。本絵巻は江戸時代初期をすぎるころの古典リバイバルの風潮にもとづく作品の一つといえ、『平家物語』12巻をそれぞれ上・中・下の3巻とし、全36巻、描かれた絵の数も705場面を数える。絵巻として現存するものとしては日本で唯一の作であり、平家物語関係の資料としても貴重視される本絵巻を描いたと伝わる土佐左助については詳細不明であるが、漢画的な素養も修得していた画人のようにうけとれる」(林原美術館HPより)
▶人類に普遍的な「諸行無常・生者必滅」と文化によるその受け取り方の違い
ここに「諸行無常」と「盛者必衰」の2つの似たような概念が出てきます。加藤周一はこれを区別し、上記で「盛者必衰」を「循環史観」であるとしています。そして「諸行無常」については下記のように語ります。
「しかし〈諸行無常〉の方は、歴史的時間の循環ではなくて、始めあり終りある人生の話である。命短し。これは人間の条件であって、文化によって異なるものではない。文化によって異なるのは、その事実に対する対応の仕方である。たとえば道教は人生を延長して〈不老不死〉をもとめる。仏教やキリスト教には、死後の魂が〈第二の生〉に入るとする考え方があり、絶対者と合一する体験を通して生死を超越する神秘主義もある。宗教的立場をとらぬ場合には、人生夢の如しという哀感への没入があり、また人生は短いから現在を愉しめという快楽主義的な態度もある。いずれも古今東西の抒情詩にあらわれていて、日本の場合も例外ではない。
人生は一定方向へ進む有限の直線であるから、分節化される。故に青年といい、中年といい、老年という。一度過ぎ去った一分節は、戻らない。〈失われし時〉はもとめても、再び生きることはできない。人生の時間は非可逆的な流れであり、同じ事件は二度起こらず、事件相互の関係はしばしば密接で、因果論的であり得る。すなわち無限の歴史的時間とは異なり、人生の経験された有限の時間は構造化される。」(同上)
有名な『平家物語』の「祇園精舎」の章を例に挙げての説明で、語彙が混同しがちなので、ちょっと整理します。先ず「諸行無常」と「盛者必衰」は意味が異なります。加藤周一も定義しているように「盛者必衰」とは、「盛んな者もいつかは必ず衰える」であり、即ち「繁栄して勢いのある者もいつかは衰える」の意です。これを「循環歴史観」と定義しています。一方、「諸行無常」とは広い意味で「山川草木・この世のあらゆるものは絶えず変化していて常なるものは1つも無い」という意味になります。これを特に我々人間に当てはめれば「生者必滅」と言ったほうが分かり易いかと思います。であるから「これは人間の条件であって、文化によって異なるものではない。」(「栄えるものは衰える」これは特に人間の条件ではありません。「生まれたものは死ぬ」これは人間の条件です。)としているわけです。
因みに『平家物語』の巻第十「維盛入水」ではこの「生者必滅」の言葉が出てきます。平維盛(1159-1184・たいらのこれもり)は清盛の長男の重盛の長男です。平家一門のトップ中のトップの家柄ですが、大将として出陣した「富士川の戦い」で敗北し、「倶利伽羅峠の戦い」で壊滅的な敗北をします。平家一門の都落ちの時に、戦列を離れ、出家し熊野・那智沖の海で入水自殺したという武将です。下記はその時に坊さんが維盛に語る場面です。
「生者必滅、会者定離は浮世の習にて候なり。すゑの露もとのしづくのためしあれば、たとひ遅速の不同はありとも、おくれ先だつ御別、遂になくてしもや候べき。」
【語註】:「生者必滅、会者定離」:生命ある者は必ず死に、出会った者は必ず離れねばならない。ともに人生の無常を示す語。「すゑの露もとのしづくのためし」:草木の葉末にたまる露と、その根元から落ちる水滴。ともに遅かれ速かれ消えるものとして、はかなさの譬えにいう。「たとひ遅速の不同はありとも」:遅いか速いかの違いがあっても。「遂になくてしもや候べき」:結局はないなどということがありましょうか。
