国際交流・留学にすぐには役立ちそうにない教養講座63
ー世界に「日本が存在していてよかった」と思ってもらえる日本に…
国際交流・留学にすぐには役立ちそうにない教養講座
No. 63 就中腸斷是秋天の「孫文のいた頃」
『暮立』 白居易
黃昏獨立佛堂前 滿地槐花滿樹蟬
大抵四時心總苦 就中腸斷是秋天
『暮(ゆふぐれ)に立つ』
黄昏(こうこん)獨り立つ佛堂の前
地に滿つる槐花(かいか)樹に滿つる蝉
大抵(たいてい)四時(しいじ)心總(すべて)苦るしけれど
就中(なかんづく)腸(はらわた)斷たるるは是れ秋天
【白居易・はくきょい】772-846 中唐の詩人、楽天は字(あざな)(詩における唐代を初唐618‐712年・盛唐713‐765年・中唐766‐835年・晩唐836‐907年)。杜甫、李白と異なり、官吏・政治家としても、晩年大臣になる等、実社会でも成功した詩人。上記「大抵四時心總苦 就中腸斷是秋天」の句は『和漢朗詠集〈秋興〉』1013年にも採られている。
【語註】「黄昏・こうこん」:夕暮れ。「槐花・かいか」:エンジュの花、花は夏に咲き秋に散る。「四時・しいじ」:四季。「苦」:つらく悲しい。「断腸」:腸が断たれるようにつらい。「秋天」:秋の空・秋(現代中国語では天を付けて所謂「秋」を指す。)
【大意】『暮立』:811年、白居易40歳、母を亡くし、郷里の下邽(かけい)・陝西省渭南(いなん)に帰って喪に服していたときの作。たそがれ時に母の喪に服して、秋の夕暮れに仏堂の前に一人佇んでいる。一面に槐の花が散り、樹々に蝉が鳴いている。四季の移ろいはそれでなくても悲しいが、とりわけ、秋は悲しい。白居易はこの時、官職を辞しているから、地面一面に散った高官を象徴する槐の花は、或る意味、宮廷を連想したのかもしれません。

槐(えんじゅ)の花と樹
周代、宮廷の庭に槐の木が植えられ、三公(高官)は政務の際に槐に向かって座す定めであったため、三槐とも雅称される。日本での三公は「太政大臣・左大臣・右大臣」。源実朝の歌集が『金槐和歌集』と称されるのは、彼が三公(三槐)のひとつである右大臣であり、鎌倉の「金」と合わせた。現在「北京市の木」にも指定されている。数年前に「中国国家博物館」を訪れたことがありますが、博物館の周辺の街路樹も「槐」であったかと記憶しています。現代中国語では「国槐」というようです。
さて比較的理解しやすい詩だと思いますが、悲しいのは母の喪中という前提はあるのでしょうが、「秋」自体に対する悲しみかと思います。「四季の移ろいはおしなべて切ないものだが、特に切ないのはこの秋(の空)」ということでしょう。
「秋を悲しみの季節としてうたうのは、中国では『楚辞』(B.C.4-3世紀)にはじまるという。たしかに『楚辞』以前の詩集、といえば『詩経』(B.C.11-7世紀)だが、『詩経』には、秋を悲しむ詩はない。それは、詩の制作者、文学のにない手の多くが、生産と労働にたずさわっていたことと、関係するだろう。もちろん原因はそれだけではあるまいが、それは重要な原因の一つではあるだろう。生産者、労働者にとって、秋は収穫の季節であり、喜びの季節である。文学のにない手が、生産と労働に無縁な階級に移ったとき、秋は凋落の季節、悲しみの季節として、とらえられるようになる。ただし、わが国の『万葉集』(759‐780年)に秋を悲しむ歌がなく、『古今集』(905年)に至って急激にふえるといわれることについては、中国文学の影響というワンクッションをおいて、考えねばならぬだろう。」
【語註】『楚辞』九弁より「悲哉秋之為気也、蕭瑟兮草木摇落而変衰」(悲しい哉、秋の気たるや、蕭瑟として草木摇落して変衰す)宋玉(前三世紀の詩人)の作と伝えられる。
一海知義(いっかいともよし1929⁻2015)『漢詩一日一首』平凡社・1976年
もう1つ「悲秋」の漢詩をあげます。上記、白居易より300年以上後の、宋代の詩です。
『感秋』 楊萬里
旧不悲秋只愛秋 風中吹笛月中樓
如今秋色渾如旧 欲不悲秋不自由
『秋に感ず』
旧(もと)秋を悲まず只秋を愛す
風中の吹笛、月中の樓
如今(じょこん)秋色、渾(すべて)旧の如くなるも
秋を悲しまざらんと欲して自由ならず。
【楊萬理・ようばんり】1127‐1206は、中国南宋の学者・詩人。字は廷秀、誠斎先生と号した。范成大(はんせいだい・1126‐1193)・尤袤(ゆうぼう・1127‐1193)・陸游(りくゆう・1125‐1210・陸放翁とも)と共に南宋四大家の一人。
【語註】「旧・もと」:かつて、むかしは。「如今・じょこん」:今、当今。「渾・すべて」:まったく。
