ー世界に「日本が存在していてよかった」と思ってもらえる日本に…
「孫文がいた頃」目次
No.1 はじめに
― 120年前、JYDA・HSK神楽坂オフィスから歩いて10分程のところにあった日本語学校「弘文学院」とそこに通った魯迅と『藤野先生』と国際交流の理念
No.2 先ず「日本」について
―「他文化」を学ぶとは「自文化」に気付き学ぶこと…司馬遼太郎『この国のかたち』― 世界に「日本が存在していてよかった」と思ってもらえるために
No.3 孫文のいた頃
― 孫文1897年の初来日と日本全国いたるところに残る孫文の逸話、そして「天下為公」と彼を愛し応援した多くの日本人…私も孫文が大好き
No.4 続「孫文がいた頃」
― 孫文と黄興の出会いは神楽坂、宮崎滔天らの応援と「中国同盟会」結成と清朝の「革命派」、「改良派」も留学、亡命してきていたJYDA・HSK神楽坂オフィス近辺
No.5 続々「孫文がいた頃」
― 孫文の大正13年(1924)11月、神戸での「大アジア主義」の演説とその翌年3月の死…明治維新の理念と藩閥政治の弊害
追記:東京都文京区白山神社にある、「孫文と宮崎滔天が腰を掛けたというだけの石」のための石碑…
No.6 また「孫文がいた頃」
― 孫文らが参考にしようとした「明治維新」と江藤新平、西郷隆盛らの「維新未だ成らず…」
追記:辛亥革命(明治44年・1911)勃発時、同時代人としての日本、中国における政治家と文人99名の年齢表
No.7 またまた「孫文がいた頃」
― JYDA・HSK神楽坂オフィス近辺に集中した中国革命家達と、明治新政府の建国原理の
迷走と「対支21ヶ条要求」(大正4年・1915)(日本帝国主義)そして、それに反対した日本人達…
追記:孫文の「大アジア主義」を評価し、「対支21ヶ条要求」に反対し、東条英機と対立した中野正剛の早稲田大学大隈講堂での演説「天下一人を以て興れ」
No.8 まだ「孫文がいた頃」
― 「日比谷焼き打ち事件」(明治38年・1905)とその10年後の「対支21ヶ条要求」とそれに対する石橋湛山の「日本国民全体の不心得・帝国百年の禍根を残す」という批判
追記:永井荷風の随筆「日和下駄」(大正4年・1915)に登場する荷風の友人であり、正岡子規も高評価した清国の天才夭折俳人・羅臥雲と義和団事件(明治33年・1900)
No.9 まだまだ「孫文がいた頃」
― 日露戦争講和の「ポーツマス条約」&「日比谷焼き打ち事件」(明治38年・1905)の10年前、日清戦争講和の「下関条約」(明治28年・1895)以降を丸山真男が評する「退廃を蔵した個人主義の蔓延」と「大久保と西郷の国家論の違い」と夏目漱石の「三四郎」(明治41年・1908)、「それから」(明治42年・1909)
No.10 なお「孫文がいた頃」
― 夏目漱石と石川啄木の「時代閉塞の現状」(明治43年…1910)と漱石も熟読したニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』と相変わらず問題になる「建国の理念と国民教育」の問題…因みに私も『ツァラトゥストラはかく語りき』が大好き。
追記:地図‐JYDA・HSK神楽坂オフィス半径1.5キロに集中したのは中国革命家達のみならず、石橋湛山の東洋経済新報社も漱石も啄木も中野正剛が演説した早稲田大学も…
No.11 なおなお「孫文がいた頃」
― 明治元年の「神仏判然令」と、ブレない福沢諭吉の知性「文明論の概略」…そして奈良時代の「本地垂迹説」と明治期以前の「神道、仏教、国学の歴史」の概略解説
追記:明治新政府が犯した安易・安直な「神仏分離」と「廃仏毀釈」という失敗
No.12 重ねて「孫文がいた頃」
― 宮中に於ける「廃仏毀釈」と欧米列強に対抗するべく急造せざるを得なかった「国家神道」とそれに伴う「民間信仰」の否定
追記:「本能の神道」と「理性の仏教」は両方とも大好き(神仏混淆)…東京生まれなので神田明神(御霊信仰・民間信仰・平将門信仰)は大好き