梶原正明(1927-1998)・山下弘明(1931-) 校注『平家物語・維盛入水』岩波文庫・1999年(語註も)
さて、以上で、「〈今〉の継起」という時間の根本的考え方、を基にした日本文化における3つの時間観、❶始めなく終りない直線=歴史的時間(古事記)、➋始めなく終りない円周上の循環=日常的時間(四季)、❸始めがあり終りがある人生の普遍的時間(諸行無常)を見たのでした。
加藤周一はこの後、各文化における「時間のさまざまな表現」を通して、日本文化について考えていきます。次回も読書会的に、これに従い、「日本的な時間観」について考えてみたいと思います。
以上
2026年4月
追記 日本文化における李白の『春夜宴桃李園序』(快楽主義・現世肯定)的な「詩歌」を考えてみると…
▶「諸行無常」の受け取り方
上記コラム本編で加藤周一は「諸行無常」は全人類、どの文化であっても、人間の条件であるから文化によって異なるものではない…ただその受け取り方が文化によって異なる、としています。これはまた非常に興味深い問題ではありますが、今私にこれを追求する能力はありません。加藤周一もここでは、いくつか宗教的例を平易にあげただけで、それ以上突っ込んではいません。ただその後に、「宗教的立場をとらぬ場合には、❶人生夢の如しという哀感への没入があり、また➋人生は短いから現在を愉しめという快楽主義的な態度もある。いずれも古今東西の抒情詩にあらわれていて、日本の場合も例外ではない。」と語っています。
ここで彼は「快楽主義的な態度」の詩として李白の『春夜宴桃李園序』とピエール・ド・ロンサール(Pierre de Ronsard・1524‐1585・ルネサンス期フランスの詩人)の有名な「les roses de la vie」(生命のバラ)を引用しています。「Vivez, si m’en croyez, n’attendez à demain; Cueillez dès aujourd’hui les roses de la vie.」(生きなさい、私を信じるなら、明日を待たないで、今からすぐに生命のバラを摘みなさい。)
李白(701-762)の『春夜宴桃李園序』は高校の教科書にも載っている有名なもので、ご存知の方も多いとは思いますが、念のために挙げておきます。
春夜宴桃李園序
夫天地者万物逆旅、光陰者百代之過客。而浮生若夢、為歓幾何。古人秉燭夜遊、良有以也。況陽春召我以煙景、大塊仮我以文章。会桃李之芳園、序天倫之楽事。群季俊秀、皆為恵連、吾人詠歌、独慚康楽。幽賞未已、高談転清。開瓊筵以坐華、飛羽觴而酔月。不有佳作、何伸雅懐。如詩不成、罰依金谷酒数。
春夜、桃李ノ園ニ宴スルノ序
夫レ天地ハ万物の逆旅ニシテ、光陰ハ百代ノ過客ナリ。
而シテ浮生ハ夢ノゴトシ。歓ヲ為スコト幾何(いくばく)ゾ。古人ノ燭ヲ秉(と)リテ夜ニ遊ブハ、良(まこと)ニ以(ゆえ)有ルナリ。
況(いわ)ンヤ陽春、我ヲ召クニ煙景ヲ以テシ、大塊ノ我ニ假(か)スニ文章ヲ以テスルオヤ。桃李ノ芳園ニ会シ、天倫ノ楽事ヲ序ス。群季ノ俊秀ハ、皆、恵連タリ。吾人ノ詠歌ハ、独リ康楽ニ慚(は)ズ。幽賞、未ダ已マズ。高談、転(うた)タ清シ。瓊筵ヲ開キテ以テ華ニ坐シ、羽觴ヲ飛バシテ月ニ酔ウ。
佳作有ラズンバ何ゾ雅懐ヲ伸ベン。如(も)シ詩成ラズンバ罰ハ金谷ノ酒数ニ依ラン。