【大意】:昔は秋について悲しいとかの気持ちはなく、ただ普通にそのまま秋がすきだった。風に流れてくる笛の音、月光に照らされた楼台などが好きだった。ところで今、秋自体はまるっきり、もとのままである。しかしながら、秋のせつなさを悲しむのをやめたくても、思うようにならない…この悲しみは、どうしようもない。
さて、「悲秋・秋が悲しい」という感覚は『古今集・905年』あたりから、それ以来1100年以上の歴史を経て…その中国と日本の古典から影響を受けながら、現代詩歌(流行歌等も含めて)にまで、また日本人一般の通常の感覚として、定着しているように思います。
ふと思い付いたのは、もっとも、そこまで範囲を拡げられるはずもないのですが、少し触れます。「悲秋」の感覚は「中国から日本への系統」だけではなく、そう言えば、近・現代フランスの詩人達がいました。象徴派の詩人・ポール・ヴェルレーヌ(Paul Verlaine・1844‐1896)の『秋の歌』(Chanson d’automne)(上田敏・うえだびん・1874‐1916の翻訳冒頭「秋の日の/ヰ゛オロンの/ためいきの/身にしみて/ひたぶるに/うら悲し。Les sanglots longs/Des violons/De l’automne/Blessent mon cœur/D’une langueur/Monotone.」は有名)や、詩人ジャック・プレヴェール(Jacques Prévert・1900-1977)作詞のシャンソン『枯葉・Les Feuilles mortes』等を連想しました。ただそのヨーロッパ版「悲秋の歴史」(まあ、『枯葉』は、「枯葉」を比喩にした悲恋の詩ではありますが…)を辿ることは、私の能力を遥かに超えていることなので割愛します。
少し掘り下げたかったのは上記、一海知義の「わが国の『万葉集』(759‐780年)に秋を悲しむ歌がなく、『古今集』(905年)に至って急激にふえるといわれることについては、中国文学の影響というワンクッションをおいて、考えねばならぬだろう。」の部分です。
まあ、そんな単純なものでもないのでしょうが、当然、『万葉集』の時代にも、日本に秋はあったはずです(「如今秋色渾如旧」・秋自体は昔と何も変わっていない…)。しかし、その「秋」をどう「言語表現」するか、「何となく感じていたモヤモヤを言語に表現する、定着させる」ことにおいて、「中国文学の影響」が大であった、ということでしょう。そして思うに、特に「漢詩」が、多少大げさに言えば、ほぼ、《辞書》のような位置付けで、中国から輸入されていたのでしょう。そもそもそれこそが「詩」の持つ「《世界》についての言語化への挑戦」という本来の意味でもあると思いますが…。
それにしても今回、私は初めて、「白居易の多大な影響」というものを感じました。
「『白氏文集・824-845』の伝来(明らかに838年以前)は在来の六朝・唐詩の詩風の上に白詩的な部分をも、もたらす。たとえば、六朝的な悲秋の詩想のほかに、大抵四時心総て苦し、就中腸を断つは是れ秋の天。(巻十四·暮立・冒頭前出)の如き、白居易の個人的な思いも一般化する。そこに(日本の)王朝びとの間に新鮮な秋の思いも生れる。更に秋に関連していえば、秋は春と共に四時の中心をなす。白居易の詩には、各季節の終りの日〈尽日・じんじつ〉を心から惜しみ、その気持を託す例が多い。〈立春〉の日から始まり、〈三月晦日〉〈三月三十日〉〈春尽日〉など春の尽日の感慨に及ぶ。それはなお 〈立夏〉へとつらなり、夏の尽くる日は、〈立秋〉という『立秋日』『七月一日の作』などへと及び、一年の季節の回転と共に起る各季節の切れ目に深い詩心を懐く。こうした四季の移りに詩心をそそぐ白詩は、王朝びとの季節感にも投影し、後に生れるべき歌集(『古今和歌集』以降…)の編集の仕方、その構造にも、何らかの暗示を与えることであろう。」
【語註】「白氏文集」(はくしもんじゅう):白居易の詩文集。当初824年に成り、数次の編集を経て、結果75巻本として845年に完成、現在は71巻本が通行する。No.36「孫文のいた頃」(https://www.hskj.jp/column36)参照。「明らかに838年以前」:当時遣唐副使に任命された小野篁(802-853)の詩をみると、明らかに白居易の詩、すなわち『白詩』の詩句を使用した痕がみられ、承和五年以前にすでに『白詩』の伝来を推定することができる。当時遣唐副使に任命された小野篁(802-853)の詩をみると、明らかに白居易の詩、すなわち『白詩』の詩句を使用した痕がみられ、838年以前にすでに『白詩』の伝来を推定することができる。「白詩」:白居易の詩の省略表現。
小島憲之 他校註『古今和歌集』「解説」より・岩波書店・1989年