No.13 重ね重ね「孫文がいた頃」
―「キリスト教」を根底に置いた欧米列強に対抗するための伊藤博文の「大日本帝国憲法」(国家神道)、そして「日本」と「西洋」の「宗教観」の違い…西郷隆盛が新国家基盤の原理におきたかった「島津氏が持っていた士人の倫理性」
追記:「翻訳の難しさ」と明治以降の「翻訳主義」の功罪…私の「七五三詣で」は明治神宮で、明治神宮が大好き
No.14 なおかつ「孫文がいた頃」
―「教部省(政府による神仏の統合と国民の倫理教育者養成機関)」の失敗と島地黙雷ら「浄土真宗」の巻き返し。「政教分離と信教の自由」そし発生する「国家神道」
追記:「東大寺」(仏教)と「春日大社」(神道)の隣接…奈良を愛した歌人・書家 会津八一の歌集「南京新唱」…私は会津八一の短歌も書も大好き
No.15 またして「孫文がいた頃」
―「国家神道の発生とその派生的展開(信教の自由)」の根拠は『祭祀(儀式)』と『宗教(信仰)』は異なる、という考えから…因みにそれらの時代背景としての完全な独立国家でなかった日本…「安政5年の不平等条約」は安政5年・1858から明治44年・1911まで続いていた
追記:今年2022年は「日中国交回復50周年」と神田「東亜高等予備校」に留学していた周恩来と上海「澎湃新聞」の「日中国交回復50周年記念企画『50年50人』」と評判になった1300年前の「山川異域・風月同天」という国際友好交流のエピソード
No.16 さて「孫文がいた頃」
―「祭政一致的宗教改革(一神教としてのキリスト教化)でもあった明治維新」を基礎とした「大日本帝国憲法」とその補足として「国民」とは何か?を教える「教育勅語」と、そして堕落としての「宗教の倫理(人間)化…」
追記:▶山川異域・風月同天―➊ 16文字の詩の説明
唐に送られた「山川異域・風月同天・寄諸仏子・共結来縁」の詩の意味と鑑真和上の渡日
No.17 さてさて「孫文がいた頃」
― 国家神道の嵐の中、それでは当時の本物の宗教家は何をしていたのか?明治期、哲学・宗教界最大の功労者といわれる清沢満之の登場と失敗に終わった東本願寺維新
追記:▶山川異域・風月同天―➋ 詩の背景
「山川異域・風月同天・寄諸仏子・共結来縁」の背景と第9次遣唐使(養老元年・717)における、日本と唐、20名の同時代人一覧表…李白も杜甫も王維もいる…私は唐詩、漢詩が大好き
No.18 明けても「孫文がいた頃」
― 清沢満之の活躍:東京大学哲学科でフェノロサよりヘーゲルを学び、親鸞の思想に素手で迫り浄土真宗の核(阿弥陀如来信仰・他力思想)を哲学的に研究、哲学から宗教への躙り寄り。「仏」を「絶対無限」と表現する…また、私塾「浩々堂」を設立、多くの弟子を輩出し本来の「仏教・浄土真宗」の普及に尽力する
追記:▶山川異域・風月同天―❸ 『天平の甍』と『鑑真大和上之研究』
60年前に発表された作家、井上靖の小説『天平の甍』と美術史家、安藤更生の研究論文『鑑真大和上之研究』と唐招提寺
No.19 暮れても「孫文がいた頃」
― 清沢満之の夏目漱石への影響、漱石の小説『行人』の読み方に定説は無く「こうじん」とも「ぎょうにん」とも読める。また日露戦争以降の西欧との「同等」と「同質」の混同から来る混乱と、今日に到るまでのその継続
追記:漱石の漢詩と永井荷風の「日和下駄」にみる「水」の使い方と、或いは漱石は荷風を評価していたのでは…
No.20 晴れても「孫文がいた頃」
― 夏目漱石の小説『行人』の第4編「塵労」における兄・一郎の「不安・憂鬱」と「仏教的悟り」に到る可能性
追記:漱石の愛した良寛上人の漢詩と書
No.21 雨でも「孫文がいた頃」
― 夏目漱石の小説『行人』と『こころ』から明治建国期における「日本の基準」の模索を考える
追記:漱石の弟子・鈴木三重吉と『赤い鳥』運動
No.22 曇りでも「孫文がいた頃」
― 夏目漱石の小説『心』に登場する3名(K、先生、乃木大将)の自殺動機の違いと漱石が考えた「日本の基準・日本の倫理」
以上