【語註】「逆旅・げきりょ」:旅館、宿屋。「光陰・こういん」:光=日、陰=月、歳月・時の流れ。「百代・ひゃくだい」:多くの世代、永い年月。「過客・かかく」:通り過ぎる旅人、人生を通過する存在としての人間、あるいは時間。「浮生・ふせい」:はかない人生。「煙景・えんけい」:春霞の風景、〈煙〉は煙ではなく「霞」。「大塊・たいかい」:大地、自然、天地。「天倫・てんりん」:血縁・親族のつながり。自然の道理としての家族関係。「序・じょす」:ここでは〈叙する〉〈述べる〉〈催す〉の意。*〈序文を書く〉という意味だけではない。「群季。ぐんき」:弟たち一同、年少の親族たち。「惠連・けいれん」:謝恵連(しゃけいれん)、南朝宋の詩人、謝霊運の従弟。「康樂・こうらく」:謝霊運(しゃれいうん)の爵位「康楽公」、六朝随一の詩才。「幽賞・ゆうしょう」:静かに風雅を味わうこと。「高談・こうだん」:高尚な議論。「転・うたた」:ますます。「瓊筵・けいえん」:玉(瓊)のように美しい宴席(筵)。「羽觴・うしょう」:鳥の羽の形をした杯(觴)、軽妙に杯を回すことをいう。「雅懷」:風雅な思い。「金谷酒數・きんこくのしゅすう」:〈金谷園〉の宴会の罰酒の決まり、西晋の石崇(せきすう)の豪奢な宴の故事。詩ができなければ、定められた杯数の酒を飲まされる。【大意】そもそも天地というものは、万物にとっての旅館のようなものであり、光陰(時の流れ)は、幾世代にもわたって通り過ぎてゆく旅人のようなものだ。そしてこのはかない人生は夢のようで、楽しめる時間などどれほどあるだろうか。昔の人が、灯火を手にして夜まで遊んだのも、まことに理由のあることだ。ましてや、うららかな春は霞む景色で私を招き、大いなる自然は私に詩文という才を仮に授けてくれた。こうして桃や李の香る園に集い、親しい身内の楽しみをここに催す。弟たちは皆すぐれた才能を備え、まるで謝恵連のようだ。私も詩を吟じようと思うが、ただ謝霊運(康楽公)に比べれば恥ずかしいばかりである。静かな景色を味わう興は尽きず、語らいはますます清らかに澄んでゆく。玉のように美しい宴席を開いて花のもとに座し、鳥の羽のように軽やかな杯を飛ばして月に酔う。もし佳い詩作がなければ、この雅なる心をどうして述べられよう。詩ができなかった者は、金谷園の酒宴の例にならい、酒を罰として飲むことにする。
この詩の1、2句目は、芭蕉の『奥の細道』冒頭にも引用されていますね。私は高校生の頃、漢文の授業でこの詩に出逢って、お酒が呑めるわけでもないのに、豪快・洒脱な何てカッコイイ詩だろうと思ったものです。
ただ、ここでふと、とまどってしまうことが1点あります。❶(人生夢の如しという哀感への没入)は確かに日本文化においては氾濫していて、いくらでも思い付くのですが、➋(人生は短いから現在を愉しめという快楽主義的な態度)の「日本抒情詩」がパッと思い付きません。或いはそんな研究もあるのでしょうが、私は思い付かなかったので、AI・ChatGPTを使用して探してみました。AIが提示してきたのは大伴旅人(665‐731)、『万葉集』の中の「太宰帥大伴卿の酒を讃めし歌十三首」の中の1首(①)でした。「お酒」の和歌として、比較的有名(特に⑦が有名)で私も目にしたことはありました。確かにこの13首の中には、「快楽主義的な態度」の歌が3首ありました。李白(701-762)より時代的に前で、歌中に「竹林の七賢人」も登場してくるので「六朝文化」影響下の歌でしょう。以下に、13首全部上げておきます。純粋に「酒への愛」の歌がほとんどです。ただ、ここでは深堀しませんが「酔い泣き」という言葉が出て来る歌も3首もあります。AIで調べてみると、この言葉は『万葉集』にも、後の「二十一代集」(『古今和歌集・905』–『新続古今和歌集・1439』で534年間の21の勅撰和歌集)においても1度も登場しません。或る意味、大伴旅人の特殊性がこの件からも推察できるように思います。さて、この中で快楽主義的な印象の歌3首は、文字を紫色にしました。
「太宰帥大伴卿(だざいのそちおほともきやう)の酒を讃(ほ)めし歌十三首」
① 験(しるし)なき 物を思はずは 一杯(ひとつき)の 濁れる酒を 飲むべくあるらし〈巻3・338〉
【大意】何のかいもない物思いをするくらいなら、一杯の濁り酒を飲むべきであるらしい。