少し変わった文章…という印象ですが、「平安貴族の漢詩による季節感の学習と和歌への転換・後の日本文化にあたえた影響」という観点から読むとわかりやすいかと思います。
またこのコラム「孫文のいた頃」の「エピグラフ・epigraph」として、No.38「孫文のいた頃」以降、毎回登場する「倣和漢朗詠集」は「『和漢朗詠集』ニ倣(なら)ヒ(を真似して)」です。(『和漢朗詠集』については、またどこかで考えたいと思います。)
時代感を整理するため、以下に、年表を作成してみました。中国大陸の文化を受け入れながら、それを日本独自の文化へと変容させていく大きな転換点が、10世紀から11世紀にかけての「国風文化」でした。そして、その推移を象徴する文芸作品が『古今和歌集』と『和漢朗詠集』でした。
この表は、中国大陸文化から受けた大きな影響-特に漢字と仏教-を背景に、文字を持たなかった日本が漢字を受容し、それを日本語に適応させていく過程を示したものです。漢字から「万葉仮名」「草仮名」を経て「平仮名」が成立し、同時に漢字そのものも「和様漢字」へと変容していきました。No.36「孫文のいた頃」で使用した表に、今回あらためて手を加えたものです。

上の表は、ざっと600年間の「日中交流関係」の歴史です。「仏教受容」により「漢字」が定着し、それが「和様漢字」へ変化していきます。「藤原有年申文・867年」で「平仮名成立」へとつながる「草仮名」が登場します。そして国風文化の象徴として『古今和歌集・905年』、『土佐日記・935年』、『枕草子・1001年』、『源氏物語・1008年』、『和漢朗詠集。1013年』へと繋がっていきます。
因みに、この「表」では9世紀を「国風黎明期」(国風暗黒時代)としました。私は学生時代、この時期を「国風暗黒時代」と学習した記憶があります。従来、国文学史ではこの「国風暗黒時代」という呼称が広く用いられてきたようです。
しかし、今あらためて考えてみると、この時代はむしろ、中国大陸からもたらされた漢風・唐風の文化を盛んに学び、それを吸収しながら、後の『古今和歌集』から『和漢朗詠集』へと続く国風文化を準備した時代です。その意味では、「国風暗黒時代」というよりも「国風黎明期」と呼ぶ方が、私にはしっくりきます。
気になったので「国風暗黒時代」という言葉について少し調べてみました。私が確認できた比較的古い用例に、国文学者・吉澤義則(1876–1954)の『国風暗黒時代に於ける女子をめぐる国語上の諸問題』(1932年)がありました。1932(昭和7)年といえば、前年には満州事変が起こり、この年には五・一五事件が起きています。もちろん、この論文を読んで吉澤自身の用語意識を確かめたわけではありませんから、ここから直ちに当時の政治・社会状況と「国風暗黒時代」という呼称を結びつけることはできません。ただ、このような呼称が「昭和初期の国文学界」で用いられていたという事実には、少々興味を惹かれます。
その後、上記『古今和歌集』の解説でも引用した小島憲之(1913–1998)が、『國風暗黒時代の文學』(全8巻)を1968年から刊行しています。この大著によって「国風暗黒時代」という呼称が広く知られるようになり、そのせいか、私が学生だった頃にも定着していたのではないかと思います。ただし、こちらも私は未読ですから、小島が「暗黒」という言葉にどのような意味を込めていたのかについては、軽々には論じられないのですが…。
さて少し話がそれたような気もしますが…というわけで、いつものように『和漢朗詠集』風に、この『暮立』『感秋』に合わせるならば和朝の歌はたくさんあります。どれか1首を撰ぶのは意味を持ちすぎてしまうような気もするので、以下、適当に思い付くまま…何首かあげました。

それにしても、この比較的親しみ深いこれら「秋の歌」の背景に、まあ当然と言えば当然なのですが、数百年の「中国」との交流の歴史があった…ある、というのは不思議な気はします。そしてそれは、「孫文のいた頃」を越えていまだに続いているのですが…。
「倣和漢朗詠集」
◆これまでの流れと復習
文化によって異なる「時間観」…他文化のそれと比較しながら「日本の時間観」について1年半以上考えてきました。そしてここ数回は「言語に表れた時間観」を考えてきました。
「言語・文法」における「時間観」として「時制・“Tense”」と「相・“Aspect”」という考え方から、「日本語は、近代ヨーロッパ言語のような客観的・線分的な《過去・現在・未来》時間観(時制・”Tense”)ではなく、《記憶・認識における時間的な距離と状態》(相・”Aspect”)によって時間を表現する。」という結論に達したのでした。