【語註】大宰府の長官大伴旅人が酒を讚えた歌十三首。酒を讃美することは中国の詩文に例が多い。なかでも、竹林の七賢の一人、晋の劉伶の「酒徳頌」(文選四十七)は、紳士君子が目を怒らして飲酒の悪を攻撃し、礼法を説くことを冷笑する。そのような超俗の姿勢としての飲酒の意味づけは、「酒を讚めし歌十三首」における「賢しら」批判にも一貫している。この歌は、十三首の総論にあたる。「濁れる酒」は隠者の飲む、白濁した下等の酒。「濁酒一盃、弾琴一曲、志願畢(をは)れり」(晋·嵇康「与山巨源絶交書」文選四十三)。
② 酒の名を 聖(ひじり)と負(おお)せし 古(いにしへ)の 大き聖の 言(こと)の宜(よろ)しき〈巻3・339〉
【大意】酒の名を聖人と名付けた、古の大聖人というそ の言葉の適切さよ。
【語註】禁酒令の行われた魏の時代、酔客たちが秘かに濁酒を賢人、清酒を聖人とよんだという説話(「魏略」・芸文類聚・酒)によって、その命名の絶妙を賛嘆する。第二句の「聖」を、第三・四句で「古の大き聖」と繰り返す。結句の「言」は言葉。
③ 古の 七(なな)のに賢(さか)しき 人たちも 欲(ほ)りせしものは 酒にしあるらし〈巻3・340〉
【大意】古の七賢人もまた、欲しがったのはもっぱら酒だったらしい。
【語註】「古の七の賢しき人たち」は、俗世を避け、飲酒、 清談、弾琴に遊んだ魏晋の「竹林の七賢人」。
④ 賢(さか)しみと 物言ふよりは 酒飲みて 酔(ゑ)泣なきするし 優(まさ)りたるらし〈巻3・341〉
【大意】賢いからと偉そうにものを言うより、酒を飲んで酔い泣きする方がまさっているらしい。
【語註】「賢しみと」は、理由を表す「ミ語法」に、引用のトの接した形。
⑤ 言はむ術(すべ) せむ術知らず 極まりて 貴き物は 酒にしあるらし〈巻3・342〉
【大意】言いようもなく、どうしようもないほど、最高に貴重なものは、酒であるらしい。
【語註】「極まりて」は漢語「極」の訓読語。「極貴」の文字は、巻五、山上憶良の「沈痾自哀文」にも見える。
⑥ なかなかに 人とあらずは 酒壺(さかつほ)に 成りにてしかも 酒に染みなむ〈巻3・343〉
【大意】なまなかに人間であるよりは、酒壺になってしまいたい。酒気が染みこんでくるだろうから。
【語註】三国時代の呉の大夫鄭泉が、酒を好むあまりに、死なばわが屍を窯場の側に埋めよ、やがて陶土となって「酒瓶」に作られたいと遺言した故事〈琱玉(ちょうぎょう)集・嗜酒篇〉による歌。「染む」は「紅に深く染みにし心かも」(1044)、「香にぞ染みぬる」(古今集・春上)の例のように、色や香りや液体などが物に浸透すること。酒が、酒壺となったわが身に染みとむことを願う。壺は清音のツホ。第四句のニは助動詞ヌの連用形。テシカは願望の助詞。
⑦ あな醜(みにく) 賢しらをすと 酒飲まぬ 人をよく見れば 猿にかも似る〈巻3・344〉
【大意】ああ見苦しい。賢明ぶって酒を飲まない人をよく見たら、猿にでも似ているかな。
【語註】初句切れ。浅智恵の人を猴(猿)のようだと貶めることが中国の詩文には多く見られる。「志性軽躁にして猶ほ獼猴(びこう)の如し」(仏蔵経・中)とも。
⑧ 価(あたひ)無き 宝と言ふとも 一杯(ひとつき)の 濁れる酒に あにまさめやも〈巻3・345〉
【大意】価の知れない珍宝といっても、一杯の濁酒にど うしてまさろうか。
【語註】「価なき宝」は、仏典語「無価宝」「無価珍」などの翻訳語。結句は反語。漢文訓読の語法か。
⑨ 夜光る 玉といふとも 酒飲みて 情(こころ)を遣(や)るに あに若かめやも〈巻3・346〉
【大意】たとえ夜光る珠玉であっても、酒を飲んで思いを晴らすことにどうして及ぼうか。
【語註】隋侯が得た「夜光珠」は、天下の至宝として有名であった。「珠は夜光と称す」(千字文〔→453頁])。結句の動詞「しく」は、追いつくこと。
⑩ 世の中の 遊びの道に 怜(たの)しきは 酔泣(ゑひなき)するに あるべくあるらし〈巻3・347〉
【大意】人の世の遊びの道において最も楽しいことは、酔い泣きをすることであるらしい。