そして前回では「現代日本語」において、もう少し広く「文法・構文」という観点から「日本の時間観」…及び、日本の「考え方」について考えたのでした。
それぞれの「言語」は「世界理解・表現の方法」であり、「言語構造・文法」とは、その仕組み・言語を構成する単位《語・品詞など》と、それらが形を変え、結びつく規則《活用・接続・語順など》によって〈一定の〉「意味」を表す、その体系のことです。
「人間は本能的な刺激反応を超えたレベルでもうーつの分節された世界を創り上げて行く。(それぞれの文化によって異なる言語が発達する。)その分節の項目の重要なものには言語によるラベルが与えられ、そうなればそれは文化的遺産として伝えられるものとなる。ある言語を身につけることによって、「ある一つの意味づけの体系を身につける」ということになるわけである。人間の場合、本能という、他の動物と同じいわば自然のレベルでの環境世界の他に、もう一つ、人間自身が自らの周囲との関わりを通じて構築した文化のレベルでの環境世界に住んでいるわけである。」(下記、訳者解説より)George Lakoff (ジョージ・レイコフ・1941-)『認知意味論』池上嘉彦・他訳(紀伊国屋書店・1993年)
そして「日本語」と「その英語訳」による構文の対比から、川端康成の『雪国』の冒頭を例に、世界の理解の仕方、受け取り方の違いを考えたのでした。それは「ある・行為者がいない」日本語と「する・行為者から始まる」英語との違いでした。
「日本語はある状況を、自動詞中心の《何かがそこにある・自然にそうなる》という、存在や状態変化の文として表現する。一方、英語は同じ状況を、《誰かが何かをする》という意味の、他動詞を挟んだSVO(主語―他動詞―目的語)構文で示す。人間の行為を積極的に表現する傾向が強い。」金谷武洋(かなやたけひろ・1951‐)『日本語と西欧語ー主語の由来を探る』講談社学術文庫(2019年)
文学作品を題材にこの「行為↔状態」の問題をとりあげてみて、果たして浮かび上がったのは状況描写における「日本的静寂・ある」と「英語的動性・する」の発想の違いでした。
「日本語では、英語のように〈誰かが(意図的に)どうする〉ではなくて、〈何かが(自然に)どうなる/どうである〉という言い方となるのは、こうした日英語の発想の違いの当然の結果である。」(同上)
そして、それは、日本文化における時間の特徴を「《今》の継起」と捉えた加藤周一の考えとも呼応していました。「現在の出来事の意味は、自己完結的で、それを理解するために、必ずしも過去や未来の出来事を参照する必要はない。」加藤周一『日本文化における時間と空間』(No.61「孫文のいた頃」)
そして、今回は、さらに直接「時間観」にかかわる問題として、「相・Aspect」(出来事を「話者・主体」からどのように見るのか?)即ち、「過去・現在・未来」という「客観的時間観・時制・Tense」ではなく、「ある出来事をどのような状態として捉えるのか」という問題、とりわけ、例えば所謂「過去を表す」として分類されてきた助動詞…その「過去性」について、をここ数回で見て来た(記憶としての)「回想・発見・完了・持続」という見方から、もう少し掘り下げてみたいと思います。
まあ…あらゆる世界は、我々人間にとっては、あらゆる「瞬時・今」が「《今》の継起=記憶」になっていくような気はするのですが…。
◆「学校文法」と日本語文法研究の進展
これまでも何度か登場している「学校文法」です。現在の初等中等教育において教えられている国語文法のことですが、ここで少し整理をしておきたいと思います。「学校で学習する文法」…先ず普通名詞のような印象ですが「固有名詞」として存在します。以下、Wikipedia からの要約です。
【定義】:現代日本の学校教育において、国語教育の際に準拠している文法のこと。教科(書)文法、文部省文法などとも。普通は現代日本語の文法を指すが、古典(文語体)の文法も含む。
【発端】:1943年、文部省は国定教科書『中等文法』を編纂した。これの指導にあたったのが橋本進吉(言語学者・国語学者・明治15年・1882- 昭和20年・1945)であり、高弟の岩淵悦太郎(明治38年・1905 –昭和53年・1978)が執筆を担当した。このため、その文法は「橋本文法」の影響を受けたものとなった。戦後教育の教科書における文法の原典となったのは、これを基にした1947年の教科書『中等文法 口語』と『中等文法 文語』である。
【経過】:「学校文法」は、最初にそれなりの完成度があったため、その後大きな改良をされることはなく、またチョムスキー(アメリカの言語哲学者・A. N. Chomsky・昭和3年・1928 – )らによって戦後発展した言語学や、国文法学者による現代日本語文法の研究が反映されることもなく現在に至っている。