【語註】第三句の原文は諸本「冷者」。「冷」を「怜」の誤りと見てタノシキハと訓んだ本居宣長説(玉の小琴)により改める。飲酒の歌には「楽し」という語がふさわしい。ただし、「怡」字であった可能性もある。「怡 タノシフ」(名義抄)。
⑪ 此の世にし 楽しくあらば 来む世には 虫にも鳥にも 我は成りなむ〈巻3・348〉
【大意】この現世に、楽しくしていられたら、来世には虫にも鳥にも私はなってしまおう。
【語註】「この世」「来む世」は、もと仏典の「此世」「来世」の訓読にもとづく語であったか。この歌と次歌には酒に関する語がないが、「楽し」によって飲酒の快楽が暗示される。古代語「楽し」は飲酒の場に集中して用いられる。「酒は不善諸悪の根本」(涅槃 経二)などと説く仏典には、悪業によって鳥や虫に化する報を受けることを言う。「虫に鳥にも」は、七音句の制約により「虫にも」のモを略した。
⑫ 生まるれば 遂にも死ぬる ものにあれば この世なる間(ま)は 楽しくをあらな〈巻3・349〉
【大意】生まれたら、後には必ず死ぬと決まっているものだから、この世に生きている間は楽しくありたいな。
【語註】「生まるる者は皆死に帰し」(無常経)、「人生まるれば要(かなら)ず死す、何為(なんす)れぞ心を苦しめん」(漢・広陵王胥「歌」)。また、「酒に対して当(まさ)に歌ふべし、人生幾何(いくばく)ぞ」(魏・武帝「短歌行」。文選二十七)は、どうせ短い生なのだから、酒を飲んで楽しくすごそうと詠う。
⑬ 黙(もだ)をりて 賢(さか)しらするは 酒飲みて 酔泣(ゑひなき)するに なほ如かずけり〈巻3・350〉
【大意】むっつりと賢そうにしているのは、酒を飲んで酔い泣きをすることにやはり及ばない。
【語註】「もだ」の原文は「黙然」。黙っているとと。上二句は、仏典語の「賢聖默然」に通ずる。
佐竹昭裕 他校註『万葉集』岩波文庫・2013年(大意・語註も)
六朝文化についてはNo.56「孫文のいた頃」でもふれました。司馬遼太郎の『この国のかたち』第1巻-20「六朝の余風」から下記を引用しました。
「奈良・平安朝はすでに中国では唐(618-907)の時代だし、遣唐使も派遣していたが、しかし六朝の遺風は消えず、貴族制は厳守され、とくに平安貴族の文化を特徴づける風流韻事は “清談” こそなけれ、六朝の風がそのままつづいた。要するに、公家はたっぷりと六朝ふうだった。
その文化的後裔として、冒頭の足利義政(1436-1490)を考えてもいい。
義政には武家的要素よりも平安以来の公家文化の影響が濃く、ただ禅を好んだ点では、武家一般と共通している。おなじ禅でも、義政の禅は六朝の貴族たちが初期の禅を形而上的な遊びとして好んだように、きわめて美学的なものだった。かれもまた六朝人といえなくもない。
私は、日本は明治維新以後、日本の為政者はようやく六朝風を脱したというふうに、本気で考えている。」
ここで、今更ながらに気付いたのですが、司馬遼太郎は「“清談” こそなけれ」と、さらっと言及していました。大伴旅人は「歌風は、大陸的風雅心・老荘的自由思想と位置付けられている」(Wikipedia『新訂 総合国語便覧』・第一学習社1998年)とあります。この「大陸的風雅心・老荘的自由思想」こそは「清談風」です。大伴旅人は、この「清談風快楽主義」の影響を受けていたようですが、何故、その後、日本に「快楽主義的な態度」が浸透しなかったのでしょうか?何故「清談」は広がらなかったのでしょうか?司馬遼太郎が敢えて「“清談” こそなけれ」とコメントしていますから、彼はその答えを知っていたのでしょう。どこかで書いているのかもしれませんが、私は知りません。また今それを考えるには私の能力をはるかに越える問題であり、その場でもないのですが、ただ、それにしても気になるので少し考えてみます。
▶「清談・老荘的自由思想」と李白的快楽主義の由来
李白の「快楽主義」を遡るとこの「六朝文化」、「六朝の清談」あたりに行き着くようです。清談が必ずしも「快楽主義」ということではありませんが、確かにその側面はあるようです。先ずその定義としては下記です。
「【清談】老莊を祖述し、世務を捨て俗を離れた清淨無爲の空理空談をいふ。専ら魏晉の間に行はる。一説に、魏の明帝の正始年聞(240-249)、何晏と王弼との聞に行はれた談論に始まるといはれるが、其の十数年前の太和初年(227)、名理派の傅嘏と道家派の荀粲との開の談論 をもつて其の先驅とすべきである。」
諸橋轍次(もろはしてつじ・1883 – 1982)『大漢和辭典』大修館書店1958年
「清談」というと「竹林の七賢人」が有名ですが、上記コラム本編でもふれた唐庚の『酔眠』の「夢中シキリニ句ヲ得レド、筆ヲ拈(ひね)レバマタ筌(せん)ヲ忘ル。」、及び、そこで言及している陶淵明(365‐427)の『飲酒』の「此中有真意/欲弁已忘言(此の中に真意有り、弁ぜんと欲して已に言を忘る)」などは「清談・老荘的自由思想」の典型な現れでしょう。その陶淵明に下記の詩があります。
『雑詩・其一』
人生無根蒂 飄如陌上塵
分散逐風轉 此已非常身
落地為兄弟 何必骨肉親
得歓当作楽 斗酒聚比隣
盛年不重来 一日難再晨
及時当勉励 歳月不待人
人生、根蒂ナシ 飄トシテ陌上ノ塵リノ如シ
分散シ風ヲ逐イテ転ズ 此レ已デニ常ノ身ニ非ズ
地ニ落チテ兄弟ト為ル 何ゾ必ズシモ骨肉ノ親ノミナラン
歓ビヲ得テハ当ニ楽シミヲ作スベシ 斗酒、比隣ヲ聚ム
盛年、重ネテ来ラズ 一日、再ビ晨ナリ難シ
時ニ及ンデ当ニ勉励スベシ 歳月人ヲ待タズ
【陶淵明・とうえんめい・365-427】中国の六朝・魏晋南北朝時代の詩人。No.37「孫文のいた頃」参照。
【語註】「根蔕・こんてい」:草木の根元と果実のへた。転じて、物事の拠り所。物事のしっかりとした土台。「陌上ノ塵」:路上の塵、陌は街路、道。「常ノ身」:不変、昨日と同じ身体。「兄弟」:『論語』〈顔淵第12・5〉「四海の内、皆兄弟なり」(四海之内、皆兄弟也)による。「斗酒」:1斗の酒、ここでは(皆で呑むから)少しの酒。「比隣」:隣近所の人々。「聚」:訓はあつめる、(聚楽〈じゅらく〉・楽を集める)。「晨」:あした・朝
【大意】人生というものには、草木の根のように確かな拠り所がなく、それは道ばたの塵のように、ふわりと舞い上がって漂う。人は散り散りになり、風に吹かれて転がされてゆく。そうして気づけば、もはや昨日までの自分と同じ(常)自分ではない。この世に落ちてきた者どうしは、みな兄弟のようなものだから、どうして血のつながった親族だけを、特別と思う必要があろうか。歓びの時を得たなら、まさに楽しむべきで、一斗の酒(わずかな酒でも)、近所の友を集めて飲もう。若い盛りは二度と戻らないから、一日だって、同じ朝をもう一度迎えることはできない。だから時を失わぬうちに励まないと(楽しまないと)、歳月は、人を待ってはくれないから。
この7句目以降、「歓びの時を得たなら、まさに楽しむべきで、一斗の酒(わずかな酒でも)、近所の友を集めて飲もう。若い盛りは二度と戻らないから、一日だって、同じ朝をもう一度迎えることはできない。だから時を失わぬうちに励まないと、歳月は、人を待ってはくれないから。」は、後の李白ほど「爆発」していませんが、確かに「快楽主義」観の表明でしょう。因みに、この最後の2句「時ニ及ンデ当ニ勉励スベシ 歳月ハ人ヲ待タズ」は、有名です。ここだけが切り抜かれて、「勉励」は「刻苦勉励」の意味となって、「時間を無駄にしないで努力しろ。」という警句として、我々の生活に溶け込んでいます。しかし、ここでは「勉励≒一所懸命楽しむ」の意味に使われているようです。まあ、この語句ですら、日本人は「勉励≒頑張って努力する」に置き換えてしまう側面があるのでしょう。
▶何故日本に「清談・老荘的自由思想≒快楽主義的思想」が定着しなかったのか?