【現在】:現代日本語文法研究の発展や現代言語学的な見地の普及などもあり、「学校文法」の改善の必要性の認識は少しずつではあるが広まっている。
「学校文法」は決して「間違った文法」ではないのでしょうが、しかし、「国語教育」のために整えられた分類体系であるため、実際の日本語の働きを十分に説明できてない部分もあるようです。さまざまな研究が進む中で、現代日本語学では、それを補い、あるいは別の角度から捉え直すさまざまな文法理論が提唱されているようですが、しかしながら、まだ教育現場までは下りてきていないのが現状なのでしょう。
1つには、日本語の文法そのものについて現在、様々な学説や考え方があるようです。例えば「主語」をどう考えるか、「形容動詞」を独立した品詞とするか、打消しの助動詞「ない」をどう分類するか等々です。
1例だけあげておきます。ネット上に「品詞分解ツール」(日本語品詞分解ツール | konisimple tool)というものがあり、「国立国語研究所のUniDic品詞体系に基づいた形態素解析で、試験提供版として公開しています」と説明されています。
ここに「学校に行かない。」と入力してみます。この〈ない〉は、「学校文法」では当然「打消しの助動詞」です。ところがこのツールでは、〈ない〉を「接尾辞・形容詞性述語接尾辞・活用形はイ形容詞アウオ段・基本形」と分析します。これは、学校で日本語文法を学ぶための「学校文法」と、コンピュータで文章を解析するための「形態論的な分類体系」とでは、言葉を分析する目的や観点が異なるためでしょう。同じ〈ない〉という言葉でも、別の観点から見れば、別の分類方法がある、ということです。
ここでは、もちろん私にこの「形態論的な分類体系」にまで踏み込む能力もなく、また本稿の流れでもありませんので、ご紹介だけにとどめます。興味のある方は、ぜひ探求してみてください。
「日本語の時制については、定説がない。日本語では動詞の後に助動詞を加えて、動詞の意味をさまざまに変えることができる。たとえば断定を推量に、出来事の進行を完了に。問題は動詞の現在を過去に、あるいは未来に変える助動詞の体系があるか、ないかである。少なくともヨーロッパ語のように明示的な体系(すなわち時制)はない。」(加藤周一『日本文化における時間と空間』)
加藤周一がこの本を著したのは2007年(逝去は2008年89歳・最晩年の著作)ですが既に20年近くが経過しています。日本語文法の研究は日進月歩であると思います。
上記でも言及しましたが、研究者の間でも定説がないということが「日本語文法」を「学校教育」に反映できない大きな原因の1つなのでしょう。また、「より真実に近い説明」は例えば複雑過ぎる…等々、必ずしも「学校教育」に適切でないような…という問題もあるかと思います。
ただ、このコラムで現在「日本的時間観」を「言語」(文法)の側から考えています。「学校文法」では学習しなかった考え方(「相・”Aspect”」等)が出て来るわけです。ただ普段自由に使っている日本語ですが、我々の日常生活にほとんど「文法」は関係なく、私も同様ですが、忘れている方々も多いかと思いますので、以下、中高生時代の復習として「学校文法」による「日本語文法」を図式化、整理してみました。これから考える「助動詞〈た〉は本当に過去や完了を表わすか」のための準備です。そして、これも勿論「学校文法」の足りない部分を指摘するためではなく、「日本的時間観」を考えるためです。

◆「相・”Aspect”」の考え方を掘り下げる
さて、近代ヨーロッパ語に顕著な「時制・”Tense”」とは出来事を時間軸上のどこに位置づけるか、という考え方でした。一方、客観的な時間軸(過去・現在・未来)があるとしても、ある出来事を「話者・主体」がどのように捉え、表現するのか。とりわけ、その出来事を進行・継続・完了など、どのような「状態・あり方」として捉えるのか。このような考え方が、文法における「相・”Aspect”」という考え方でした。
「出来事」を「いつ起きたか」(時制)ではなく「どういう姿・相で捉えるか」…結論としては、話者の視点に基づく状況把握の結果とは「《今の継起》という時間観」に基づいているということになるかと思いますが、さあ見ていきましょう。
以下は国語学者、森田良行(昭和5年・1930 – )の著作『日本人の発想、日本語の表現-私の立場がことばを決める』中公新書(1998年)からです。「相・”Aspect”」という文法用語を使わずに日本語の時制的表現について考えています。
「日本語の〈た〉は本当に過去や完了を表わすか?
よく問題とされる助動詞〈た〉の働きに話を移そう。日本語の〈た〉は、学校文法などでは過去や完了を表わす助動詞として扱っているが、果たしてそうであろうか。筆者には、これも話者の視点に基づく状況把握の結果と思えてならないのだが。それはさておき、日本文学専攻の大学生に、その年の授業の初めに、〈学校へ行く〉という内容で、過去・現在・未来の3つの文を紙に書いて出すよう課題を与える。そうすると十中八九、
〈学校へ行った〉〈学校へ行く〉〈学校へ行くだろう〉
と書いてくる。〈学校へ行くだろう〉は予想や推量の文で、まだ実現していないことだから結果として未来になることは確かだ。が、未来だから〈だろう〉を付けるというのは順序が逆だ。では、現在は〈学校へ行く〉でいいだろうか。〈明日も学校へ行く〉と言えるから、これはむしろ未来というべきで、現在を表わしたいのなら〈学校へ行っている〉が正しいだろう。では本題の過去の事態に〈学校へ行った〉と〈た〉を付けて言う、それはそれで確かに過去の事実を表わすことには間違いない。しかし、だからといって〈た〉を付ければ皆、過去を表わすことになるとは言い切れない。よく、日本語の文章は文末を〈た〉にするかしないかのルールがいい加減で非論理的だと決め付ける節があり、たとえば有名な谷崎潤一郎の『文章読本』の中にも、
われわれの国の言葉にもテンスの規則などないことはありませんけれども、誰も正確には使ってゐませんし、一々そんなことを気にしてゐては用が足りません。〈した〉と言へば過去、〈する〉と言へば現在、〈しよう〉と言へば未来でありますが、その時の都合でいろいろになる。1つの連続した動作を叙するにも、〈した〉〈する〉〈しよう〉を同時に使つたり前後して使つたり、全く規則がないのにも等しい。だがそれでゐて実際には何の不便もなく、現在のことか過去のことかはその場その場で自ら判別がつく。(二 文章の上達法)
といったくだりがある。日本語のテンスについて、文章を執筆する側の者として戸惑いを覚えている面は同情に値するとして、〈全く規則がないのにも等しい〉と言い切れるかどうか。が、全体として、日本語を西欧語と異なる性格の言語と感じている点は、それはそれで評価してよいだろう。」
森田良行『日本人の発想、日本語の表現-私の立場がことばを決める』中公新書(1998年)
▶設問:「学校に行く」を「過去・現在・未来」の3つの文にする。
何やら谷崎潤一郎に対して少しエラソウですが、「学校に行く」という文章の「過去・現在・未来」表現は興味深い設問だと思います。ただ森田良行の文章表現がイマイチゴチャゴチャして、その「解答」も明示されていません。
もっともこの引用した一節は「助動詞〈た〉」を考えるためのもで、それからは少し逸れますが、日本語の持つ「相・”Aspect”」の特徴を明確に表していると思うので、言及しておきます。この答えは下記になるかと思います。
過去:学校に行った。
現在:学校に行く。
未来:学校に行く。
日本語では、「明日」、「今」、「これから」等のなんらかの説明を付けないかぎり「行く」は「現在・未来=非過去」であり、「動詞の形」だけでは、「現在」と「未来」の区別は付けられません。即ち、「ある出来事を「話者・主体」がどのように捉え、表現するのか。」が補われることにより、「現在」或いは「過去」が決定する、ということなのでしょう。
▶「助動詞〈た〉」の意味と日本的時間観・《今》の継起
さて本題です。下記は、上記引用に続く文章で示唆に富んだものだと思います。ここで森田良行は「助動詞〈た〉」の用法・意味を考えていますが、私はそこから、「日本的時間観」を読み取ろうとしています。
そしてその前に、これまで数回考えてきた加藤周一の「日本的時間観・《今》の継起」について少し復習しておきます。
▶復習:「日本的時間観・《今》の継起」について
「それぞれの事件の現在」=「《今》の継起」こそが〈時間〉に他ならない。
「無限の直線としての時間は、分割して構造化することができない。すべての事件は、神話の神々と同じように、時間直線上で、〈次々に〉生れる。それぞれの事件の現在=《今》の継起が時間に他ならない。すでに過ぎ去った事件の全体が当面の《今》の意味を決定するのではなく、また来るべき事件の全体が《今》の目標になるのではない。時間の無限の流れは捉え難く、捉え得るのは《今》だけであるから、それぞれの《今》が、時間の軸における現実の中心になるだろう。そこでは人が《今》に生きる。」(加藤周一『日本文化における時間と空間』岩波書店・2007年)No.56「孫文のいた頃」