そんな研究書もあるのでしょうが、私の能力ではそれを探すのも厳しいのでAI・ChatGPTで調べてみました。AI調べには、偶に見当違いなものもありますが、この問いに対しては、それなりに納得できました。以下は「何故日本に清談・老荘的自由思想が定着しなかったのか?」という問いのAI回答です。
「六朝文化の“美意識”は輸入できたが、六朝文化の “政治的条件” が日本には存在しなかった、これが大きいと思います。
1.清談は〈思想〉ではなく〈政治の副産物〉だった
清談というのは、単なる哲学談義ではなく、魏晋南北朝の特殊事情――
・儒教的正統が崩れた。
・政治が危険で、迂闊に本音を言うと殺される。
・しかし名士としてのプライドは保ちたい。
・そこで〈老荘・玄学〉を借りて、政治批判や価値観の相対化を“上品に”語る
こうした、権力の不安定さが生んだ逃避と抵抗の文化です。
ところが一方、日本の奈良・平安は、基本的に〈王権〉が安定していて、危険な政治批判を婉曲に語る必要があまりなかった。つまり日本には、清談を必要とするほどの〈言論の危険〉も〈正統崩壊〉も薄かった。
2.日本の貴族は〈官僚〉だった(六朝貴族は半分アウトロー)
六朝の名士たちは、政治家でもあるが、同時に政治から距離を取る〈逸民〉を演じることに価値があった。いわば、〈国家に仕えぬ自由人であること〉〈しかし名門であること〉
という矛盾した美学を生きた。ところが平安貴族は、基本的に、〈国家運営=家業〉〈官職=家格の表現〉〈儀礼=存在理由〉であった。つまり日本の公家は、風流であっても制度の中に埋め込まれた存在で、六朝的な〈反骨としての清談〉が育ちにくい。日本の貴族は、老荘的自由を〈思想〉としては持てても、それを〈生き方〉として取り入れにくかった。
3.日本では〈無常〉が老荘を飲み込んだ
日本の文芸精神は、老荘よりも仏教(特に無常観)のほうが強く根を張ったと思います。
清談の根っこには、〈政治的な儒教的秩序の虚しさ〉〈世界の相対化〉〈自然への回帰〉〈“生”を洒脱に遊ぶ精神〉がある。
ところが日本では、同じ〈世の虚しさ〉を語るにしても、〈無常〉〈輪廻〉〈末法〉のほうへ流れていった。結果として、清談的な〈洒脱な相対主義〉は、仏教的な〈諦念・救済〉に吸収された。大伴旅人が一瞬見せた老荘的放縦も、長期的には〈遊び〉より〈供養〉〈祈り〉〈哀感〉に回収されていく。
4.日本は〈言葉が現実を動かす社会〉だった
六朝清談は、ある意味で〈言葉のゲーム〉です。言葉で世界を超越して見せる。しかし日本は、古代からずっと〈言霊信仰〉が強く、言葉は遊びではなく、畏敬の念が強い。だから〈玄談・清談〉のように、概念を弄んで悦に入る文化は、日本人の精神の深い部分では〈不謹慎〉〈不吉〉に感じられた可能性がある。(これはかなり本質的な差だと思います。)
5.日本の〈風流〉は清談ではなく〈沈黙〉へ行った
清談はしゃべる文化です。しかし日本の風流は、究極には〈余白〉〈間〉〈ほのめかし〉〈もののあはれ〉〈侘び寂び〉へ向かう。つまり、日本の貴族文化は〈語ることで粋〉になるより、語らぬことで粋〉になる。六朝の清談は〈言語の芸〉ですが、日本の雅は〈沈黙の芸〉になっていった。この方向性の違いは決定的です。
結局:清談が定着しなかった理由(まとめ)