そしてこれは即ち、「華厳哲学」、「道元の時間論」と同じ結論(時間・存在の不連続)でした。ただ華厳哲学の方向からではなく、加藤周一は「今・現在」が時間の正体であることを、「時間の無限の流れは捉え難く、捉え得るのは《今》だけであるから、それぞれの《今》が、時間の軸における現実の中心になるだろう。」という論理から、「時間の正体」をきれいにまとめています。」
さて、以下、森田良行の助動詞〈た〉の考察です。以上の「《今》の継起」、《今》が次々に立ち起こる、という時間観を念頭に読んでみてください。太字、アンダーライン、黒字注釈的説明、等々はすべて、筆者の意図によります。
「日本語で〈明日の朝、いちばん早く起きた子にご褒美をあげよう〉と言ったとして、この〈起きた〉の〈た〉は何だろうという問題がある。〈た〉を過去とか完了とかいっているが、ここはそうではない。明日のことなので、まだ実現していない事柄だから、過去とはいえない。では、完了と考えたらどうか。確かに起きる行為は、文中のその時点では完了したことになるのであろうけれども、この言葉を口に出す時点においての過去や完了ではない。つまり日本語でいう時制表現とは、決して表現の(客観的時間としての)〈今〉という時点を基準にしての過去・現在・未来を指すわけではないのである。その証拠に、この文で述べている事柄全体はすべて〈明日〉の話で、その点からいえば全体が未来のことに属する。日本人が考える〈時〉の観念は、実は時を認識する視点が全然異なっていて、現実の〈今〉に基準を置いているのではない。
語註:ここで森田良行が使っている〈今〉とは客観的線分的時間観における〈今〉のことであり、上記で、加藤周一が使用している「《今》の継起」とは別の〈今〉です。
わかりやすい例で考えてみよう。まず〈明日〉という “時” の場面を頭の中に描いて、〈ほら、あの子がいちばん先に起きたよ。だから、あの子にご褒美をあげることにしよう〉と、その起床が間違いなく実現したことを認めたうえで、次にご褒美の話へと移る。
ということは、〈た〉を付けるか付けないかの判断は、文脈の中でのその折々の事の成立に対する話者の認識によるわけで、発話時の現在から見ての判断ではない。もっとはっきりいえば、時の過去とか事態の完了とかによるのではなく、対象とする事柄を己が間違いなくそうだと把握した認識の成立が〈た〉を使わせたと見てもいいのではなかろうか。〈来年は閏年だった!〉とか、〈明日は英語のテストがあったっけ?〉〈あなたは、どなたでしたか?〉〈あ、ここにあった!〉〈やっとバスが来たぞ〉などの例を見れば、〈た〉の使用が決して時の過去や完了でないことが、おわかりいただけるであろう。
まさに事態の発見、己の定かでなかった事柄を改めてそうと認識した(もしくは、確かめた)ことの現れなのである。
そう考えれば、日本語の〈た〉は、極端な言い方をすれば、話中の事柄の成立時点で決まるのではなく、それを認識する話者の判断として、間違いなく成立したか否かで決まるといってもいいのではなかろうか。時には、事の成立とは無関係な事柄でも〈た〉で表わすことすら許されるのだから。手伝ってもらって〈どうも有難うございます〉とも〈有難うございました〉とも、どちらもいえる。説明を聞いて〈ええ、よくわかります〉〈ええ、よくわかりました〉いずれでもよい。〈ケーキのお味はいかがですか?〉もしくは〈いかがでしたか?〉と聞かれて〈うん、とってもおいしいよ〉〈とってもおいしかったよ〉どちらの言い方をしても時制とはまったく関係ない。〈昨日、学校に行った?〉の返事に〈行かない〉〈行かなかった〉どちらで答えたらよいだろうか。このようなことから、谷崎のいうように、〈全く規則がないのにも等しい〉といった結論が出て来るのである。確かに、文章を書くときなど、文末が〈した〉〈した〉〈した〉と並ぶのを嫌って、ときどき〈する〉形を挟んだりして、文末に変化を付けるというようなことはする。このことはテンスの規則がないのではなく、一つ一つの叙述ごとに、その叙述内容についての認識を、書き手は〈した〉〈する〉形で確かめながら筆を運んでいる結果だと考えてよい。
ということは、執筆時の〈現在〉という高みに立って、書くべき文章全体を俯瞰して、やれ現在だ、過去のことだと判定しているわけではない(=これは近代ヨーロッパ言語)、ということである。日本語で言葉を綴るということは、書き出しから順次文章を展開させていくに従って、そのつど叙述の内容を確認しながら、間違いなくそうであった、恐らくそうである、といったふうに文脈に則って判断を進めていく。いわば、電光掲示板に映しだされる文字の流れにつれて折々(今の継起)に判断が下されるとでもいうか、あるいは、全体は見えないが部分的にライトで照らしながら前へと進んでいく、喩えてみれば、そのようなものである。
先の例で説明すれば、〈明日の朝、いちばん早く起き〉までのところは〈起きる〉か〈起きた〉かは、まだ決定していない。〈……子にご褒美をあげよう〉と後に続くことを決めた段階で、初めて〈起きた子に〉とタ形が確定する。褒美をあげるという時点では、間違いなくその子は起きていると認識されるからである。どうやら日本語の時制の認識は、文章の全体像を一挙に見渡す巨視的なものではなく、あたかも点字を上から順番(今の継起)にたどって読み進めるような触覚的なものであるらしい。それだけに表現の展開は、常にその折々の叙述の文脈中の現在に立って、極めて微視的に、事態を把握し時制の判断を下していく。視覚的な前者(文章の全体像を一挙に見渡す巨視的なもの=近代ヨーロッパ言語)は、叙述内容を傍観的にとらえる客体的な対象として、触覚的な後者(今の継起的時間観)は、叙述の内容を直接受け止めて己の視点から判断を下していく主体的な対象として構築していく。前者は、過去か現在かは客観的事態として表現以前に定まっている。一方、後者は表現時の己の視点で決まるわけであるから、それだけ主観性の強い表現方式といってよいだろう。それが日本語の発想というわけである。
語註:「タ・た形」日本語の動詞・形容詞・名詞述語で過去や完了、経験を表す基本的な形です。起きた。食べた。来た。↔「ル・る形」非過去を表す。起きる。食べる。来る。
▶日本語の条件表現は客観的なものか
このように見てくると、どうも日本語の発想は、高みから下界を一気に見下ろす鳥類型というよりは、地面を這って進む爬虫類型、蛇のように前へ進みながら進行方向を適宜変えていくことの許される恣意性の高い言語ということができそうである。事実、日本語では初めに文全体の方向、肯定か否定か、過去か現在か、断定か推量かなどがきちんと決まっているわけではなく、話を進めながら適当に表現内容を選んでいける、文脈に沿って途中でどうにでも変えられる言語である。述語が文の最後に来て、否定や時制・推量などが文の終わりのほうに現れるというのも、文脈づくりの自由さを物語っている。〈・・・とは言わなかったかもしれない〉とか、〈でないこともなかった〉など、言葉の最後まで聞かなければ、話者の言わんとしている主張がわからない。同時通訳者の嘆きの声が聞こえてくるようである。
森田良行『日本人の発想、日本語の表現-私の立場がことばを決める』中公新書(1998年)
さて、上記で、国語学者森田良行は「近代ヨーロッパ語」を「鳥類型≒俯瞰的」とし、「日本語」を「爬虫類型≒その場、その場で方向を考える」と例えています。わかりやすい比喩であると思います。
ただ、森田良行は、もちろん、ここで日本文化一般の「時間観」を論じているわけではありません。しかし、これまで見てきた道元や加藤周一の《今の継起》という時間観から、この森田良行の「助動詞〈た〉」についての考察を見ると、そこにはきわめて興味深い符合が見えてきます。すなわち、近代ヨーロッパ語に表れた時間観と日本語に表れた時間観との違いが、言語表現のあり方にも現れているように思います。
文化の中で形成されてきた「時間の捉え方」の差が、言語・文法の表現にも現れているのではないか…ということです。
「私は学校に行く。」が、文脈によって、「毎日、学校に行く。」、「今から学校に行く。」、「明日、学校に行く。」のいずれにもなりえます。これも、「行く」という出来事をあらかじめ過去・現在・未来という客観的・絶対的な時間座標に文法形式として固定することはせず、そのつどの「《今》と文脈との関係の中で捉える」ことを日本語の性格として考えています。そしてこの「未来」において〈た〉を使用している〈明日の朝、一番早く起きた子にご褒美をあげよう〉は、そのことをさらに鮮やかに表しているように思います。
以下、この文章の英語訳、フランス語訳と並べて、その時間観の違いを図式化してみました。この日本語文章を分析考察することによって森田良行が語る「己が間違いなくそうだと把握した認識の成立」(自己認識的時間観)とは、それは「すべて《今》の時間観」であり、それを加藤周一は「《今》の継起」と表現したように思います。そしてその同じ内容の文章が近代ヨーロッパ語において、「線分的絶対的時間観」の上で表現されることになります。

森田良行のオリジナルでは「明日の朝、いちばん早く起きた子にご褒美をあげよう」ですが、単純化のため「明日の朝、一番早く起きた子にご褒美をあげます」にしました。
私としては、ユダヤ・キリスト教的・線分(始めがあり終わりがある)的時間観と始めも終わりもない、直線的時間観を連想してしまいます。
そして、言語として「自己認識的《今》」が自由に移動する、自分の意識が自由自在に時空を飛び回る…この「日本語」に、ある種「想像力の強さ」を勝手に感じてしまいます…。
以上
2026年9月
No.62 三五夜中新月色 二千里外故人心の「孫文のいた頃」をみる