要するに、
・六朝清談は〈政治の混乱〉が生んだ
・日本は王権と官僚制が安定していた
・老荘より仏教的無常が主流になった
・言葉が “呪力” を持つ文化で、言葉遊びが育ちにくい
・日本の美学は〈語り〉より〈余白〉へ行った
このために、六朝の〈風雅〉は輸入できても、六朝の〈清談文化〉だけは根づかなかった。」
AIは「清談・老荘的自由思想」が日本文化に浸透しなかった理由と、それがどのように形を変えてを浸透していったのか、ということを上記のように分析してきました。この回答、皆さんはどう考えますか?
少なくとも日本の伝統的な詩歌歴史の中に李白的な「清談・老荘的自由思想」から派生してくる「快楽主義的」な詩歌がほぼ見つからない、ということは、大変興味深いテーマでもあり、それは何らかの日本人の精神的特徴を現わしているのでしょう。
【蛇足的オマケ】
「快楽主義的な歌」は明治期になり、むしろ西洋文化・上記コラム本論「ロンサール・生命のバラ」的な影響を受け、たとえば、歌謡曲「ゴンドラの唄」(大正4年・1915・作詞・吉井勇(1886-1960)作曲・中山晋平(1887-1952)があります。「いのち短し 恋せよ乙女 あかき唇 褪せぬ間に 熱き血潮の 冷えぬ間に 明日の月日は ないものを」
ここで興味深いのは、この歌はその後、黒澤明(1910‐1998)監督の映画『生きる』(1952年)において挿入歌として使用されます。映画自体は大変感動的なもので、お薦めですが、この映画における「ゴンドラの唄」の位置付けは「快楽主義」とはおよそ反対の「生きる意味とは何か?」「生きている間に生きる意味・意義を見出せ」的なシリアスな使われ方になっています。これも、良くも悪くも我々日本人精神の何かを現わしているのでしょう。
ところで明治・大正といえば与謝野晶子(1878-1942)の「恋歌」には「快楽主義的」にみえる歌があったような気がします…。しかしそれは「老荘的自由思想」からではなく「西洋文化」の影響か?或いは極めて個的な愛情の強さかと想像します。このコラムの趣旨から離れるので例はあげないで…この辺で擱筆。
【蛇足的オマケの追記】
そして、今頃になって気付いたのですが、そもそも加藤周一の「快楽主義」の「主義」という表現がヘンでした。「快楽的・現世肯定的」と表現するべきだったのではないでしょうか…。「老荘的自由思想」に「主義」なんてあるはずがないでしょ…。(このヘンな「主義」という言葉で私の文章の趣旨もかなり乱れて苦労しました…まあ、今になってやっと原因に気付いた…結局…即座に気付くべきなのに気付かなかった私の落ち度でした…)
『竹林七賢図屏風』雪村周継(せっそんしゅうけい・1492?-1589?)室町時代末期の画僧。
宋元画を学ぶ一方、日本水墨画の大成者、雪舟の画風を慕って大きな影響を受けた。(荏原 畠山美術館蔵)左記HPより
日本の伝統絵画においてはこの「七賢図」が極めて多く画題として取り上げられています。有名な長谷川等伯(1539-1610)、狩野探幽(1602-1674)等もさまざまに描いています。それにしても、「清談」は日本に浸透しませんでしたが、絵として「七賢図」は無数にとりあげられています。どうしてなんでしょう…?まあ、考え出すときりがありません。
